札模様  第五章

  六月  ――梅雨入り――


   

       六月のキャンパスは、学生人口が少ない。大学生活に馴 染んだ新入生は、出席しなくてもよい講義の壷を心得る時 期だからである。
 ミツオは入学して三年め、普通なら三年生として三田キ ャンパスに通っているはずであった。しかし、なぜか二度 目の二年生生活を日吉キャンパスで過ごしていた。敷島は、 「待っていてくれてありがとう」などと言うが、何も友情 で留年したわけではない。言い訳するわけではないが、ミ ツオは昨年の轍をまたも踏んでしまったのだ。学年末試験 の直前、インフルエンザの魔の手にかかり、最悪のコンデ ィションで迎えざるをえなかったのだ。こんな結果になる なら、無理して試験を受けずに診断書を取って追試手続き を取ればよかった。追試は金もかかるし、手続きも面倒な ので、多少の無理をしても期間中に受けようと考えたのが 失敗であった。三月に届いた成績表を見たら、あと一科目 の合格で進級だったのだ。結局は、自己管理の甘さなのだ。 責任は自分以外のどこにもない。かくなるうえは、昨年の 敷島のように、与えられた時間を有効に使うしかない。三 年生になるための科目はあと一つだが、本来日吉キャンパ スの設置講座で取らなければならない科目は、他にわずか 二つである。したがって、アルバイトで金を稼ぐのとサー クル活動とに充分に時間を割くことができるのだ。しかし、 それだけではあまりにもったいないではないか。バイトす るために大学に入ったのではないし、かるたを取るために 大学に通っているわけではないのだ。ミツオはこの機会を 利用して、いろいろと興味のある分野の講義を履修してみ ることにした。留年もまた「人間万事塞翁が馬」と考えれ ばよいのだ。最近では、ミツオもこの生活のリズムに慣れ てきた。
 一方、かるた会の変化も徐々に明確化してきていた。要 因の一つは伊能の就職である。なにしろ、学部で五年、大 学院で五年と合計十年に渡って、かるた会の精神的支柱と して存在してきた伊能がとうとう大学を去り、遠くに行っ てしまったのだ。ある企業の宮崎県の延岡研究所勤務であ る。さすがに博士課程に進んでからは、研究が忙しく、練 習に顔を出す回数も減ったが、各会員にとっては頼りにな る大先輩であった。さらに歴代会長にとっては、会の運営 について相談できる良きアドバイザーでもあった。瀬崎に とっても例外ではなかった。会長職を誰に譲位すべきかで 悩み、伊能にさんざん相談したのだった。この結果、現在 は、石田 基が会長職に就いていた。
 強さでいえば、文句なく西寺 守がふさわしいが、次期 会長問題が浮上してきた時期には、彼はたまにしか練習に 来ない気まぐれ屋だった。会長職をやりたいという気持ち が一番強かったのは、山根志保である。しかし、彼女に任 せると暴走の恐れがあり、他がついてこない。敷島邦郎は 一年時の留年のハンデを背負っているので、練習に出る負 担の多い仕事をさせるのには躊躇がある。佐多三男を指名 すると彼をライバル視する志保がつっかかってきて会をか き混ぜるのは目に見えている。春日あかねも女流大会でB 級優勝を遂げてA級にあがったが、線の細さは如何ともし がたい。志保がミツオにつっかかる理由の一つには、彼女 の存在というのもあり、会をまとめる力にはならないだろ う。消去法で石田が残ったようだが、そうではない。苦労 してB級にあがった彼の練習態度は、真剣、真面目、熱心 であり、会の雑用的仕事も厭わずにこなす。かるたの力を 伸ばせない理由にもなりかねない気配りを心がける性格は、 逆に会長の職務には向いている。会の中でいわゆる敵はい ないし、敷島とミツオ&あかねが支持してくれるはずであ る。本人への説得は瀬崎が担当した。他への根回しを、伊 能がやったのは言うまでもない。こうして、石田会長は誕 生したのだった。
 変化はこれだけではない。練習後のレクリエーションア ワーは、完全消滅していた。したがって、市山が遊びにく ることもまったくなくなった。かるた会は練習をするとこ ろで、遊びにくるところではないという雰囲気なのだ。和 気藹々としていた練習の様子も、無駄口一つない厳しいも のに変わっていった。練習においても勝ち負けにこだわる 志保を中心に、年が明けてから急にコンスタントに練習に 来るようになった西寺、二年半のブランクから復活した横 山が、こういうムードをつくりだしていた。慣れない人間 には息がつまる感じだ。この厳しい練習の成果なのか、職 域・学生大会は、A級で準優勝、C級で優勝の成績を納め た。誰もが強豪と認めるチームになった。決勝戦で二勝二 敗のあと、伊能さえ勝てば優勝だったのだ。結局、伊能は 悲願の団体戦A級優勝を遂げることができないまま長かっ た大学生活に別れを告げたのだった。
 新入生は五人で、男一人に女四人だった。ここにも異変 が起きていた。この代、唯一の男古賀昇一は、D級優勝、 C級優勝と各級負け無しでB級に上がっていた。今月中に B級で優勝しようものなら、かるたを始めて三大会、三カ 月でA級である。彼は肩幅ががっちりしており、身長は一 七八センチ、最初から札の前に座っただけで、無理なく自 然に流れるような払いをすることができた。札を全部覚え た瞬間から、泉 美佳、鈴木亜希子や渡部陽子には負けな くなっていた。まさに彗星のごとく現れた新人だった。残 りの女子四人との差は歴然としていた。
 変化といえば、OBで大学職員の高橋が、六月一日付で 異動になったこともそうだ。彼は、三田からも日吉からも 遠い湘南藤沢キャンパスの事務室勤務になっていた。時間 はかかるし、交通費も高くつくし、おいそれと遊びに行け るところではなかった。かるた会員達の身近な相談相手が、 九州ほどではないにしろ、また一人遠くに行ってしまった。 はたして、高橋は練習を続けられるのだろうか。
 こうしてかるた会に変化が訪れても、大会日程は変わら ない。六月の初めには、夏の仙台大会が開かれる。ミツオ たちの大学からも、多くのメンバーが参加する予定だった。

