実験カルタ小説

「む・す・め…」

(上)


        ○

  時の流れは、「忘却」という封印さえも風化させてしまうものなのかも知れない。

        (1)

  風化して切れそうではあったが切れずにいた封印を切るきっかけになったのは、小学校六年になる愛娘だった。
  娘の名は、ユキという。私が二十六歳の時の娘だ。一人っ子なので、家の中では、私と妻が、遊び相手であり、話相手である。弟か妹が欲しかったが、あいにくその後、子宝には恵まれない。
  去年の十二月のことだった。毎年恒例のクリスマスプレゼントのシーズンである。慣例に従い、それとなく何が欲しいかをユキに聞いた。サンタクロースの存在をすでに信じなくなっていた娘であったが、二十五日の朝には、いつも「私これが前から欲しかったの。」と、喜んでくれるのだった。
  もちろん、娘に欲しい物を聞くのは、妻のアキコの役目だ。私には、それとなく聞くという技は使えない。
  「ユキは、百人一首の札を一組ほしいそうよ。」
  妻のその一言に、私は驚きを隠せなかった。
  「な、な。なんだ。それは……。」
  「そんな驚くことないじゃない。百人一首って、ほら、お正月にやるカルタ取りよ。理数系のあなただって、中学とか高校で少しは習ったでしょ?」
  「ああ…。でも、なんで、また…?」
  「ユキのクラス担任の宇佐美先生が、冬休み明けにカルタ大会をやるからって、札を見せたらしいのよ。一首でも多く覚えましょうねって。それで、歌を覚えて優勝するんだってはりきってるのよ。」
  「へえー、今時の小学校じゃ、百人一首なんてやるんだ。」
  「そうね。若い先生なのに珍しいかもしれないわね…。それでね、ユキったら、サンタさんにもらえたら、教えてねなんて言うのよ。ほら、和歌だし、歴史的仮名遣いだし、ユキには、まだ難しいわよね。」
  「あいつも、とぼけてくれるじゃないか。でも、おまえ百人一首やったことあるか。」
  「ないけど、ユキと一緒に覚えるつもりよ。理数系のあなたと違って、こう見えても国文科の出身ですからね。なんとか、ユキを優勝させてみせるから。」
  「あまり、無理に詰め込むとかえって嫌いになっちゃうぞ。」
  「あなたが、教えた将棋みたいね。」
  「また、それを言う。昔のことだろ。」
  たしかに、娘を遊び相手にするつもりで、妻に言わせると私の唯一の趣味である将棋を教えたことがあった。駒の動かし方やルール覚えてくれたのだが、六枚落ちの定跡などを教えているうちに嫌になってしまったようだ。今では誘っても見向きもしてくれない。
  「どうせあなたは、百人一首なんて知らないんでしょう。黙って見ていてちょうだい。あたしは、嫌いになるような教え方はしないから…。」
  こう言われては、引っ込まざるをえない。それにしても、この強い自信は一体どこから出てくるのであろうか。結婚する前は、おとなしい静かな女性というイメージだったが、子供が産まれてからは明らかに変わった。
  そして、妻は、自分と出会う以前の夫につ
いては、案外知らないものなのだ。

  「わあ、パパ、ママ。サンタさんは今年もわたしの一番ほしいものをプレゼントしてくれたの。」
  「そうか。それはよかったな。」
  「よかったわね。」
  我が家に来るサンタクロースの正体が、バレていても知らぬ顔を決め込んでいる親子というのも不思議なものだ。今更、娘に告白しても、「知っていたわよ。」と言われるのがオチである。おそらく、娘から切り出してくるまでは、この関係は変わらないのだろう。クリスマスの朝の白々しくも微笑ましい光景は、いつまで続くのであろうか。
  そして、この日の晩から、妻の娘に対する特訓が始まった。

        (2)

