能因法師

嵐吹く三室の山のもみぢ葉は
   龍田の川の錦なりけり


決まり字:アラシ(三字決まリ)
 作者は、俗名橘永��(たちばなのながやす)、26歳で出家したという。
 「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹くく白河の関」という有名な一首については、 実際には行かずに、春からずっと人と逢わないように暮らして、いかにも帰ってきたかの ような時期にこの歌を発表したというような逸話がある。
 この逸話の信憑性はともかく、能因法師には歌枕などを巡る旅というイメージとともに いわゆる数奇者としてのイメージが漂う。
 能因の数奇ものぶりをあらわす逸話はほかにもある。藤原節信という数奇者と出会った 時に、鉋屑を見せ「長柄橋を造った時の大工の棟梁の鉋屑」と言い、節信も干からびた蛙を 見せ、「井手の蛙」と言ったという。長柄橋も井手も歌枕なのであるが、双方お互いに感心 して別れたと伝えられる。たしかの数奇者と言ってしまえばそれまでだが、私などから見ると 変わっているとしか言いようがない。
 とは言っても、能因といえば歌枕というイメージがあるのもこうした奇妙な逸話だけでは なく、歌学書「能因歌枕」を著したことにもよるのであろう。
 また、清輔の袋草紙には「和歌は昔より師なし。しかるに能因始めて長能を師とす。」と 書かれている。平安文学の研究家目崎徳衛氏はこれを「これは能因が和歌を、文章道その他 大学の諸学科に匹敵する『歌道』と自負したことを意味する。」(「百人一首の作者たち」 角川文庫)としている。長能は藤原長能という歌人である。藤原倫寧女(右大将道綱母)の 兄である。長能にも、公任に歌を批判され不食の病で死んだという逸話がある。忠見といい、 長能といい、歌詠みという者は、不食の病と縁があるようだ。
 歌の道のおける師弟関係は、この長能と能因をもって嚆矢とする。目崎氏が大学諸学科に 匹敵する「歌道」というのも、能因が橘永��であったころ文章生として大学で文章道(紀伝道) を学んだからに他ならない。当時大学では、明経道や明法道といった学問分野が確立しており、 平安期には、それぞれの分野で家の学となっていた。文章道の家柄は、菅原家と大江家であり、 実際、能因は大江公資(相模の夫)など、大江家の面々と親交が深かった。
 大学では、文章道は文章博士から、明経道は明経博士から、明法道は明法博士から、算道は 算博士から学ぶことになっていた。博士のほかに教える立場としては、助教(すけはかせ)が おり、また直講といういわゆる講師もいた。律令国家において、大学については「学令」という 法律に詳しく定められている。どういう教科書をどのように学び、どのように試験するかまで 決められていた。こうしたものは、平安時代に入り時代と共に変化もしてくるが、いわゆる学問 を体系的に学ぶという根本は変わらないし、師(博士・助教・直講)から弟子(学生)に教える というスタイルも変わらなかっただろう。
 若い頃、こうした学問の道に身を置き、学問により官途を目指した能因としては、歌も同様に 体系的に師から学ぶべき道であると考え、長能を師匠としたのだろう。それは能因にとって、 自然な選択であったに違いない。能因の「能」の字は、「長能」の「能」の字に因(ちな)んで いるのである。

 歌の意味は、きわめてわかりやすい。強い風で落ちてしまった紅葉の葉が川に流れているのを 錦に見立てているのである。
 子供のころ、大人にまじって百人一首でかるた取りをしていた時に、意図的に覚えた歌も もちろん多いが、この歌は、覚えようと努力したのではなく、自然と聞いているうちに覚えて しまった歌である。実に平易で自然な歌なのである。歌合で詠まれた歌というが、変に技巧 をこらしているわけでなく、古今集などで詠まれている「三室の山」とか「龍田川」という 地名が読み込まれている程度である。歌枕といえるのかどうかは知らないが、能因的といえば いえる歌なのではないだろうか。

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2008年4月18日  HITOSHI TAKANO