     *

 仙台大会を明後日に控えた金曜日、ミツオはあかねとと もに日本三景の一である松島を訪れていた。松尾芭蕉の「お くのほそ道」にも「扶桑第一の好風」と記されている名勝 である。
 「ねえ、ミツオくん、日本三景の残りの二つ知ってる?」
 「厳島に天の橋立だろ。百人一首に入っているのが天の 橋立一つだけというのは、かるた取りの一人としては寂し い気がするね。」
 「あら、やだ。『ミセ』の歌の『雄島』っていうのは、 ここ松島の雄島なのよ。知らなかった?」
 「えっ、そうだったっけ。へえ、ちゃんとチェックが入 っているね。『チギリキ』の『末の松山』がこっちだって いうのとか、百人一首にはないけど多くの歌人に詠まれて いる『白河の関』はピンとくるんだけど…。」
 「ミツオくんにもそういう抜けがあると少し安心する わ。」
 「そんなに物知りじゃないよ。変なこと言うなよ。それ より瑞巌寺に行くんだろ。」
 あかねが、大漁唄い込みで有名な寺を是非訪れたいと言 うので、瑞巌寺は今日の二人のコースに組み込まれていた。 ここのおみくじには、ダルマ人形の中に巻いた紙が入って いるものがある。さすがに禅宗のお寺である。あかねが赤 いダルマを選んだので、ミツオは白いダルマを選んだ。
 「やったあ。『大吉』だって。待ち人も来ちゃうし、願 い事もかなうらしいわ。A級の初勝利がかなうかしら。」
 「いいなあ。ぼくのは『凶』だって。最悪だね。こうい うのって、ほとんど入れないんじゃなかったかな。こりゃ、 一回戦負けかな。」
 「だめよ、気にしちゃ。少ない本数のほうを引いたんだ から、ラッキーって思っていればいいじゃない。それにミ ツオくんはA級になって、一回戦負けしたことなんてない じゃない。いいわよね。A級で勝率五割を越えているなん て。」
 「でも、一回戦に不戦勝を引けないことが多くてね。入 賞も一度もないし…。志保にそれを言われるのが悔しいよ ね。あいつは、女流大会で三位取ったからな。女流には出 場さえできないからな。」
 「何あたりまえのことを言ってるのよ。志保だって、あ の時以外は、負けてばかりじゃない。勝率では、ミツオく んのほうがいいんだから。」
 「でも、トーナメント戦で入賞の実績を残すには、毎回 一〜二勝するより、他は一コロでもある大会だけ爆発的に 絶好調で連勝するほうがいいんだよね。なにせ、入賞しな いことには年間ランキングに必要な得点を取ることができ ないんだから。」
 「まあ、そりゃそうだけど…。あれっ、あそこいるの志 保ちゃんじゃない。」
 「えっ。あっ、そうだ。ありゃ。行っちゃったね。」
 「あら、私たちに気づかなかったかしら。」
 「えーっ。でも、なんかぼくらに気づいてシカトして行 っちゃったって感じだね。」
 「私たちって嫌われているのかしらね。一年生のころは 人なつっこい子だったんだけど。」
 「結構、勝ち気だし、勝敗に辛いんだよ。それだけ、真 剣かつ非情に勝負の世界に入り込んでいるとも言えるけど ね。自慢するのもライバルをくさすのも、自分を追い込ん でそれをバネにするためのような気がするんだ。競技者と してトップを目指すことをやめたら、昔の明るく人なつっ こい感じに戻るような気がするな。ぼくは、ああはなれな いけど、勝負師としては見習わなきゃならないところもあ るよね。」
 「わたしがたとえトップを目指したとしても、ああいう やりかたはいやだわ。」
 「ぼくも好きじゃないけど、人それぞれだからね。あれ だけ徹底できれば大したもんだと思うよ。」
 「こんな話はやめて遊覧船にでも乗りにいきましょう よ。」
 「ああ。」

 試合の前々日から観光地に来ているのは、時間に余裕の ある学生ばかりかと思うとそうでもない。たまには休暇を 取って、試合ツアーに来ている会社員もいる。ミツオたち は、遊覧船で試合でよく顔を合わせる人に出会った。と言 っても、声をかけてきたのは、向こうからだった。
 「失礼。君たちかるた会の人ですよね。」
 「えっ。は、はい。そうですけど。」
 「仲谷さんですよね。春日です。新春大会で相手してい ただきました。」
 「覚えていてくれましたか。女性に覚えていてもらえる なんて光栄だな。」
 「ぼくは、佐多三男と言います。お顔は試合会場でよく お見かけしますけど、お話するのは初めてですね。よろし くお願いします。」
 「あ、これはご丁寧に。仲谷誠司です。横浜ファルコン ズの所属です。」
 「ファルコンズって格好良いですよね。かるた会の名前 に横文字を導入した嚆矢ですよね。」
 「野球チームっぽいところが気に入ってるんだけどね。 君たちも明後日の大会に来たんだろう。対戦できるといい ね。」
 「いや、まだまだ力不足ですから。」
 「そんな自信なさげなこと言ってちゃだめだよ。慶大さ んは強いじゃないか。ぼくは今年は西寺くんと横山くんに 随分痛い目にあってるよ。」
 「痛い目って?」
 「入賞戦や決勝といった大事なところで負けてるんだよ。 西寺くんは、今売り出し中だよな。静岡大会の決勝でタバ 負けしちゃったよ。」
 「そうですね。静岡はA級初優勝だったんですよ。彼は、 今年になって急に練習熱心になって、六回も入賞してるし、 全日本選手権で準優勝したってのはすごいですよね。」
 「さすがに仲間だね。チームメイトの成績をよく知って るね。」
 「いや、実は一昨日にこういう話題をしてたもんですか ら。」
 「へえ。それから、あの横山くんも正攻法のいいかるた を取るよね。入賞戦で三回も負けちまったけど。彼も今年 は随分入賞したんじゃない?」
 「彼も六回入賞したって言ってましたよ。けど、全部四 位だって嘆いていました。三位がほしいって。」
 「源頼政みたいでしょ。」
 「なんだい。その源頼政って?」
 「鵺退治で有名な平安後期の武将で、『ワガソ』の作者 の二条院讃岐のお父さん。位階が四位からなかなか上がら ずに年をとっていくので、『のぼるべきたよりなき身は木 の下にしいをひろげて世を渡るかな』という歌を詠んだと ころ、その歌が認められて三位になれたって人なんです。 だから源三位頼政と位階をつけていったほうが通りがいい ですね。以仁王をかつぎだして平家追討の挙兵をした武将 でもあるんですよ。」
 「すごいね。随分歴史に詳しいんだね。さすがに現役の 大学生だね。ぼくなんか大学出て早七年だよ。」
 「仲谷さんはいつからかるたをされているんですか?」
 「大学時代に友達に誘われてね。大学のかるた会ではな く、一般会で始めたんだよ。キャリア的には十年になるか な。」
 「仲谷さんにとってかるたの楽しみってなんですか。」
 「なんだよ。薮から棒に。最近の女子大生は唐突に難し い質問をしてくるね。それじゃあ、逆に聞くけど、君にと っては何なんだい。」
 「そうですね。人との出会いが広がる事です。こうして 仲谷さんと知り合えたのもかるたをやっているからだし、 これからもいろんな人と知り合いになれます。それにたと えば、ここにいる佐多くんとは何度も練習で対戦している わけですけど、毎試合新しい佐多くんと出会えるんですよ。 素敵でしょう。」
 「春日さん。君は詩人だね。いいねえー。」
 「からかわないでくださいよ。」
 「いやあー、ごめん。でも素敵な回答だね。ぼくが学生 のころは、そんな詩の心はなかった。ただ、単純に勝つこ とが楽しかった。だから、勝つためにいいと言われる事は いろいろやってみた。お手つきをしても札を取りそこなっ ても、ポーカーフェースで感情を出さないほうがいいとい われればそうしてみた。それで勝利に近づくなら、勝った 時の楽しみのために感情を押さえることができた。でも、 勝つ事にとらわれるあまり、かるた競技自体がつまらなく なっていったんだ。今でも、単純に勝つことは楽しい。だ けど、今では、試合で喜怒哀楽を出して取る事のほうが楽 しい。会社で仕事している時は、自分の感情を押し殺して 宮仕えしているわけだ。趣味の世界まで自分を殺すような 事はしたくないのさ。かるた競技を通じて、自分を素直に 生き生きと表現しているわけなんだ。それが楽しさかな。」  「かるたによる自己表現ですか。仲谷さんだって詩人じ ゃないですか。」
 「そんなことはないよ。不器用な僕は、かるたでしか自 分をストレートに表現できないんだよ。」
眼前に展開する圧倒的な自然の美しさは、人を詩人にし てしまうのかもしれない。ミツオは仲谷の言葉の意味を噛 み締めていた。

