札模様  第十二章

  十一月  ――運命(さだめ)――


   

「あめ天が下のすべてのことには季節があり、
  すべてのわざには時がある。」
       (聖書「伝道の書」第三章一節より)

 秋の風が頬を撫でる。
 次いで、黄色く色づいた銀杏の葉が頬に挨拶をくれる。
 秋の夕暮れの陽射しを受けて、ヒラヒラと舞い落ちる 黄葉。
 自然の作り出す見事な色彩に心を奪われる。
 「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は
         龍田の川の錦なりけり」
 能因法師の歌が頭をよぎる。後冷泉帝の御代の霜月に 内裏歌合せで詠まれた一首である。いにしえより紅葉・黄 葉は歌のテーマとして数多く取り上げられてきた。
 「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」 という有名な一首でさえも、旅を装って都で詠んだかの法 師のことである、「嵐吹く」の一首も心象風景に映し出さ れた紅・黄葉であろう。彼はこの美しさを「錦」ととらえ た。自然の美しさを人の手による「錦織り」の美しさで喩 えたわけだ。当時、錦織りは、人の手によってなせる最高 かつ希少な工芸品であっただろう。それゆえに、この表現 が生きたのだ。しかし、さまざまな人工物で周りを囲まれ た現代、自然の美しさを喩えるに人造の物を引き合いに出 すことは稀れであろう。
 ミツオもまた、自然の美しさを人の手で表現すること の難しさに直面していた。紅葉や黄葉を札の上に表そうと する時に、思い通りの色が出せないのだ。
 「自然の色をそのままなんて出せやしない。しかし、 描いたものや、染めた色を見る側が美しいと感じてくれれ ば、合格点なんだ。作られた札の美しさを通して、自分が 知っている美しい自然の色を心に思い起こして見てくれる んだから…。」
 札作りの師匠はこう言うが、その美しいと思える色が 出せないのである。能因法師の歌からは、美しい風景のイ メージが湧いてくるのだが、自分の作る札からは、美しさ のイメージが湧いてこないのだ。ミツオは腕の未熟さを感 じていた。
 「しかし…。」
 ふと疑問が浮かぶ。
 「今の子供たちは、自然が生み出す紅葉の美しささえ 知らないのかもしれない。もしかしたら、見たこともない のではないだろうか。」
 この仮説が正しければ、過去に見た風景を想起するこ となどは不可能である。ミツオの作った札の美しさ自体が 勝負となるのだ。だとしたら、札というのは、自然の美し さを表現するには、あまりに限られた小さなスペースでは ないだろうか。ミツオは、後戻りできない巨大な迷路に足 を踏み入れてしまった思いだった。
 秋の日は釣瓶落し。いつまでも理想の札作りに思いを 馳せているわけにはいかない。師匠にことづかった用事を 済ませたら、工房に戻って仕事をしなければならなかった。

  *

 「ただいま帰りました。」
 「よぉっ、お帰り。」
 「ミツオくん、お帰りなさい。」
 かるた工房「蓮沼碩学堂」に戻ると、師匠とおかみさ んが二人で出迎えてくれた。
 「えっ、おふたりお揃いで、どうしたんですか。」
 「今日は、俺たちから、ミツオに渡したいものがあっ てな。」
 「そうよ。私たち二人からのお祝いの気持ちなの。受 け取ってくれるわね。」
 「はあ、はい。いったい、なんなんですか?」
 「これだよ。」
 ミツオの前に差し出された包みは、着物の包みであっ た。
 「和服一式だ。羽織に袴、足袋に雪駄もある。扇子も 用意した。将棋の名人が『飛翔』と揮毫したやつだ。お前 さんが、これから大空にはばたくことを願って選んだんだ。 受け取ってくれるな。」
 「えっ、は、はい。あ、ありがとうございます。喜ん で。でも、いったいなんで…。」
 「弟子の晴れ舞台には、師匠がこのくらいのことをす るのは当たり前なんだよ。まさか、お前、挑戦者決定戦で 負けるつもりなんてないだろうな。名人戦では、この着物 で頑張ってほしいんだよ。そういう意味だ。」
 「よかったら、挑戦者決定戦で着てくれてもいいの よ。」
 「えっ、普通、挑戦者決定戦は、和服は着ないんじゃ ないんですか。」
 「いやっ、そんな決まりなんてないんだぜ。実際、和 服着て取る奴だっているじゃないか。よしっ、決めた。挑 戦者決定戦も、これを着て取れ。今日から、練習も和服着 用だ。」
 「えーっ、取りなれない和服で、決定戦出たら不利じ ゃないですか。」
 「ばかやろう、着物着た程度で弱くなるんだったら、 最初から決定戦になんか出るな。逆にな、和服を着ていけ ば、相手がこっちの本気印にビビるかもしれないぞ。」
 「そんなことでビビるような相手じゃないと思います けど…。」
 「まあ、それもそうだな。でもな、やっぱり和服を着 て挑戦者決定戦に臨め。俺は名人戦を目指しているんだと いう気迫が、相手にも周りにも伝わるはずだ。気迫をさり げなく伝えるということは、大切なことなんだぞ。今日の 練習から始めるぞ。着方から、たたみ方まで、一から手ほ どきしてやるから、心配しなくてもいいぞ。俺は応援には いかないからな。全部自分でできるようにな。」
 「え、応援に来てくれないんですか。」
 「あたりまえだ。俺は、まだまだ、名人を狙う現役選 手だ。お前さんが名人になったら、お前を倒しにいく刺客 だぞ。倒すやつを応援にいくなんて間抜けなことができる かよ。」
 「また、強情なことを。まあ、いつものことですけど。」
 「なんだ、なんか言ったか。」
 「いいえ、なんにも。ミツオくん、あとで着物着たら 見せてちょうだいね。」
 「はい。親方、おかみさん、本当にありがとうござい ます。精一杯、がんばります。」
 「よしっ、練習でもいじめてやるからな。覚悟しとけ よ。」
 ミツオは、親方夫妻の心遣いに心から感謝していた。

