禁断の果実たち

The forbidden fruits (8)

FEB/2011 Hitoshi.Takano


 今回は、五つのネタを用意した。すべて動詞で、順に「狙う」「あてる」「囲う」「渡る」「かつぐ」である。読む前に想像がつくもの、つかないものあると思うが、読んでのお楽しみということで…。
 では、ご覧ください。

1.狙う

 「狙う」という行為は、通常、敵陣への「攻め」に使用することばであり、自陣の「守り」において「狙う」という表現はしない。
 序盤や中盤の入口においては、場にある札も多く、敵陣にある札も多いので、「狙う」という行為を、意図的にすることは少ないだろう。あるとすれば、札1枚を狙うというよりも、「右下段を狙う」とか「左下段を狙う」というような感覚はあるのかもしれない。
 もちろん、初形で、友札が固まっているような場合は、それを他の札より強く気に留めていて「狙う」場合もありうるかもしれない。
 しかし、ここでいう「狙い」はどちらかというと単独の札が出そうだ、ここでこの札を取るとその後の展開に有利になるから、狙ってでもこの札を取りたいというようなケースの場合をイメージして記述している。
 上記のようなケースで、「狙って」、読まれて、札を取ったときは、「してやったり」と快感を感じることであろう。
 この快感を忘れらずに、二匹目のどじょうを期待して、狙うことにこだわると他の札が取れなくなって失敗するという意味で、"The forbidden fruit"に取り上げた。
 試合の展開の中で、自然に敵陣のある札を狙って、そして、出て取れることはあるし、そういった流れにのることは、試合の流れを掴む上で大切である。だから、心の声にしたがって、「狙え」ばよいと思う。
 しかし、心の声でもなく、試合の流れの中でもなく、無理に意図的な「狙い」をするとすれば、それは、「狙いがはずれ、他の札まで取れなくなる」とか「狙った札をお手つきする」という悪い流れのほうに乗ってしまう可能性も大であるということを肝に銘じていただきたい。

 「狙う」という行為は、あくまで自然な流れの中でということを覚えておいていただきたい。

2.あてる

 「あてる」というのは、「狙う」という行為とは違い、敵陣にても自陣にても発生する。
 では、何なのか?
 「あてる」というのは「決まり字前に出札を取る」という行為ということで、本稿において使用する。
 大山札などで決まり字を待ち切れずということもあれば、3字決まりを2字で払うとか、2字決まりを1字で払ってしまうとか、要するにその類である。
 当然、決まり字前に札に触れ、その札が出札でない場合は、「はずれ」となり、「お手つき」となる。これでは「あてる」にはならない。
 決まり字の数え間違えや、「うつしもゆ」などが送りで別れたのに、勘違いして1字のつもりになってとか、本人にミスならば仕方ないかもしれない。(本当は、暗記をしっかりいれて、集中し、こういう事態は避けなければならないが…)
 「あたった」ものは、「やばっ!」決まり字前に払ってしまったなどとくよくよしないで「ラッキー」「ついてる」と考え、次からの一枚に集中すればよい。
 「あてる」という行為が「あたらなければ」、すなわち「はずれれば」お手つきということになってしまうので、非常にリスクが高い行為なのである。
 この「あてる」という行為をいちかばちかで意図的にするということもあるが、そんなリスクは背負う必要はないのである。
 あたった時に、もし自分の「運の良さ」や「カンの良さ」に「快感」を覚えるようならば、それは危険な信号である。確率論は厳然として有効なのである。
 運命戦で、同音の別れのとき、その2枚だけならば、1字で意図的に払うということも戦略のうちという人もいるかもしれない。また、運命戦で99枚目の読みということで、読みのタイミングで聞かずに払うということで「あてる」こともあるかもしれない。
 それはそれで競技者としての本人の選択なのであるが、やはり、「あてる」という行為は、読まれた札を取って自陣の札を減らすという競技かるたの基本からすれば、当該札が読まれたかどうかを判断せずに取りに行くということにおいて、"The forbidden fruit"であると思う。