  *

 一方、日吉のキャンパスでは、大会参加のための仕上げ とも言える直前練習が行われていた。特に西寺と横山の練 習には鬼気迫るものがあった。
 横山は、二年半のブランクを取り戻すかのように練習に 励んでいた。試合にも積極的に出場し、入賞を重ねていた。 しかし、いつも四位どまりなので、卒業までには是非その 壁を突破するんだと練習にも熱が入るのだった。特に西寺 との練習は真剣だった。最近では、西寺は全国レベルで優 勝を争える実力者と見なされていたからだ。自分より強い 相手と練習することは、己の底力をアップさせるために重 要なのだ。
 西寺にとっては、大学での練習では自分より力が上の相 手と取ることができなかった。もちろん、初心者と取る時 も自身の中にテーマを見つけて練習するわけだが、A級で コンスタントに入賞できるような力のある横山との練習は、 実戦勘を養う貴重な練習だった。
 テニスサークルと掛け持ちで、わりと気まぐれに練習に 来ていたような西寺が、何故かくも真面目に競技かるたと 格闘し始めたのだろうか。実は、西寺にはある目標ができ たのだ。その目標のためにかるたを取り始めたのだ。チー ムのためのかるたであるがゆえに、プレッシャーを感じて 伸び悩んだ高校時代の自分と別れ、自分自身のために取る ことに喜びを見出したのだ。
 西寺の目標とは、名人位を奪取した大学の先輩である重 村と名人戦の舞台でかるたを取りたいということであった。 重村は、名人戦前の調整相手に大学の後輩数人を選んで練 習会を持った。西寺もそこで初めて重村と取ることができ た。その速さ、強さ、華麗さは、西寺を魅了した。そして 応援に行った近江神宮での名人戦。その独特の雰囲気。「こ の舞台設定の中で重村先輩とかるたを取りたい」と西寺は 素直に思った。重村は見るものをうならせるような美技を 随所に見せ、三連勝で名人位を獲得した。最高の舞台で最 高の相手と最高の試合をする夢は、自分が挑戦者になるこ とでかなうのだ。最高の試合をするためには、実力をその レベルまで押し上げなければならない。以来、西寺は練習 に試合に熱心に出るようになった。時間がある時は、他会 の練習にも参加する。高校時代に築かれていた基礎が、こ うして活き始めたのだ。
 この時、西寺対横山戦の他には、古賀対敷島戦、八角対 熊野戦、渡部対鈴木戦が組まれ、石田が詠みをやっていた。 そこへ、泉が部屋に入って来た。
 「アッコちゃん、今日授業全く出てないじゃない。三時 間めは出席カード配ってたわよ。」
 「ミカちゃん、ごめん。で、替わりに書いてくれたわよ ね。」
 「だめよ。最近は厳しくて一人一枚しか配ってくれない んだから。」
 「えーっ。ひどい。困っちゃう。」
 「うるさいぞ。試合中に余計なおしゃべりするんじゃな い。」
 横山が注意する。
 「はーい、すいません。」
 「泉も、練習中に取っている人間に話しかけるんじゃな いぞ。」
 石田も注意する。
 「ごめんなさい。」
 こんなやりとりのあと、数枚の札が詠まれ、今度は一年 生の丸尾と三浦が入ってきた。部屋の隅に荷物を置いて、 上級生の練習を見学しているのかと思ったら、荷物の中か ら時間割を取り出した。これを読みの下の句と上の句の間 の余韻の時にやるものだからガサゴソと音が出て、詠みが 中断してしまう。二人をにらむ石田。この余韻の時に音を 立てるなというのは、入会してすぐに教えたはずなのだ。 再度詠み始める石田。しかし、今度はヒソヒソと話をして いる。余韻になればやめるかと思ったが、余韻になっても 話している二人。石田は詠みを止めた。
 「おいっ。こらっ。うるさいぞ。下の句を詠み始めたら 静かにしろって教えただろう。」
 石田が注意する前に、西寺が叱る。キョトンとしている 丸尾。
 「す、す、すいません。」
 西寺の剣幕に驚いたか、三浦はすかさず謝る。
 「前にも何度か注意されているだろう。詠み手が下の句 を詠み始めたら、選手は、音に集中しているんだから、極 力静かにする。わかった?」
 石田は、会長の仕事といわんばかりに荒れたその場を収 めようとフォローする。
 「はい。注意します。」
 三浦だけが返事をする。丸尾はちょっとふてくされてい る感じだ。
 詠みが続けられ、残り枚数が双方足しても六、七枚くら いになった時に、今度は残りの一年生二人が入ってきた。 斎田と栗原である。取っているのは、横山と西寺の組と古 賀と敷島の組になっていた。古賀はリーチがかかっている。 A級選手に勝って、仙台大会へ弾みをつけたいところだ。 ところが、斎田・栗原組は外から大きな声で話しながら、 詠みの余韻も関係なしに扉をガラッと開けて入って来たの だ。当然、詠みは中断する。いきなり丸尾に話しかける斎 田。状況判断がまるでできていない。
 「マルちゃん、お久しぶりー。元気してた?」
 「うん、元気だよ。」
 まだ試合途中の四人の白い視線が、斎田を射る。
 「取っている試合があるんだから、静かにして。」
 石田の一言で、気付く斎田。
 「あっ、すいません。」
 詠みが再開する。余韻に来て、今度は栗原が、かばんを 落とし、音を立ててしまう。
 「うーん、ちょっと余韻になったら身動きしないでよ。」
 古賀が同じ一年生の気安さからか、文句を言う。あと一 枚取れば勝てるので、相当に気が張っている。言われた栗 原はムッとしている。
 次の一枚は、無事に詠まれた。古賀が敵陣を抜いて勝っ た。残るは一試合であった。
 「古賀くん、強いね。」
 声をかける斎田に対し、人差し指を縦に唇にあてる古賀。 古賀は、残る一試合に気を遣っているのだ。しかし、そう とはわからない斎田はむくれている。詠みが続く。西寺と 横山はついに一枚対一枚にもつれ込んだ。詠みが始まり、 緊張する一瞬。
 ズザッ…。
 丸尾が正座を崩した音だった。
 「XXXッ…。」
 「うっ。」
 対戦者の二人から同時に洩れるうめき声。
 「こらっ。さっきから何回注意されれば気が済むんだ。 詠みに入ったら、音をたてるんじゃない。」
 横山は、切れてしまった。
 丸尾は、自分が注意されているにも関わらず、痺れた足 を揉んでいる。周囲の雰囲気も凍ってしまった。
 石田は、何もフォローできないまま詠み始めた。  「……。ひとはいさ…。」
 一音めに何か音がかぶったような感じがしたが、横山は 西寺の鉄壁の守りをぶち抜いていた。
 「今、誰か音を立てただろ。『ひ』の音に何かの音がか ぶっていたぞ。余韻の時に音を立てるくらいなら、取って いる部屋に入らないでくれよな。」
 三浦は、恥ずかしさのあまり謝ることさえできないでい た。がまんしていたのだが、スーッと体内からガスが出て しまったからであった。西寺はそんなわずかな音が聞こえ たために、H音への反応が一瞬遅れてしまったのだった。  この日の最終練習でも、対戦が組まれた二組の一年生練 習は、「しゃべるな。」「うるさい。」「わけのわからな い主張でもめるんじゃない。」とさんざん上級生から文句 を言われていた。これまでの練習ではこんなに何度も注意 されることはなかったのだが、悪い意味での慣れというも のなのだろうか。
 石田は、他にも困った問題を抱えていた。熊野対古賀戦 を組もうとしたら、熊野からクレームがついたのだった。
 「俺は、古賀の噛ませ犬じゃありません。誰か別の人と 対戦させてください。」
 結局、古賀の相手は、石田が自分で引き受けた。熊野は といえば、泉を相手に気持ちよくタバ勝ちしていた。誰し も試合前の練習では気持ちよく取りたいものだ。
 注意は行き渡らないし、対戦を組めば、拒否権を発動さ れてしまう。石田は会長として、リーダーシップと会の統 率について自信を失いつつあった。

