札模様

    千秋楽



 昨日の雪……。
 今日の雪…。
 明日の雪。

 サクッ。
 積もった雪の上を踏むと音がする。さすがに駅前は雪 かきが行き届いて通り道ができているのだが、ボーッと考 え事をしながら歩いていると、寄せてある雪に足を突っ込 んでしまう。
 「ひゃっ。冷たい。」
 ミツオは、靴の中に入った雪の冷たさに顔をしかめる。 あわてて靴を脱ぎ、さかさまに振って中の雪を出す。
 「あーあ。まったく、もう。」
 ブツブツ言いながら、靴を履き直す。
 「フーッ。」
 ため息を一つついて、再び、歩き始めた。
 「佐多さん。」
 名前を呼ぶ声に振り返る。
 「あっ、め、名人。お、おはようございます。きのう は、失礼いたしました。」
 「何をおっしゃってるんですか、名人はあなたでしょう。 きのうは、ありがとうございました。おかげさまで、いい 試合ができました。」
 「いえっ、そんな、こちらこそ。」
 突然の出会いに落ち着かないミツオだった。
 「最後は、恥ずかしいことをしてしまいました。果た して、本当の出は、どちらの札だったのでしょうね。」
 「うーん、あのときですね。実は余韻の瞬間、ぼくに は『あきの』の札が光ったように感じたんです。近江神宮 の畳で、残り札が神宮の祭神である天智天皇御製の『あき の』でしょう。しかも一枚・一枚の運命戦。二字決まりと は思ったんですけど、一音めのタイミングで、聞かずに飛 び出しました。『あ』でブロックされてはどうしようもな いですからね。そうしたら、『きみがためは』を囲われて しまって…。『きみがためを』だったんでホッとしたら、 名人が頭を下げられるではありませんか。一瞬何が起こっ たのかわからなかったんです。こちらこそ失礼しました。」
 「あなたがお手つきしたと、私が思ったように感じら れたようでしたね。」
 「いやぁ、札までは届いてませんが、畳を擦ってはいま すから、名人が勘違いされたのだと思って…。つい。」
 「つい、『畳です。札には触ってません。』ですか。」
 「申し訳ありませんでした。名人に『札に触れたのは 私です。』って言わせてしまいまして…。でも、全然、わ からなかったですよ。完璧な囲いで、手をどけたあとも全 く札は動いていませんし…。ぼくは、気づきませんでした。 そのまま続行されていたら、最後まで知らないまま取って いたと思います。」
 「私も一瞬、とぼけることができるなって思いました。 でも、それで勝っても、私の気持ちが納まらない。あとあ と後悔するようなことはできなかった。考えるより先に、 勝手に頭がさがっていたんですよ。」
 「………。」
 「いいんですよ。そういう流れだったのです。ただ、 私は昨日は、『きみがためは』が出ると思っていたんです。 一回戦『あさぼらけあ』、二回戦『たご』、三回戦『はなさ』。 みんな『雪』に関わる札で終わっている。四回戦は、私が 途中で投了したが、『をぐ』だ。『雪』は出てこないけど音 で『ゆき』は使われている。天候は、大雪だ。こんな偶然 は普通考えられない。あなたに『きみがためは』を残され た時は、うまくやられたなと思いましたよ。」
 「ぼくも、『雪』の札が気にはなっていました。でも、 名人に『あきの』を残されて、やられたなと思いました。 過去のジンクスを気にしてましたから。」
 「佐多さん、昨日の大雪の前では、過去のジンクスも 関係なかったような気がしています。昨日限りの札の出が あったのだと確信しています。」
 「確信…、ですか。」
 「では、これで帰ります。私にはできなかったが、名 人位は獲って守ってワンセットです。来年の防衛戦がんば ってください。」
 「ありがとうございます。」
去っていく前名人の後ろ姿を見送っていると、ミツオ の心には、後悔の念がフツフツと沸き上がってきた。名人 は、一対一の勝負を決める重大な局面でさえ、フェアにお 手つきを告白した。自分は、五回戦の「わたのはらや」の 時のお手つきをとぼけたのだ。
 ミツオは、遠ざかり行く背中を追った。
 「名人。」
 振り返る前名人。
 「佐多さん。その『名人』って呼ぶのはやめてくださ い。あなたが『名人』なんですから。」
 「すいません。」
 「で、何ですか?」
 「ぼくは…、ぼくは…、ぼくは名人にふさわしい人間 じゃないんです。」
 「いったい、どうしたんです。あなたは、名人にふさ わしいから名人になったんですよ。」
 「名人は、一・一の勝敗を決める際にも、相手が気づ かないお手つきを明かされた。ぼくは、あの五回戦、『わ たのはらや』の時に札にさわっていたんです。でも、あな たが気づかないのをいいことに黙っていたんです。」
 「………。」
 「名人にふさわしいのは、あなただ。ぼくじゃない。」
 「そんなことはありません。たまたま、あの時は正直 に言ったかもしれない。でも、過去には、重大な局面でし らばっくれることは何度でもありました。ひどい時には、 私は触っていても『触ってません。』と嘘をついたことだ ってあります。おそらく、昨日は、私が聞けば、あなたは 素直に『触りました。』と言ったと思いますよ。」
 「………。」
 目に涙を浮かべながら、ミツオは肯いた。
 「私に『触りましたか。』と聞く気を起こさせないよう な完璧な囲いだったんですよ。それは、聞かなかった私の 責任でもあるのです。名人にふさわしいかふさわしくない かは、あなたが決めることじゃありません。あなたは、今、 現在、唯一人の名人です。それは、まぎれもない事実なん です。胸をはってください。」
 「はい。」
 「佐多名人。話してくれてありがとう。口はばったい ようですけど、この経験も、きっとあなたにとって益にな りますよ。では、また。」
 「ありがとうございました。」
 ミツオは、前名人の姿が見えなくなるまで、感謝の気 持ちを込めて見送っていた。