  「ユキ、毎日少しずつでもいいから、覚えるのよ。いい。」
  「はぁい。ママも一緒にやるのよね。」
  「そうよ。ママは、本を買ってきたのよ。これで、歌の意味だってわかるからね。なんでも聞いていいからね。」
  「うん、なんか楽しみよね。昔の人の絵もきれいだし。」
  「じゃあ、順番にいこうね。最初は、天智天皇。『秋の田のかりほの庵のとまを荒らみわが衣手は露にぬれつつ』。じゃあ、ママのあとについて言ってみましょう。」
  「秋の田の」
  「秋の田の」
  「かりほの庵の」
  「かりほの庵の」
  「とまを荒らみ」
  「とまを荒らみ」
  「わが衣手は」
  「わが衣手は」
  「露にぬれつつ」
  「露にぬれつつ」
  「覚えた?」
  「なんか呪文を唱えているみたい。」
  「まあいいから、何も見ないで言ってごらんなさい。」
  「あ、あきのたの…、かり、かり、なんだったっけ。」
  「かりほの庵のとまを荒らみでしょ。」
  「ねえ、ママァ。これ、どういう意味なのか教えてよ。意味がわかんないと覚えらんないよぉー。」
  「そうねぇ。そうかもしれないわね。えーと、この本によると『秋の田のほとりの仮小屋の屋根を葺いた苫の目が荒いので、私の袖はずっと濡れ通しであるよ。』ってことらしいわね。」
  「なんだかつまらない。」
  「まあ、たしかに歌の意味は面白くないかもしれないわね。でも、覚えるのよ。いい、和歌はね、いや、短歌はね、五七五七七という字数で、基本的に三十一文字からできてるの。」
  「それ知ってる。先生が教えてくれた。五七五のほうを上の句って言って、七七のほうを下の句って言うんでしょ。」
  「あら、よく知ってるわね。それでね、上の句を読んで、下の句の書いてある文字の札を取るのよ。だから、カルタ大会で勝つためには、歌を覚えることが大切なのよ。」
  「うーん、でも、こんなにつまんないなら覚えるのやめようかな。」
  「なに言ってるのよ。一首も覚えないでやめちゃうなんて。取りあえず、この一首はマスターするのよ。」
  「ねえ、先生も言ってたけど、なんで和歌は、一首って数えるの?」
  「知らないわよ。そんなことより、もう一回、暗誦してごらんなさい。」
  「ママ、何でも聞いていいからねって言ったじゃないの。嘘つき。」
  「この子は、親に向かってなんてこと言うの。そんな質問は、どうして動物は一匹って数えるのとか、どうして鳥は一羽って数えるのって質問と一緒でしょ。理由なんてわからないわよ。『そういうんです。』って覚えておきなさい。とにかく今日は、秋の田の歌を覚えるまでは、終わらせないからね。」

  「これじゃ、ユキはカルタ嫌いになっちゃうぞ。」
  私は、部屋の片隅で将棋雑誌の次の一手をながめながら、心の中で呟いた。妻と娘のやりとりを聞いていると、次の一手などまともに考えていられない。しかしながら、ここで口出しをしようものなら、妻のどんな反応が返ってくるかは容易に想像できるので、本を眺めている格好をしているのだ。
  今日は、だいたい小学校の終業式だったはずだ。通知票はどうしたのだ。いつもなら、夕食が終わってしばらくすると恥ずかしそうに私のところに持ってくるのだ。どうせ妻はハッパをかけるのが専門なのだ。せめて私はよいところを見つけてほめてやるようにしている。すると娘はにっこりと微笑んで、「また今度がんばるから。」と言うのだ。妻が、こうした我が家の大事な年中行事を忘れてまで、百人一首に熱中するとは意外だった。とりあえず、ユキはなんとか秋の田の歌を暗誦できたようだ。こうして、カルタ修業の第一日が終わった。

        (3)