 「一年生にマナーをきっちり教えるのってこんなに難し かったかな。俺達、結構すぐに言われたとおりにしていた けどな。」
 この晩、石田は同じアパートに住んでいる敷島の部屋を 訪れて愚痴をこぼしていた。
 「あまり気にするなよ。おまえのせいじゃないよ。今日 みたいな日は、そうあるもんじゃないから。山根がいなか ったのが不幸中の幸いだったかもしれないぞ。」
 「それは言えると思う。あいつがいたら、『出て行け!』 とか言いそうだもんな。『出て行け』っていうのは禁句だ よな。やめちまって二度と来なくなっちまうよな。」
 「まあ、気が張っているのはわかるけどちょっと神経質 になりすぎのような気がするよ。どんなアクシデントの中 で詠みが続けられるかわからないからな。真の一流選手は、 どんな環境の中でもそれに対応していける選手だと思うけ どな。」
 「うーん。さすがに敷島だね。いい事言うわ。連中に言 ってやってくれよ。」
 「やだよ。俺気が弱いもの。」
 「よく言うよ。冗談は、よしこさんだぜ。でも、注意し ないと一年生は覚えないしな。試合会場なんかでやられた 日にゃ、個人の問題じゃなく会の恥だよな。指導者がちゃ んと躾してないって言われるもんな。」
 「そうそう。そういう話がOBの耳に入って俺達がOB から怒られるんだよな。」
 「いやあ、そのとおりだよ。ところで話は戻るんだけど さ、伊能さんから聞いた話でね、昔は三田でも神社を借り て練習をしていたっての知ってる。」
 「ああ、聞いたことある。」
 「そこでね、ある日、練習中に屋根の修理があった。そ の時にね、あまりにもうるさくて詠みがちゃんと聞こえな いもんだから、ある先輩が『少し静かにしてもらえません か?』って言っちまってさ、『こっちは仕事でやってるん だ。お前らこそ出て行け』って怒鳴られて、二度とそこは 使えなくなったって言うんだ。」
 「へえ、そんなこともあったんだ。」
 「要するに俺が言いたいのは、注意するにもTPOがあ るということなんだよ。」
 「そりゃそうだ。状況判断は必要だよな。」
 「それでさ、今日は古賀が同じ一年に文句言っただろ。」
 「そういえば、言ってた。」
 「あれって他の一年から反発かってるんじゃないかと思 ってさ。あいつだけ他よりやたら強くてさ、ただでさえ目 立つのにさ、少し大人しくして周りとうまくやってくれれ ばいいんだけど。」
 「熊野が嫌がってたもんな。あいつ調子よく取るんだよ な。ビシッと払ってさ『たまたま見てました』とか『ラッ キー、拾っちゃった』とか言ってさ。あんなに速く戻って 『拾っちゃった』もないもんだよな。そんなのが続くと腹 が立ってくるよ。それにさ、俺あたりにゃ言わないけどさ、 『もっと攻めなきゃだめですよ』とか二年生くらいには平 気で言うもんな。あれじゃ取りたくなくなるよ。大体、今 の二年連中が、それだけきちんと攻められるようになって りゃ今ごろA級だっていうの。自分ができることは他人も 同じようにできると思うのは間違ってるよ。そりゃ努力す れば、今の古賀レベルには行くと思うけど、実質二ヶ月で A級になろうかっていう逸材と同じには考えられないよ。」
 「熊野も『噛ませ犬じゃない』なんて、洒落たこと言う よな。」
 「えっ、知らないの。昔あるプロレスラーが言った言葉 なんだよ。この台詞をきっかけにメインイベンターに出世 していったように熊野にも強くなってほしいよな。」
 「熊野の対戦拒否のおかげで、こっちが噛ませ犬だよ。 でも、この言葉はよくないな。せめてスパーリングパート ナーと言いたいね。」
 「で、石田相手にタバ勝ちして、古賀は気持ちよく仙台 にお出かけってわけか?」
 「まあ、そういうことだ。あいつの事はいいとしても、 他の一年の女の子が気になるよ。やる気をなくさないでほ しいよね。」
 「案ずるより産むが易しだよ。今は、仙台で自分が勝つ 事を考えることだよ。」
 こうした出場者の様々な思いとはおかまいなしに、仙台 大会は二日後に迫っていた。