 昨日の天気がうそのように晴れている。降り積もった雪 もじきにとけていくに違いない。一面の雪におおわれた世 界は美しい。しかし、雪の下にある世界もまた美しいこと を思い出すのに、そう時間はかからないことだろう。


                   ―― 完 ――

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    試刷版 あとがき


 百人一首や競技かるたとの出逢いの形は様々である。 したがって、小説を読んで、競技かるたを始めてみたいと 思った人がいても不思議はない。しかし、百人一首が取り 上げられている小説は少ない。尾崎紅葉の「金色夜叉」に おけるかるた会での出逢いのシーンは有名であるが、かる た競技が描かれているものではない。最近では山村美紗の 「百人一首殺人事件」や、内田康夫の「歌枕殺人事件」と いった小説にも競技かるたが登場するが、推理小説の舞台 装置としてであり、ストーリーのメインを占めているわけ ではない。百人一首の成立の謎を推理する著作も多く発表 されているが、こちらは小説ではない。競技かるたファン としては、競技かるたがメインとなっている小説を読みた いのだ。玄人の物書きが書いてくれないならばしかたがな い。素人であっても、競技かるたとの関わりを持つ人間と してチャレンジしてみようと思い立ったのが、二年ほど前 である。仕事から帰ったあとや休日を利用し、かるたの練 習を続けながら、書き綴ったのが本編である。書き始めた 時の名人戦の舞台は、近江神宮でも現在の勧学館ではなか った。時の流れの速さを感じざるをえない。こういうわけ で、本編に登場するイメージは、私の過去十九年間のとこ ろどころで経験したものにすぎない。現在とイメージが違 う点は、ご容赦いただきたい。ただ、場面場面の「歌留多 のある風景」を読者の方々と共有できれば幸甚である。
 また、本編はフィクションであり、登場する人物も架 空の存在であるが、一部にはモデルとさせていただいた 方々もいる。この場を借りて、勝手にモデルになっていた だいた非礼をお詫びするとともにあつく御礼申し上げたい。 特に平成二年に二十四歳の若さで急逝された伊崎泰章君に は、追悼の想いを込めてモデルになってもらった。本編が、 生前の彼を思い出すよすがとなればと願っている。
 最後に、私の執筆を応援し続けてくれた妻に感謝の意 を表したい。



 この「あとがき」は、平成十年一月に身近な人や、 何人かの友人に読んでもらうため、ワープロで印刷し、 自家製本した「試刷版」に掲載したものです。


  Copyright:Hitoshi Takano

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