 実は、ミツオは、先月行なわれた競技かるたの名人戦 予選の東日本代表になっていたのだ。親方夫妻からの着物 のプレゼントは、このお祝いと決定戦へ向けての励ましを 込めたものである。ミツオの今年の戦績は、五月の小倉忌 慶讃大会で四位、六月の仙台大会で準優勝、八月の益田大 会で三位と入賞を三回していた。交通事故の怪我から復活 して以降では一番いい調子にはなっていたのだが、まさか 名人戦の東日本予選で優勝できるとは思ってもいなかった。 一回戦では二分の一の不戦勝グループに名を連ね、二回戦 では、千葉の大碇紋太郎を十五枚差で撃破して、絶好調の スタートを切った。入賞戦となった三回戦では、横浜の仲 谷誠司に四枚差で勝つことができた。仲谷は、体調を崩し ているのかいつもの精彩がなく、暗記が充分に入らず苦し んでいたミツオは、勝ちを拾わせてもらった感じだった。 準々決勝では、運命の皮肉か、札作りの師匠であり、普段 もっともよく練習する相手である東京不動会の蓮沼と当た ってしまった。ミツオは、所属を大学の会のままにしてい たからである。対戦が決まった瞬間、ミツオは棄権するこ とを考えていた。ここのところの練習でも、蓮沼には十一 連敗していたので、蓮沼も文句は言わないだろうと思った からだ。ところが、この話を切り出すと蓮沼は激怒した。 「ばかやろう。お前と名人戦で戦うのが夢だったんじゃね ぇか。舞台はちと早い名人戦予選だが、出場権をかけた真 剣勝負の場には違いねぇ。名人戦は予選だろうがなんだろ うが、たとえ兄弟でも、親子であっても戦って決着をつけ るもんだ。そうでなければ、お前に負けたやつが浮かばれ ねぇだろうし、真の日本かるた界の頂点なんていえないじ ゃないか。棄権するのも勝った人間の権利だなんて言うや つがいるそうだが、奢るんじゃねぇって言いたいぜ。いい か、手ぇ抜きやがったら、ただじゃ済まないからな。覚悟 しとけ。」この言葉にミツオは、震え上がった。こんなに 真剣に怒った師匠を見たのは初めてだったからだ。あとは、 無我夢中だった。かくも集中して真剣にかるたを取ったこ とは、今までも、そしてこれからもないのではなかろうか。 気がつくと蓮沼に八枚差で勝っていた。蓮沼の茫然とした 表情が印象的だった。準決勝の組合せは、ミツオ対真田、 田淵対デビッド・スミスとなった。真田は、三年前の名人 戦予選の準々決勝で蓮沼に勝ったものの試合中の骨折のた め、準決勝で無念の棄権をした選手だった。今回は、三年 前の無念をはらす絶好のチャンスである。田淵宏は、早大 の四年生。ミツオが今年の仙台大会の決勝で敗れた相手だ。 精力的に全国各地の大会に出場し、好成績をおさめている 売り出し中の若手だ。デビッド・スミスは、言わずと知れ た外人初のA級選手。日本かるた界を脅かす黒船である。 この黒船は強力だった。田淵のやや長めの両下段は、超弩 級の艦砲射撃で無惨にもズタズタにされてしまった。予想 外の十七枚差。その見事な勝ちっぷりにギャラリーは戦慄 さえ覚えたのだった。一方、ミツオも必死だった。蓮沼の 名人戦にかける情熱は、普段から目の当たりにしているの だ。その蓮沼に勝った以上、蓮沼の手前、負けるわけには いかないのだ。負けた時に蓮沼に何を言われるか知れたも のではなかった。競った展開の中、一枚一枚、丹念に暗記 を入れなおす。不思議と集中力が衰えない。最終盤、二枚 対二枚になった。真田陣の右下段の一字が詠まれた。真田 の手が明らかに早かった。しかし、払いの手は、札の上空 を通り過ぎただけだった。戻る手よりはミツオの払いが早 い。畳を叩いて悔しがる真田。この一枚が、勝負の帰趨を 決めたと言ってよいだろう。次に詠まれたのは、ミツオが 自陣に残した札だった。真田の攻め手は、すでに札が払わ れたあとの畳をこすっただけだった。いよいよ決勝戦であ る。下馬評では、デビッド・スミスの優勢である。しかし、 判官びいきなのか、外人に東日本代表を取らせたくないと いう日本人びいきなのか、応援は、圧倒的にミツオに対す るものだった。世論を味方につけるということは、勝敗の 要因の一つとして大きく作用する事もありうる。周囲の雰 囲気を察しているのだろうか。デビッドは、しきりと汗を 拭う。季節からいっても、時間からいっても、そんなに暑 いわけはない。精神的な発汗作用なのだ。ミツオは、ギャ ラリーの応援を背に非常にリラックスしていた。「外人に 負けてはならない。日本の文化的競技を夷狄の手から守る のだ。」などという気負いは全くなかった。デビッドは、 来日当初からの知り合いなのだ。短期間でこれほどの実力 をつけたのは、素地と環境もあったろうが、努力の賜物以 外の何ものでもない。そして、、こんな大舞台でデビッド と対戦できることが無性に嬉しかった。心の状態が落ち着 いていると、かるたの取りも安定する。速いことは速いが、 速さにムラがあり、動作に無駄が出てきたデビッドに対し、 ミツオの安定した的確な取りが決まる。結局、お手つき三 回のデビットに対し、ノーミスのミツオが、三枚差で決勝 戦を制したのだった。
 そして、この翌日から、蓮沼はミツオに対する特訓を 開始した。