  *

 「TRRR…。TRRR…。」
 電話が鳴る。
 「はい、三○三号室ですが。」
 「佐多さんのお部屋ですよね?」
 「はい、そうですけど。」
 「ミツオ。あたしよ。」
 「なんだ志保ちゃんか。どうしたの。」
 「あたしも、このホテルに泊まってるのよ。」
 「えっ、そうなの?」
 「四○三号室、ミツオの部屋の真上。これからそっち行 ってもいい?」
 「えっ? どうして?」
 「話があるのよ。行っちゃいけないの。それとも何、あ かねが一緒にいるの?」
 「いや、ぼくひとりだけど。」
 「じゃ、今行くから。」
 「ちょっと待ってよ。」
 「CACHAN…。」
 一方的に切られてしまう。しばらくしてノックの音がす る。ミツオは、しかたなしにドアを開ける。
 「お邪魔するわよ。」
 志保がすばやく入ってくる。すすめられもしないのに、 さっさと椅子に腰かける。
 「話って何だい。」
 「今日、瑞巌寺にいたわね。」
 「ああ、あれやっぱり志保ちゃんだったの。声かけてく れればよかったのに。」
 「いやよ。ミツオとあかねのデートに顔出すなんて。」
 「そんなんじゃないよ。」
 「しらじらしい。あなたがたの仲を知らないとかるた会 ではモグリって言われちゃうわ。」
 「何を言ってんだか。そんなことを話に来たのかい?」
 「そうよ。あなたがた見てるとイライラしてきちゃう の。」
 「そんなのいいがかりだよ。」
 「そう。いいがかりをつけに来たのよ。」
 「で、どうしろって。何がご希望でしょうか?」
 「ねえ、あたしがあさって、優勝したら言うこと聞いて くれない。」
 「唐突になんだよ。優勝する気でいるのかよ。A級なん だぜ。」
 「出るからには優勝するつもりで出る。当たり前じゃな い。ミツオは負けるつもりで出るの?」
 「まさか。でも、ぼくは入賞したことだってないんだよ。 まずは謙虚に入賞が目標かな。」
 「そんなんじゃ、だめよ。志は高く持たなきゃ。あたし はいつだって優勝を狙っているわ。それより、どうなのよ。 あたしが優勝したら言う事聞いてくれるの。」
 「やだよ。何させられるかわからないもの。」
 「何か言えば聞いてくれる?」
 「何かの中身次第だね。」
 「あのさあ…。」
 「なんだよ。もったいぶるなよ。」
 「うーん……、あかねと別れてくれないかな。」
 「えっ?」
 「だめ?」
 「そりゃ、だめだよ。」
 「ほら、やっぱりそうなんだ。口ではなんとかかんとか いっちゃっても、結局のところ、ふたりはラブラブなんだ。」
 「そんなんじゃないって。そういうことが言いたくて、 優勝したらなんて言ったの?」
 「そうじゃないわよ。あたしの本心よ。」
 「なんで?」
 「ばかっ、鈍感!」
 「………。」
 「それじゃ、優勝したら、あたしとデートしてよ。」
 「えー?」
 「いやなの?」
 「いやじゃないけど、あかねに悪いよ。」
 「やっぱりいやなんじゃない。そんなにあかねが気にな るの。尻にしかれてどうするのよ。黙ってりゃわかりゃし ないわよ。それともあたしがそんなに嫌いなの?」
 「嫌いってわけじゃないけど。」
 「けど、なんなのよ?」
 「やっぱりできないよ。結局、それってあかねを裏切る ことになるじゃない。」
 「………。あ、そう。………。やっぱりミツオは本気で あかねが好きなんだ。あたしなんか嫌いなんだ。ふたりの 世界に入り込む余地なんてないのね。」
 「そんなことないよ。志保ちゃんも好きだよ。」
 「志保ちゃんも……。『も』なのね。付け足しなんだ。」
 「いやっ、そんなんじゃないよ。志保ちゃんは元気で明 るいし、かるたを取らせれば勝負師だし…。初めて会った 時から素敵だと思っていたよ。」
 「でも、あかねのほうが、あたしより素敵だったわけよ ね。いいの、同情も慰めもいらないから。それ以上何も言 わないで。」
 「………。」
 「もういいわ。それじゃ、あさってあたしが優勝したら、 あたしの勝手にするわ。ミツオは黙って見ていてちょうだ い。」
 「なにそれ。勝手にするんだったら、ぼくは関係ないじ ゃない。別にわざわざ断わる必要もないし…。」
 「あたしね。瑞巌寺でおみくじひいたの。大吉だったの よ。願い事はかなうんだから。だから、きっと優勝できる。 そして優勝したら、もうひとつ自分にご褒美をあげること にしてがんばろうと思ったのよ。それだけのこと。もうい い。ミツオは今の事は忘れてちょうだい。あたしはあたし のしたいようにするだけだから。」
 「ぼくのおみくじは凶だったけど。ひょっとしてこれが 凶兆かな?」
 「何をブツクサ言ってるのよ。」
 「優勝できなかったら、どうするの。」
 「別にどうもしないわ。また、次に優勝を狙うだけよ。」
 「いったい、何しに来たんだか。」
 「ブツブツ言ってないで、はっきり言いなさいよ。」
 「いや、別になんでもない。」
 「もういいわ。部屋に戻るわ。」
 「あっそう。それじゃ、おやすみ。」
 「じゃあね。あかねとよろしくやってなさい。優勝はあ たしがいただくから。」
 志保が部屋を出ていったあと、ミツオは考えていた。
 「なんなんだよ。優勝狙うのは自由だけど、A級で優勝 するなんてそんなに簡単にできるわけがないじゃないか。 あいつ、まじで言ってたのかな。心理作戦なんてことはな いよな。デートってまた、困っちゃうよな。」。
 ミツオの思考をさえぎるかのようにノックの音がした。
 今度は、あかねだった。
 「話し声がしてたけど、誰か来ていたの。」
 隣部屋にいるのだから、声が聞こえて当然である。ミツ オは、あかねに事の顛末を話した。
 「ミツオくんって、結構、鈍感ね。志保ちゃんに恥じか かせたんじゃない。デートくらいしてあげてもよかったの に。ちゃんと言ってくれれば、そんなことでわたしは怒っ たり妬いたりしないわよ。それより志保ちゃん、あとが怖 いわよ。」
 「えっ。それじゃ、あかねちゃんに守ってもらわなけり ゃ。」
 「何言っているのよ。ミツオくんがわたしを守るのよ。」
 あかねはそう言ってミツオに身を寄せる。ミツオは、あ かねの肩にそっと腕をまわす。長いはずの夜も、ふたりに とっては短いひとときだった。