 競技者としては、「あてる」ことは「禁断の果実」と心得るべきだろう。
 

3.囲う

 「囲う」という行為自体は、何もまずいことはない。"The forbidden fruit"でもなんでもないのである。
 では、何が、"The forbidden fruit"なのだろうか。
 それは、「囲う」ということ自体が目的となってしまうことが問題なのである。
 「囲い」は、出札を聞き分けて取るために相手に取られることがないように「囲う」のであり、「聞き分けて取る(逃げる)」というのが目的である。
 しかし、囲ったことでこれで相手の手は札を取りにこれないなどと安心していると、そのスキをつかれて、まさに囲いの隙間から突き込まれてしまうことがあるのである。
 大山札などで、こういう経験をしたことはないだろうか。
 ひどいケースになると大山札のどっちだったか自分でも囲っていてわからなくなってしまったということなどないだろうか?
 「あさぼらけ」で「あさぼ」でばっちり囲った。ところが、「あれっ?」自分が囲ったのは、「あさぼらけあ」だったっけ?「あさぼらけう」だったっけ?という経験を持つ人もいるのではないだろうか?
 私は、この経験がある。完璧に囲ったつもりだったが、隙間から札をみようとして、相手に突き込まれてしまったという経験もある。
 囲ったら、決まり字とともに、出札であるならば、すぐに札を取るという行動に移らなければならないのだ。
 終盤で、1対3とかになって、3枚を固めて囲うことなどないだろうか?
 このときも「囲う」ことが目的になってはならない。
 決まり字とともに札を取らなければ、相手からの突き込みをくらってしまう。特に3枚あって、内側から囲ったら、一番外側の札は狙われやすいので、要注意である。

   「囲う」こと自体は問題ない。しかし、囲ったら聞き分けて次の行動に即移らなければならない。
   囲って安心してしまったら、それこそが"The forbidden fruit"である。

   くれぐれも、囲っただけで安心することなかれ!!

4.渡る

 競技かるたで「渡る」という動詞は、あまり使われないと思う。しかし、「渡り手」といえば、「ははぁ〜ん!」とうなずかれる方もいるのではないだろうか?
 「渡り手」といえば、友札を左右にわけて置き、左右両方を払う取りである。自陣でも敵陣でもありうる。たとえば、右上段に「あらし」左上段に「あらざ」があれば、その両方を払う手のもとである。左右に手が渡るので「渡り手」である。
 自分自身の渡り手が決まれば見事であり快感だが、相手に渡り手を決められると結構めげる。
 友札を2枚並べておけば、渡り手となることはないが、相手の攻めや狙いを拡散する意味で、左右にわけて置くケースも結構あるだろう。
 この時に、渡り手を相手に決められると、結構、気持ちがめげる。なぜ片方だけでも払えなかったのだろうかと…。
 こういうケースでは、片方だけでも払うということが大切なのである。
 何よりも、自陣でいえば渡り手対象の札が出る前に、敵陣を取って、そうした友札の片方をどんどん送って自陣と敵陣にわけることができればよい。
 自陣で渡り手で相手に蹂躪される不快感とは逆に、これが敵陣で決まった時は快感であるし、自陣でもうまく渡ることができると本当に快感である。
 この成功体験があると、ついつい渡り手の対象の友札を気にしてしまいがちになる。この気にしてしまいがちというのが、"The forbidden fruit"なのである。
 最初から「渡り手」を決めてやろうと考えて、他の札へのケアが十分にできないようならば、最初から、どちらか片方を確実に払うことを考えたほうがよい。
 変に両方を払おうとすると、上段などに札があると引っ掛けたりして「お手つき」をしてしまうという大失敗にもつながりかねないのである。
 「渡り手」の成功体験は「禁断の果実」と心得、まずは確実に友札の片方に手を出すことを実行するというところから実行していってほしい。