  修業二日目、娘は冬休みであるから、妻の監督のもと、午前中に宿題の一日のノルマを果たし、午後は百人一首の暗記をしていたようだ。私が仕事から帰ってくると、歌を写したメモ書きが散らかっていた。「春過ぎて」「あしびきの」「田子の浦に」の三首を覚えたようだった。
  「どうだ。ユキ。百人一首は覚えたか?」
  「やっと四つ。つまんないから、もうやめようかな。」
  「あなた、余計なこと言わないでよ。あたしが教えているんだから。」
  「まだ、何も言ってないじゃないか。なあ、ユキ。夕飯食べたら、『坊主めくり』でもやるか?」
  「何、『坊主めくり』って?」
  「あなた、変なこと教えないでちょうだいね。」
  「何も変なことじゃないよ。百人一首の絵札を使ったゲームだよ。」
  「わー、面白そう。パパ、教えて。」
  「よし、じゃあ、ママも一緒にやろうな。」
  「あたしは、台所の片付けもあるんだから、少しだけよ。」
  こうして、私が『坊主めくり』を教えることになった。何も教えるなどという大層なものでもない。きわめて単純なゲームだ。地方によっては、様々なルールがあるらしいが、私はひとつしか知らない。
  「絵札を裏返して、山積みする。あまり背が高いと崩れやすいから、山を四つ作ろう。」
  「うん、わたしにやらせて。」
  「よし、じゃあ、じゃんけんで順番を決めよう。勝った人から右まわりに一枚ずつ札を引くんだ。」
  「どこの山から取ってもいいの?」
  「ああ。それで、男の人だったら、自分の前に貯める。お坊さんが出たら、自分の札を全部場に出さなければいけない。」
  「それで、『坊主めくり』って言うんだ。」
  「そうだよ。それで、お姫さまを引いたら、場の札をもらえるんだ。場に何も無い時にお姫さまを引いたら、おまけでもう一枚引いていいんだ。」
  「どうしたら勝ちになるの?」
  「最後に一番札を持ってる人が勝ちだ。」
  「じゃあ、じゃんけん、ぽん。」
  「わーい、勝った。わたしから始めていいのよね。」
  こうして、我が家で初めての『坊主めくり』が開始された。

  「ユキ、その頭巾をかぶっているのはお坊さんだよ。」
  「えー?」
  「そうよ。蝉丸っていう琵琶法師なのよ。」
  「へぇー。じゃぁ、わたしの札出さなきゃいけないの。」
  「ああ、そうだ。」
  「さぁ、ママの番よ。えいっ。やったぁ。お姫さまよ。」
  「ママ、ずるーい。」
  「ずるくないわよ。これで逃げ切りね。」
  始める前は、不機嫌だった妻が、結構熱くなっている。妻の勝負に対する執着心が勝利を呼び込んだ。結局、妻が八十三枚を獲得し、娘が十二枚、私が五枚だった。
  「もう一回やろうよ。」
  ユキがねだるが、妻は素っ気なかった。
  「ママは、片付けがあるから、もうできないわよ。」
  勝ち逃げは、勝負事の定跡かもしれない。
  「また、今度やろうな。」
  私も、逃げを打った。娘がカルタ札に少しでも馴染めば、それでよかったのだ。
  封印は切れる寸前だった。

        (4)

  年末は、普段いくら暇そうな会社でも忙しいものだ。仕事納めの迫ったこの日の私の帰りは遅かった。ユキはすでに眠っているようだった。妻も私の食事の仕度をすると、「先に休むわね。ちゃんとお風呂はいって寝てちょうだいね。」と言ってさっさと寝てしまった。札は散乱しているようだが、百人一首の暗記はどうなったのだろうか。気にはなったが、仕事の疲れもあって食事を終えると猛烈な睡魔が襲ってきて、どうでもよくなってしまった。
  翌日は、仕事納めだった。一年の区切りを感じ、これでしばらく休めると思うとホッとする。しかし、納めの打ち上げがあり、飲めない酒を飲んで帰りが遅くなる。

  「ユキ!そんな中途半端なことでどうするの?」
  「もう、いい。覚えるのやめる。」
  「うちの人たちったら、まったく…。」
  妻と娘の口論で目がさめた。飲めない酒を結構飲んだせいか、頭がさえない。昨晩の打ち上げの席からの記憶が断片的だ。家に帰って「水をくれ。」と言った記憶はあるが、あとはよく覚えていない。妻になんかガミガミ言われたような気もする。こういう時は、いつまでも寝ているとますます妻の機嫌を損ねる。取りあえず、布団をあげる。畳の上にべチャッとすわったまま、襖をあけて、「おはよう。」と声をかける。
  「パパ、おはよう。」の声が返ってくるかと思ったら、「ママなんか嫌い!」の声とともに数枚の百人一首の札が飛んできた。
  私が座っている場所の左前方約五〇センチくらいのところに「きりたちのほるあきのゆふくれ」と書かれた札が逆向きに落ちた。