  *

 晴れ渡った空、雲一つない快晴の中、仙台大会会場には 多くの選手が集まっていた。ミツオたちの会からは、OB を含め十六人が参加していた。東京方面から同一会でこれ だけの人数が来ているところは他になかった。D級には泉、 C級には鈴木と渡部、B級には石田、八角、熊野、古賀の 四人、そしてA級は、名人の重村、安部、高橋、横山、佐 多、春日、西寺、山根、敷島の九人である。A級は参加総 数が三十五人だから、四分の一強を同一会で占めているこ とになる。重村は、あまり一つの会が多いと、有力選手同 士の星のつぶしあいが少なくなると懸念している。有力選 手同士が星をつぶしあってくれないと自分が、軒並みこれ らの選手と対戦しなければならなくなるからである。
 滞りなく開会式が終わるとさっそく対戦である。A級は 六人が一回戦を取らなければならない。ミツオと高橋が貧 乏くじをひいてしまった。
 「ミツオ。俺たちゃついてないね。」
 「おみくじで凶をひいたんで覚悟してましたよ。それよ り、高橋さん、転勤したばかりでよく来れましたね。」
 「向こうじゃ、練習できそうにないんでね。からだをか るたにならしておくためには試合だろうがなんだろうが、 取れる時に取っておくことしかないんだよ。君たちと違っ て、時間が自由にならないんだから。」
 「まあ、がんばりましょうね。」
 「ああ。」
 励ましあって、席につく。ミツオは、地元の大学生との 対戦だった。取り始めると相手は響きが良く速い。しかし、 お手つきも多く、ミツオは労せずして札を減らしていった。 結局、六枚差で勝った。一方、高橋は、最後までせってい る。とうとう一枚対一枚となり、審判がついていた。前の 歌の下の句が詠まれる。余韻にかかる。運命の一枚がまさ に詠まれようとするその直前、相手は何を思ったか、高橋 陣まで手を出していた。明らかに詠まれる前に手を敵陣の 札のそばまで伸ばしていたのだった。唖然とする高橋。詠 みは停められるわけもなく、その相手の札を詠んでいた。 高橋は驚きのあまり敵陣に手を出せず、ただ相手がゆっく りと戻るのを見ていたのだった。お辞儀をしようとする相 手に対し、我にかえってクレームをつけた。
 「今のは、あきらかに詠みの前に手を出していますよ。 競技規定でいうところの妨害行為だから、私の取りとみな されるはずです。」
 「えっ。詠み手の息が洩れているのが聞こえたんですけ ど。」
 「審判の判断はいかがでしょうか。」
 「詠みの前に手を出していました。インターフェアです。 よって、取りは無効で、高橋さんの勝ちとします。」
 「ありがとうございました。」
 高橋薄氷の勝利である。高橋が二枚対一枚から相手陣を 抜いて出ないだろうと送った札を相手も出ないとふんだの だろう。一か八か攻めに出たわけだ。一対一で敵陣を抜く のは容易な事ではない。極端に言うと音を聞いてからでは 間に合わない。音と同時に取りにいくために、余韻から一 二三と数えてタイミングをはかって手を出したに違いない だろう。それが仇となったわけだ。高橋にしても、札の送 りの詠みがはずれた時点で負けていたわけだ。最初から敵 陣など取りにいく気はなかったのだから。相手の土壇場で のミスのおかげで勝つというのは幸運としか言いようがな かった。
 こういうわけで二回戦十六組中の九組が、対慶大という ことになった。全員が勝ったら三回戦から早くも同士討ち が始まる。しかし、これは杞憂に終わった。OB組の高橋 と安部がここで姿を消したからだった。どちらも十枚前後 の差で敗れていた。春日は、A級で初勝利を上げた。わざ わざ仙台まで来て対戦した相手が早大の立浪だったが、嬉 しい初勝利であることにかわりはない。ミツオは地元市役 所に勤務している選手に三枚差で勝ち、他の連中も危なげ なく勝ち上がっていった。
 三回戦では八組中七組が対慶大戦となった。春日が現ク インと、敷島が前名人と対戦している。ミツオは、東大O Bの藍沢が相手だった。春日は二十枚差で木っ端微塵にさ れ、敷島は十七枚差で轟沈した。ミツオは、前半二回のお 手つきでついた差を五枚セームで追いつき、その勢いでラ ッシュをかけ、そのまま五枚差で勝つことができた。初め てのA級入賞である。
 「ミツオくん、これで四位は確保よ。次もがんばっても っと上を目指してね。わたしは負けたけど、あこがれのク インと取れてとっても嬉しかったわ。」
 「ああ、がんばるよ。一流選手の強さは試合で対戦する のが一番実感できるだろう。」
 「そうね。クインの強さを身体で感じたわ。」
 あかねと言葉を交わし、次の試合に気合を入れ直すミツ オだった。
 いよいよ準々決勝である。下の級も同じように進んでい る。D級では泉、C級では渡部、鈴木、B級では古賀が残 っている。A級は同一会で五人残ったので、早くも同士討 ちが始まる。重村はクインと、西寺は前名人と、横山は地 元出身の元名人と当たった。そしてミツオは志保との対戦 である。どれもが重要な対戦だった。
 クインは、各大会で常に優勝候補に上げられるほど充実 しており、名人もクインにはしばしば負けていた。タイト ル戦が男女別であるので、試合で対戦した時に名人が負け 続けると「クインのほうが名人より強いじゃないか」とい う風評がたってしまう。したがって、こういう時の対戦で 勝利を収めておくことは、今後のかるた界への展望を考え た時、重要なポイントなのである。
 西寺にとっては、重村との名人戦を戦う夢の実現のため に乗り越えなければならない最大の相手が前名人である。 おそらく、名人戦予選では避けては通れない相手であろう。 こういう機会はその前哨戦でもあるわけだ。
 横山は、現在四位入賞を確保しているわけだが、ここで 負けてはいつもと同じである。初の三位を獲得するために は、ここであと一番勝たなければならないのだ。しかも相 手は強敵、元名人である。相手にとって不足はないという ほどの余裕もない。正念場である。簡単に三位は手に入ら ないのである。
 最後のミツオ対志保戦は、他の三試合と比べれば見劣り するのはやむをえない。しかしながら、二人にとってはお 互いもっとも勝利の可能性が高い相手なのだ。しかも、今 までの因縁もある。負けられないという思いが増幅する相 手なのだ。こうした意識が強く出過ぎると、えてしてお手 つきを連発したり、手が伸びなくなってしまうものである。 ただ、この試合が、双方お手つき六回を数える乱打戦にな った理由は、これだけではなかった。一昨晩の志保の言動 が、二人の心を波立たせていたせいもあったのだった。
 「志保の奴、例によって、Tシャツ、短パンスタイルだ な。もう京都の決勝戦のようなことはないぞ。でも、やっ ぱり、トランジスタグラマーだよな。うーん、いかん。い かんぞ。試合に集中しなきゃいかん。でも、あの晩、あか ねと別れろって言ったのはマジだったのかな。わからん。 いや、そんなことはいい。今、ここでぼくが勝てば、志保 が『優勝したら云々』と言ってたことはチャラになるわけ だし。そう、集中、集中。」
 「ああ、あの晩、あんなこと言わなければよかった。黙 っていたって、いずれは、あの二人別れたかもしれないの にね。でも、手をこまねいてじっと待っているって、あた しの流儀じゃないのよね。人を好きになるって不思議な感 情よね。なぜ、ミツオのこと好きになっちゃったんだろ。 まあ、いいや。好きだからこそ、負けたくないのよね。暗 記入れ直すわよ。」
 こんな思いで試合にのぞんでいては、ミスが出るのも当 然である。試合は志保のお手つきでスタートした。これで 焦ったか、続けてダブである。いきなり、二十七対二十二 である。ここで、たたみかけるのが勝負の常道だが、甘い ミツオは、「志保が最初からこんな形で崩れるのは、一昨 晩のことを気にしているせいかな。」などと気遣ってしま う。そのせいか集中力も散漫になり、お手つきを返した上 に取りの手も鈍ってしまう。これでまた、焦るものだから 決まり字を聞かずに札を払ってしまう。双方にこんなこと の繰り返しで、凡戦ながら抜きつ抜かれつ、終盤に突入す る。五枚セームからは、ミツオが四連取で王手をかけた。 しかし、敵陣を抜きに行ったときに勢い余って、つい札に 手を触れてしまう。「リードしているんだから焦ることは ないのに」という回りの人達の声はあるのだが、お手つき をしてしまってからではもう遅い。それでも、二枚対四枚 とまだリードをしている。ここで自陣を一枚守るのだが、 攻め手が伸びずに三連取され、運命戦を迎える。残った札 はミツオ側が「わすれ」、志保側が「わすら」であった。 ミツオは、聞き分けて取るのがA級の芸と信じていたが、 志保は違った。なんと「わ」が詠まれた瞬間、ミツオの手 元の「わすれ」を払っていたのだった。観戦者にはあから さまに批難する者もいた。このシチュエーションでは、一 字で自陣を払う事は許されても、敵陣を一字で払うのは邪 道だというわけである。
 「敵陣が出ると信じるなら、なぜ囲い手を使わないのか。 決まり字を聞いて札を取るという競技の本質を見失ってい るではないか。二分の一の偶然性のみにかけるのは、丁半 博打とかわらず、勝負にこだわりすぎではないか。」
 もちろん、擁護派もいる。
 「聞き分けてどちらにも取りにいけるようにと、自陣を 囲わなかった相手にも甘さがあったのだから、別に決まり 字前に払うことが悪いとはいえない。ヤマをはった結果が 当たったということは、判断があっていたということで、 それにより勝利という結果をだしたのだから問題ない。」
 かくして、凡戦模様の身内同士の問題対戦は、最後に盛 り上がりを見せて決着がついたのだった。
 さて、他の試合の結果はどうなっていたのだろうか。
 重村は、終始スピードでクインを圧倒し、九枚差で勝利 を得ていた。敵陣・自陣を軽快な動きで縦横に取りまくっ た。ギャラリーは、この試合を事実上の決勝戦と見ていた ようだ。西寺は、相手が名人タイトルを保持している時に 冬の仙台大会で対戦していた。その時は前半で差を開かれ て負けたが、今回は違っていた。前半からリードしたのは 西寺であった。その前半の差をキープしたまま五枚差で押 し切った。前名人は、西寺の鉄壁の守りを崩すことができ なかったのだった。横山は、「エイッ!」「ハイ来た!」 「さっ、ファイト!」などと盛んに声を出していた。脱万 年四位目指して気合が入っていたのだ。その気合に圧倒さ れたわけではないが、元名人は取りがさえない。手は速い のだが空振りが多い。こうした札を確実に拾った結果が、 六枚差の勝利だった。横山は、ついに壁を打ち破ることが できた。この結果、A級はベストフォーを慶大かるた会が 独占したのだった。また、B級では古賀、C級では鈴木、 D級では泉が勝ち残り、準決勝進出を果たした。
 「準決勝の組み合わせを決めます。カードを切りますけ ど、どなたか立ち会ってください。」
 「ぼくでいいですか?」
 西寺が立ち会いで、対戦カードに手を入れる。その結果、 A級準決勝は重村対西寺、横山対山根となった。
 「西寺どうする。譲ろうか?」
 「重村さん、ぼくの目標は重村さんと名人戦の舞台で取 る事です。そのためには、こうして試合で対戦できる機会 などめったにないことです。その時のためにも、是非ここ で取っておきたいんです。手抜きなしでお願いします。」
 「取るからには手抜きなんかしないよ。じゃあ、取ろう か。」
 「失礼なことを言ってすいませんでした。よろしくお願 いします。」
 横山と山根は、すでにもくもくと札を並べ始めている。 準々決勝までは試合で使用する札は、すでに五十枚にわけ られていたが、準決勝からは一箱百枚の中から競技者が無 作為に五十枚を選んで使用できるようになっていた。競技 者は、百枚の取り札を箱から出して、裏返しにしたままそ れぞれ二十五枚ずつを取って並べるわけだ。横山は二十五 枚を取ると何故かシャカシャカとシャッフルしてから並べ 始めていた。横山が並べ始めた時には、志保はすでに札を 全て表に開いていた。志保は、横山が並べ終わると席をは ずしてしまった。札を見ないで記憶だけで札の確認をする ためだった。志保に続いて横山もじきに席をたった。重村 と西寺も席をはずして札の暗記をしている。暗記時間中、 A級の席だけがもぬけのからだった。いや、もう一人、古 賀も席をはずしていた。古賀は、ここまですべて二桁差で 勝ち進んできていた。試合になると練習の時以上に強い感 じがする。準決勝は地元の女子大生との対戦である。席に 戻るときには右腕をグルグルとまわしながら戻ってきた。
 その動作ひとつひとつに余裕が感じられる。
 「暗記時間、あと二分です。」
 詠手が時間をつげると、A級の席にも選手が戻り、素振 りの動作で畳を軽く叩いている。志保は体力の消耗を押さ えるためなのか、素振りもせずに札を眺めている。先ほど の試合のことが頭をかすめているとすると、この試合も危 ない。
 重村対西寺戦は、重村の西寺陣五連取から始まった。鋭 い攻めが、守りを許さない。また、送った別れ札が詠まれ るのだ。こうして攻めが続く。十対二十のダブルスコアか らは、西寺も多少守り、最後は十枚差でけりがついた。
 横山と志保の対戦は、さっきとは打って変わって志保は 慎重・確実な取りを目指しているようだ。手をひょいひょ い出さずにこれはという札の時に一振りという感じだ。遅 い札と速い札の差が明確な感じである。これが横山の勘を 狂わせたのか、志保の遅い札でつまらないお手つきをして しまう。取った枚数は横山が多いのだが、場の札の残り具 合は同じくらいである。双方、十枚を切ったあたりで、横 山が志保陣を連取し差を五枚にひろげると、今度は一転し、 志保は響きと動きのかるたにギアチェンジした。これでま た、横山は面喰ってしまったようで、手がストップする。
 結局、三対三から双方自陣を二枚ずつ守り、一対一となる。 志保にとっては二試合連続のイチイチである。今度はどち らも一字に決まっているので前の試合のようなことはでき ない。志保は自陣の「しの」のそばに手をおいて、敵陣を 攻める素振りなどまったく見せずに守りの構えにはいった。 はたして、出札は「しの」。志保の勝利だった。ところが、 事件はこのあと発覚した。取り札を確認のために数えてい ると双方足すと五十一枚あるのだ。どちらかが最初に間違 えて二十六枚取ってしまったに違いない。最初の配置を思 い出す。
 「右下段に六枚だろ。右中段に四枚。右上段にも四枚。 上段中央には二枚あった。左上段に三枚。左中段が二枚。、 そして左下段に五枚。あれっ、二十六枚だ。」
 横山は、最初から二十六枚持っていたのだった。もし、 二十五枚だったら、一枚差で負けずにすんでいたのだ。も ちろん、これは枚数上の仮定だから、実際、どの札がなか ったかによって、試合の展開も変わるし、なんともいえな いが、横山がえも言えぬ痛恨のミスと自分を責める気持ち になるのもやむをえない。志保も、気付いていて言わなか ったというようなことではなかった。ミツオとの前の試合 の後味の悪さを引きずっていたために、枚数を確認するな どの余裕がなかったのだ。通常の彼女であれば、「なんで 勝っても、勝ちは勝ち。」とうそぶくところであるが、今 回は彼女にしては珍しく、このような形の勝利を素直に喜 べなかった。勝利に心が躍らないのだ。志保は会場の隅に 茫然自失として座り込んでいた。
 この回、B級では古賀がタバ勝ち、C級の鈴木はタバ負 け、D級の泉は地元の中学生を二枚差で退け、決勝進出を 決めていた。
 決勝戦、座り込んでいる志保のもとに重村が寄ってきた。
 「今、大会役員に棄権を告げてきた。山根志保四段、初 優勝おめでとう。」
 「えっ?」
 「ゆっくり休んでいたらいいから。」
 「………」
 志保は何か言おうとするのだが、声が出ない。目に涙を 浮かべたと思ったら、崩れ落ちるようにへたりこんでしま った。
 「あたしが、優勝。しかも、A級で…。」
 夢にまで見た優勝、出るからには優勝を狙うと言い続け てきた優勝、それが今、現実になった。嬉しくないはずが ない。しかし、心からの嬉しさが湧いてこない。湧いてく るのは、涙だけだった。嬉しくて泣いているのでも、悲し くて泣いているのでもない。悔しさなのか、せつなさなの か、いや、喜びなのだろうか。訳の分からない感情が心と 身体に満ちていた。
 A級の決勝戦はなくなってしまったが、B級とD級は決 勝が行われている。C級の決勝戦もなくなった。同一会の 二人が残り、後輩が先輩に譲ったからである。
 決勝の相手は、D級泉が地元の小学生と、B級古賀がラ イバル早大の沢木 直とだった。沢木は小学生の時分から のキャリアを持っており、早大期待の一年生である。しか し、古賀は決勝戦でも疲れなど微塵も見せずにシャープな 取りを続けていた。沢木も見事な渡り手などを披露するが、 疲れのせいか払いにスピードがのらない。結局、九枚差で 古賀が押し切った。泉は体力的にもう限界に来ていたよう だった。手も足も出ない状態で、座って構えるだけで精一 杯という感じだった。数枚を押え手で取ったものの、いい ところなく二十枚差で敗れていた。
 こうして、夏の仙台大会は終わった。慶大かるた会から は十六人の参加で、D級準優勝、C級三位、四位各一、B 級優勝、A級優勝、準優勝、三位二、四位一と入賞率五割 六分二厘五毛と大きな成果であった。