 「渡り手」に落とし穴あり。

5.かつぐ

 競技かるたも「勝負」の世界である。勝負の世界に生きる人に多いのが、ジンクスを重視したり、「縁起(げん)をかつぐ」という行為である。
 というわけで、「かつぐ」というのは、「縁起(げん)をかつぐ」ということである。
 さて、勝負の世界にいると、不思議と実力以外の何かが勝敗に影響を与えているような感覚になる。それを「運」という人もいる。「運も実力のうち」というが、「運」という説明できないものを味方につけたいというのが勝負師の心情である。
 そこで出てくるのが、非科学的といわれるかもしれないが、「ジンクスを信じる」とか「縁起(げん)をかつぐ」といった行為なのである。
 あの時、このTシャツを着て勝利した。だから、今日もこのTシャツを着る。こうした縁起かつぎは、着心地のよさとか縁起かつぎ以外の理由が本当はあるのかもしれないが、大体は気持ちの問題であることが多いだろう。
 こうした行為が、勝負に対しての自分自身の精神的な安定につながり、勝負にプラスに働くならば、それは何も"The forbidden fruit"ではないだろう。
 しかし、このジンクスを気にかけるあまり、もしくは縁起をかつぐこと自体が目的にすりかわってしまったりすると、それは、勝負にとってマイナスに作用しかねない。
 たとえば、いつも勝っているときに着ているTシャツを着ていないから、今日はなんか調子が悪いとか思いこみ始めてしまったら、それは、マイナス作用となってしまう。近江神宮の大会で、前日にお参りした前々回は勝ったが、お参りしなかった前回は負けてしまった。今回もお参りを忘れてしまった、どうしようなどというのもマイナス作用だろう。
 もし、勝負にマイナスになるとしたら、縁起をかつぐことは「禁断の果実」といわざるをえないのである。
 縁起担ぎのプラス面とマイナス面を比較して、プラスにならないのだとしたら、最初から、ジンクス信奉や縁起かつぎをしないほうがいいのではないだろうか。

 人の心は弱いものである。それゆえに「縁起かつぎ」を全面否定はしないが、「禁断の果実」だということは肝に銘じておくべきであろう。

まとめ

 今回の5テーマの中で、「禁断」度合いの強い順に言うと「2」→「5」→「1」→「3」・「4」くらいの順となるだろうか。「3」と「4」は同じ順くらいということで あまり禁断度合いは高くない。「1」だって、使い方さえ間違えなければ、取り立てて禁断度合いが高いわけではない。
 今回の5テーマに共通して流れるのは、「成功体験」の「過大評価」こそが、"The forbidden fruit"だということである。ぜひ、この点には気をつけていただきたい。

 ごく稀な成功体験の誤った評価がもたらすものは、唱歌「待ちぼうけ」のもととなった「守株待兔」の説話のようなことである。「成功体験」はよくよく吟味し、「禁断の果実」にしないようにして、有効に活かしていっていただきたい。


 今回"The forbidden fruit"ではなく、"The forbidden fruits"と複数形にしたのには理由がある。
 前回、そろそろネタも尽きてきたというようにも感じていると書いて、「願わくは、今回が"The forbidden fruit"シリーズの最終回とならないことを…。」などと書いたが、考えているネタのテーマごとが、それほど書き込む分量がなく、その小さなネタをまとめて、今回を掲載、最終回としてしまおうと思ったからだ。
 というわけで、小ネタが複数あるので、タイトルも「禁断の果実たち」で、英文タイトルも複数形にした次第である。
 末広がりの第八回の今回をもって最終回といたしたい。
 約2年間、8回(12項目)の掲載にわたりお付き合いいただき感謝の意を表したい。

ありがとうございました。


★ "The forbidden fruit"のINDEXに戻る ★