  「プツン。」
  心のどこかで封印の切れる音がした。
  パシッ、バンッ。

  私の身体は無意識のうちに、左手を支えに左膝を支点として、右手でその札を左に払い、左手の外側の畳を叩いていた。
  「…っ?」
  「?」
  妻も娘も、畳を叩く音に驚いたのか、私が札を払うのに驚いたのかわからないが、いぶかしげな顔をしてこちらを見ている。
  私は娘が投げた札の中から無造作に札を一枚取ると先程の「きりたち…」の札が落ちた場所と同じところに置いて、同様に札を払った。そして、また、札を一枚取り上げて払う。
  「パパ、なんか格好いいよ。」
  五回くらい繰り返した時だろうか、娘が声をかける。
  娘の声で我にかえったのか、それまで呆然と見ていた妻が、私に問う。
  「あなた、いったい何なの?」
  「見ればわかるだろう。札を払っているのさ。」
  こう答えつつ、今度は右前方に札を置いて、右膝を支点に札を右に払い、右側の畳を叩く。今までの払いがフォアハンドだとすれば、今度はバックハンドだ。
  「そんなこと見れば、わかるわよ。わかるけど、うーん、なんていうか、そう、さまになり過ぎてない。」
  「そりゃ、そうだろう。高校で2年間みっちりやってたんだ。」
  「わたしには、何も言ってなかったじゃないの!高校時代は歴史研究部って言ってたじゃない。なんで隠してたのよ。」
  「別に隠していたわけじゃない。歴史研究部っていうのも本当だ。三年の時だけだったけど…。」
  娘は、私たちの会話を興味深げに聞いている。
  「二年間カルタに打ち込んで、結果も出たから、受験もあるのでやめたんだ。」
  「結果って?」
  「A級という最高のランクでの優勝と団体戦での優勝。五段も取った。」
  「すごいじゃない。そんな実績があるなら、あたしに言ってくれてたってよかったじゃないの。」
  「君と知り合った時には、もうやめて久しかったし、過去のことだし、別に言うほどのことじゃなかったんだよ。」
  「………。」
  妻の沈黙は、不審を感じたからに相違ない。この居心地の悪い間を救ってくれたのが娘の一言だった。
  「パパ、五段なの。すごーい。ねぇー、ユキに教えてよ。」
  「よし、じゃあ、払いを教えてやろう。札を持っておいで。」
  とりあえず妻の追求からは逃げられそうだ。

        (5)

  「封印」、それは「忘却」することだった。いや、「忘却」し続けようという決意だったというべきだろうか。実際には、忘れさることなどはできないのだ。心の奥底の迷路のはてにしまい込み、封印した想い出なのだ。実際には、忘れ去ろう、忘れ去ろうと無理をして忘れられないから逆に一番深いところにしまって鍵をかけてしまった想い出というべきだろうか。
  二十年以上も前のことだ。私自身が子供だったのだ。それを愛と言えたかどうかもわからない。ただ、自分では初めての相思相愛の相手と信じていた女性の裏切りを忘れたかったのだ。
  高校に入って、部活動の勧誘をしていたのが、その先輩だった。中学を出たての少年にはその先輩の美貌はまぶしかった。肩より長い髪、涼しげな眼差し、理知的な唇、身体全体からオーラが出ている第一印象だった。カルタ部に入ったのは、その先輩に憧れたからだ。先輩は、カルタも強く、フォームも美しかった。練習でよい取りをすると誉められる。それが嬉しくて練習に励んだ。この競技は私に向いていたのだろう、上達は早く、カルタを始めて一年でA級優勝を遂げた。
  「カルタの強い人が好き。」
  先輩は私によくこう言った。先輩に好かれるために頑張った。その後も優勝を重ね、先輩と決勝戦で対戦したこともあった。先輩は、本当に強かった。先輩は私の実力を認め、自分の特別練習のために家に招いてくれるようになった。詠み手は先輩の妹がつとめてくれた。こうして、先輩との仲は、私のカルタの実力アップに比例して、親しくなっていった。くちづけの甘さを教えてくれたのも、女性の肌の温もりを教えてくれたのも先輩だった。しかし、裏切りの日は突然にやってきた。先輩は高校卒業とともに、結婚してしまったのだ。
  「いい想い出よ。」
  未練がましく、問い詰める私に先輩は一言こう言った。
  私は、彼女に関する全てを忘れることにした。カルタ部もやめ、札も賞状も免状もすべて燃やした。しかし、忘れ去ることはできなかった。そこで、想い出に封印をし、心の底にしまい込むことで「忘れた」ことにしたのだった。
  もちろん、カルタは二度と取らなかった。私にとって「カルタ」イコール「彼女」だったからだ。