 試合の翌日は、月曜日である。遠征してきているサラリ ーマンには仕事がある。休みでも取っていれば別だが、普 通はすぐに帰らなければならない。負けたらすぐに帰れば いいのだが、決勝まで残るつもりなのか見ていくつもりな のか、遅い時間の指定券を取っていたりするものもいる。 高橋もその一人だった。駅弁を買って、新幹線に乗り込む。 座席について、荷物を網棚にあげていると隣の席の客が来 た気配がした。荷物をのせ終えて席につくと、今度は隣客 が網棚に荷物をのせる。「小柄な女性だな」とふと顔を見 ると、山根である。
 「あれっ。志保ちゃんじゃない。」
 「えっ、高橋さん、こんなところで何してんですか。」
 「何してるって、東京に帰る以外何があるっていうんだ い。」
 「ここって、指定席ですよね。」
 「そうだよ。」
 「それで隣の席になるなんてすごい偶然じゃありません か?」
 「たしかに。まあ、これも何かの縁というもんだな。そ れより、初優勝おめでとう。」
 「あ、ありがとうございます。でも、なんか実感ないん ですよ。」
 「ま、そんなもんじゃないの。ぼくだって、初めてA級 で入賞した時は、そうだったよ。おそらく優勝しても、そ うなんだろうって気がしているよ。」
 「うまく言えないんですけど、たぶん高橋さんの言って るのと違う気がするんです。実は、大会前から優勝できる ような気がしていて…。本当なんですよ。で、高橋さんだ から言っちゃいますけど、ミツオにあたしが優勝したらあ かねと別れてくれないかって言っちゃったんです。それで、 今日の試合でしょ。ミツオとの対戦からボロボロで…。あ んなんで優勝しちゃって。なんかこう変なんです。」
 「へえ、そんなことがあったのか。で、ミツオくんはな んて?」
 「あたし、ふられちゃったんです。ミツオはあかねにぞ っこんなんですよ。あたしつらくて…。なんか、もう、か るた会に行きたくないし…。優勝したら、かるたやめよう かななんて思っていたんです。」
 「そんなあ。もったいないじゃない。女々しくて志保ち ゃんらしくないじゃない。」
 「よしてください。あたしだって、人一倍女なんですか ら…。」
 「ごめん。」
 「あたしって、なんでかるた取ってるんでしょうね。ミ ツオに認められたいからだったような気がして…。」
 「そうなの?」
 「ミツオがあたしのことを振り向いてくれないなら、か るたやってる意味ないですよね。優勝したってむなしいだ けで…。」
 「ぼくは、かるたってそれだけのものじゃないと思うけ ど…。でもね、百人の人がいたら、百以上のかるたを取る 意味っていうのがあると思うから、志保ちゃんがそう思う んだったら、そうなんじゃない。」
 「かるたは取りたいんです。でも、かるた会はやめたい。 ミツオに愛想尽かれて、あかねに白い目で見られて、会の みんながあたしのこと好きじゃないのも感じているんです。 OBの目から見てどう思います。」
 「………。」
 「どうしたらいいんでしょうね…。」
 突然、志保の目から涙が溢れ出してきた。
 高橋に身を寄せる志保。志保の肩をそっと抱き寄せる高 橋。無言の時間。いつしか志保は安心したのか、眠りに落 ちていった。
 「困ったものだ。この子が起きるまで、晩飯はお預けか。」
 高橋は、ひとりごちた。