  二十年の歳月が「忘却」という封印を風化させていた。娘の「百人一首」との出会いが、私の心の封印を切ったのだった。「カルタ」は思い出しても、付随する想い出は忘れたままにしておきたかった。それには、娘と「カルタ」の想い出を築いていくことが新しい封印になってくれるだろう。私は、娘に「カルタ」を教え始めた。

        (6)

  「ユキ、こっちに座ってごらん。畳のこの幅が、競技に使う幅だ。」
  私は、娘と正対面し、畳の短い一辺の両端に札を裏返して一枚ずつ置いた。そして、その札から間を一センチずつあけて二枚の札を畳のへりに沿って裏返しで、左右一枚ずつ置いた。
  「この左右三枚ずつ札を置いた範囲を自陣という。ユキから見たら敵陣ということになる。ユキの自陣を並べてごらん。」
  「パパ、裏返しでいいの。」
  「今は、払いの練習のための準備だから、裏返しでかまわないから…。パパの陣の一番上の札との間は三センチあける。そう、そうだ。それでいい。」
  娘は、見よう見まねで札を並べた。
  「じゃあ、構えてみよう。まず、真ん中に正座。左膝をちょっと下げて。」
  「こう?」
  「ああ、それでいい。左手は、自陣の左下の札の下に置いて、まだ、身長がないからもうちょっと内側にしようか。」
  「このくらい?」
  「うん。いいぞ。それで、右手をこういう具合に真ん中に置く。」
  私は自分でやってみせながら教える。
  「そう、右手は卵を軽く握る感じで。よし、うまいぞ。」
  「パパ、ユキ。ママは忙しいからね。終わったら自分達でちゃんと片づけるのよ。」
  「ああ、わかったよ。」
  妻は、自分が娘に教えようとしてうまくいかず、私にその座を奪われたせいか、ご機嫌斜めのようだ。
  「よし、じゃあ、パパが札を払うのをよく見て。」
  パシン、バン。娘の右下段の札を払う。
  「じゃあ、ユキ、やってごらん。」
  バタ。娘は札の手前の畳を叩いていた。
  「いいかい。札は押えに行くんじゃないんだ。払いに行くんだ。手首をぶらぶらさせてごらん。」
  「こう?」
  「そうだ。手首を効かせて、指先で札を払う。いいかい。」
  「うん。」
  パスン。今度は、札の手前の畳を指先でかすめていた。
  「手だけで取りにいこうとしちゃいけない。膝を支点にして、腰を浮かして、体ごといくんだ。良く見てごらん。」
  ゆっくりと動作だけをやってみせる。
  「このまま、だと体の重心のバランスがくずれて、つんのめっちゃうから、重心をもとにもどすためにこっちの畳を叩くんだ。じゃあ、やってみて。」
  パシン、パン。
  「そう、そんな感じだ。じゃあ、同じ場所に札を置いて、体が覚えるまで何度でもやってみる。」
  「うん。」
  娘は不思議そうな顔をしながらも、何度も払いを繰り返す。徐々に様になっていく。慣れてきたところで、今度は、逆サイドの相手陣の左下段の払いを同じ要領で教える。最初は空振っていたが、繰り返すうちにコツを覚えていく。
  「どうだ。疲れないか?」
  「大丈夫。」
  「じゃあ、今日の払いの練習はこれで最後だ、自陣の右下段の払いをやろう。構えたところから右横に手をスッとだして払う。」
  やってみせると娘は真似をする。今までの二箇所の払いで感覚を掴んだのだろうか、体がスムースに動いている。
  「そうだ。うまいぞ。その感じで今度は、払い終わったあとに、体の重心を戻すために畳をこういうふうに叩いてごらん。」
  説明しながら、実演をする。
  パシン、バン。
  娘が真似をする。結構、様になっている。この払いを繰り返しやらせて体に覚えさせる。
  「よし、じゃあ、休憩しよう。休んだら、今度は札を覚えて実際に取ってみよう。」
  「えー、覚えなきゃいけないのー?」
  私は声をひそめた。
  「ママがやっていたような覚え方じゃない。もっと簡単だから…。」
  「本当?」
  「ああ、本当だ。」
  私は、娘がトイレに行っている間に取り札のうちから何枚か選び出していた。