  *

 仙台での戦果におごることなく、日吉キャンパスの練習 室では、いつものように厳しい練習が繰り返されていた。 しかし、よく見ると様子が違う。古賀以外の一年生がまっ たく来なくなっていたし、横山、山根、泉も仙台以来顔を 見せていない。
 西寺は、「練習に来たくないやつを無理に来させること はない」と言っていたが、石田はそうもできなかった。会 長としての責務である。ひとりひとりに電話をかけてみた。 横山は、かるたを一休みして、研究室で真面目に活動する という。四年生としては本来あるべき姿である。これはい たしかたない。しかし、続く一年生の電話への反応は、ま さに石田が懼れていたものだった。
 「短い間でしたけどお世話になりました。私には向かな いようなのでやめます。」
 「もっと和気藹々とできるかと思っていたのですが、雰 囲気がきびしすぎます。音を立てずに息をひそめてじゃ、 練習する前にへばってしまいますよ。それで、やめること にしました。こちらから連絡しないですいませんでした。」
 「テニスサークル一本にしぼることにしたので行くのや めました。それじゃ。」
 「古賀くんのように強くなれそうにないし…。才能ない 人間がいても足手まといになるようだから、もう行きませ ん。すいませんでした。」
 斎田と栗原、丸尾と三浦の一年生四人の答えはこうだっ た。
 泉は、次の練習に来ると言っていたが、山根とは連絡が つかなかった。
 そして、一年生四人の退会をみんなに報告した日の最終 練習の途中で、泉は来た。来るには来たのが、実は退会の 挨拶に来たのだった。
 「一年間持たなかったけど、仙台でD級準優勝できてい い思い出になりました。小学生にあんな負け方したままや めるのはちょっと残念だけど、いろいろと思うところがあ ってやめます。あの小学生はきっと強くなるわよ。私はや めちゃうけど、アッコちゃんはがんばってね。」
 下田はるかに誘われて、一緒に入会した鈴木にエールを おくる。
 「退会じゃなくて休会じゃだめなの?」
 「けじめつけたいの。中途半端はお手つきのもとでしょ。 それじゃ、キャンパスであったら無視しないで声をかけて ください。お世話になりました。さよなら。」
 そして、傷心の石田にさらに追い討ちをかける事態が起 きた。山根志保の退会である。これは退会届が手紙で送ら れてきた。
 一身上の理由で退会するという内容だった。ミツオとあ かねは、理由について察しがついたが、誰にも話さなかっ た。何も知らない石田は、首を捻り放しだった。
 「たまに不協和音を立てたけど、いなくなるとわかると 寂しいよな。でもいったい何故なんだ。なにもやめること はないじゃないか。初優勝で、これからってときなのに。 やっぱり、会長の俺の力不足なんだ。」
 数日後、石田は会員の大量退会の責任をとって、会長職 退任願を提出した。全員の慰留を受け、退任願は却下され たが、相当に悩んでいたようだ。練習でもこのことの影響 が出て精彩を欠きどおしであった。
 天候は、連日の雨。梅雨の真っ最中で、気分もしめりが ちの毎日である。
 そして、かるた会も梅雨入りであった。


  Copyright:Hitoshi Takano

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