        (7)

  「ユキは、百人一首の札を結局何首覚えたんだ。」
  「五つ。」
  「本の順番で覚えたんだよな。」
  「うん。」
  「じゃあ、この札の歌を言ってみな。」
  私は「わかころもてはつゆにぬれつつ」と書かれた札を見せた。娘は、一生懸命思い出しているようだった。
  「えーと、『わがころもではつゆにぬれつつ』だから、えーと…、えーと、天智天皇で『秋の田の刈り穂の庵の苫をあらみ我が衣手は露に濡れつつ』。」
  「正解。じゃあ、これは?」
  「『ながながしよをひとりかもねむ』だから、『春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干てふ天の香久山』じゃないんだから、次は柿本人麻呂で『あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかもねむ』。」
  「正解。じゃあ、これは?」
  「パパ、やだ。さっきのやつでしょ。天智天皇『秋の田の刈り穂の庵の苫をあらみ我が衣手は露に濡れつつ』でしょ。」
  「ブー。はずれ。よく見てごらん。」
  「あっ、ずるい『わかころもてにゆきはふりつつ』じゃない。こんなの知らないよ。」
  「ずるくないよ。ユキが思い込んで見るから、間違えるんだよ。それより、ユキは作者の名前と上の句から順番に言っていかないと思い出せないのかい。」
  「うーん、全部言わないと下の句まで言えない。」
  「いいかい。カルタ取りには、作者を覚える必要もなければ、歌を全部覚える必要もない。」
  「えっ? そんなんでいいの? ママは全部覚えなさいって言ってた。」
  「取り札を見て、いちいち作者から上の句から全部言って何の札か思い出していたら、時間がかかってしょうがない。札を早く取るためのカルタ取りには関係ないんだ。そういうのは興味を持つようになったら、覚えればいい。カルタ取りには、必要最小限でいい。」
  私は、「きりたちのほるあきのゆふくれ」という取り札を娘に見せた。
  「カルタ取りは、場にある『取り札』を見て、その札の上の句が詠まれたら取るものだ。だから、『取り札』を見て、その札の上の句を思い出せなければいけない。いいかい。この『きりたち』って札を見たら、『む』と覚える。それだけでいい。」
  「え? それだけでいいの。簡単じゃない。」
  「これは?」
  私は、もう一回、娘に「きりたちのほるあきのゆふくれ」の札を見せた。
  「『む』でしょ。」
  「そうだ。これで一枚覚えた。」
  「簡単。」
  「百枚の札の中に『む』で始まる札は一枚しかないから一字覚えればいい。こういう札は、『一字決まり』と言って全部で七枚ある。」
  次に「ゆめのかよひちひとめよくらむ」という札を見せた。
  「これは、『す』だ。いいかい、取り札の文字を全部読むことはない。目立つ単語とか文字とか取り札全体の雰囲気で覚えればいい。この札だったら、『ゆめ』だな。」
  「『ゆめ』は、『す』ね。」
  「そうだ。さっきユキは『わかころもて』の札を間違えただろ。あれは、札の一部を見て条件反射的に答えたから間違えたんだけど、あの間違えの要領で覚えるんだ。ああいう間違えやすい札は、数枚しかないから、特別に教えるから大丈夫だ。今は、取り札の持つ全体の形というか雰囲気というか、見た目で覚えるんでいい。」
  私は、「きりたち…」の札と「ゆめ…」の札を裏返して、片方をパッと開いた。
  「これは?」
  「『きり』は、『む』。」
  「そうだ。」
  もう一枚を表にする。
  「こっちは?」
  「『ゆめ』だから『す』。」
  「よし。それから、いちいち『きり』だからとか『ゆめ』だからって言わなくていいからな。『む』とか『す』だけでいい。」
  三枚目には「くもかくれにしよはのつきかな」という札を見せた。
  「これは、『め』だ。」
  「『め』!」
  「そうだ。いいか、覚えたか。じゃあ三枚のどれからいくかわからないからな。出た札を『む』、『す』、『め』で答えるんだぞ。」
  私は三枚の中から適当に一枚を見せた。「くもかくれ…」だった。
  「『め』。」
  「よし、次。」
  次は「きりたち…」だ。
  「『む』。」
  「正解。」
  最後は「ゆめ…」の札。
  「『す』。」
  「いいぞ。三枚完璧にマスターしたな。」
  「えへっ。」
  ほめられたのが嬉しいのか、娘は少し照れたような笑顔を見せた。
  「じゃあ、この三枚で、さっきの取りの練習をしよう。さっき取りの練習をやった三箇所に一枚ずつ裏返しで置いてごらん。」
  娘は、言われたとおりにする。
  「その場所で、札を表にして、相手の陣の札はユキからは逆さまに、自分の陣の札はユキのほうにむけて置くんだ。」
  「はーい。」
  「じゃあ、パパが最初に『わがころもではつゆにぬれつつ』って詠んで、ちょっと間を置いて『む』か『す』か『め』で始まる歌を詠むか  ら、ユキは、さっき覚えた要領で詠まれた札を払う。わかった?」
  「わかったけど…。なんで『わがころもでは』って関係ない歌を詠むの?」
  「普通は、前に詠まれた札の下の句を詠んで、次の札の上の句を詠むんだ。いきなり上の句を詠むんだといつ札を取る準備の姿勢をしていいかわからないだろ。」
  「うん。」
  「だから、徒競走の『位置について、よーい、ドン』という掛け声の『位置について、よーい』にあたるのが、前の札の下の句なんだ。」
  「へぇー。」
  「一枚目の時は、前の札が無いからどうすると思う?」
  娘は、しばらく考えていた。
  「わかった。『わがころもではつゆにぬれつつ』って詠む決まりなんだ。」
  「ブー、残念でした。今、『秋の田』の札の下の句にしようと思ったのは、ユキが最初に覚えた歌だからわかりやすいと思ったからさ。本当は、最初に詠む指定序歌というのが決まっているんだ。」
  「指定序歌?」
  「『難波津に咲くやこの花冬ごもり今を春辺と咲くやこの花』というんだ。まあ、今は知らなくてもいいさ。」
  「………」
  「じゃあ、始めるぞ。」
  「はい。」
  私は、「秋の田」の歌の下の句を詠みはじめた。
  「わがころもではつゆにぬれつつ…。すみのえのきしによるなみよるさへや。」
  娘は、相手陣の左を払った。
  「上手だ。いい払いだぞ。じゃあ、取った札は自分の左うしろに裏返して置いて。」
  「右じゃだめなの?」
  「ユキは右ききだから、右に置くと右手で取った札の山をくずしちゃいやすいだろう。だから、利き手と逆の左に置くんだ。」
  「へえー。そうなんだ。」
  「じゃあ、次は、ゆめのかよいぢって下の句から詠んで、次の歌を詠むから。今出た札の下の句から詠み始めることになっているんだ。」
  解説をしながら、次の札を詠んだ。
  「ゆめのかよいぢひとめよくらむ…。めぐりあいてみしやそれともわかぬまに。」
  パシン、パン。今度は自陣の右下段を払った。
  「よし、それでいい。」
  「カルタ取りってこういうもんだ。明日また、一字決まりの残りを教えてあげるから、今日は冬休みの宿題でもやりなさい。」
  「えっ、もっとやろうよ。」
  娘は、覚え足りないらしくねだってきたが、妻の手前もあり、この日はこれでやめにした。まだまだ、冬休みは長いのだから。



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1999/AUG,(C)Hitoshi Takano