 「どうした。ここ数日で最低の出来だぞ。」
 「はい…。」
 返事をしたきり、無言の間が続く。何を言っても叱咤 されるだけだ。
 「言いたいことは、わかってる。『初めての着物で慣れ なかったもので』ってんだろ。」
 「はい、でもそれを言うと親方に『甘えるんじゃねぇ。 そんなくらいで取れなくなるならやめちまえ』って言われ ますから。」
 「そうそう先読みするなよ。可愛くねぇな。」
 「親方とも付き合い長くなりましたから…。」
 「減らず口をたたくな。着物で取った時のどういうと ころが気になるか言ってみろ。」
 「結構、重いんですよね。それに、窮屈で、腕の振り が引っ張られる感じっていうか。手が伸びないんです。こ れを楽にしようとすると多少胸元があいて、着くずれた感 じでだらしなく見えませんか。それに袴の捌き方がわから ない。膝の動きが自由にならないんです。」
 「まあ、自分なりに問題点は絞れてるようだな。初め てのやつが誰でも持つ感想だよ。うん、要は慣れだ。」
 「それじゃ、アドバイスになってないじゃないです か。」
 「アドバイスなどと甘えたことを言うんじゃねぇ。結 局、帯の締め具合にしても、着物の合わせ具合にしても、 そういう経験をもとにフィットするように調節して、身体 で覚えるしかないんだよ。あとは、他人が着物を着て取っ ているのを見て参考にするんだな。」
 「えっー、じゃあ、今度、親方も着物で取ってくださ いよ。参考にしますから。」
 「ああ、わかった。あとは、今までの衛星放送の名人 戦ビデオを着物を着て取るという観点から見てみるんだな。 あとで貸してやるよ。今日は、特に袴に手を焼いたって感 じだったな。」
 「膝の裏側に畳み込もうとすると、厚みがあって気持 ち悪いし、ふわっとさせて座ると、構えた時に邪魔になる ような感じで、馴染まないんですよね。下半身が決まらな いと、落ち着かないんですよ。」
 「そうだ、土台が肝腎だからな。仕方ねぇな。じゃあ、 ちょっと、構えてみろ。」
 突き放すようなことを言いながらも、結局、手取り足 取り指導する蓮沼であった。蓮沼にとってミツオは、口癖 のとおり競技かるたの名人位を狙う上でのライバルであり、 「札作り」「競技かるた」の双方において、育てがいのあ る弟子でもあるのだ。この晩も二人三脚の練習が遅くまで 続いたのだった。

  *

 「どうだ。たまには違う場所で取るのも気分転換にな るだろう。」
 「はい。今日は、わざわざ練習会を開いてくださって ありがとうございます。」
 「自分が、こういう調整方法だったからな。でも、蓮 沼さんがよく出してくれたな。」
 「昨日から、宮崎に出かけてますから、留守中は自分 で考えて練習しろって。」
 「そうだったのか。そう言えば、今日は宮崎大会だっ たな。出なくてよかったのかい。試合も調整のいい機会だ けど。」
 「いえ、試合に出ると、東日本代表という目で見られ るのがいやじゃないですか。代表のくせに弱いとか言われ るのってたまらないじゃないですか。それに、相手にもい ろいろな情報が伝わるじゃないですか。あいつは調子が悪 いとか、弱いとか変な噂が流れるのも嫌なので…。」
 「たしかにそういうのもあるよな。でもな、試合に出 る出ないに関わらず、噂ってのは流れるもんだけどな。そ れは、覚悟しておけよ。それから相手の噂は、いっさい気 にするな。信用できるのは、自分が実際に対戦したり、自 分が観戦したりして入手した情報だけだからな。」
 「さすが、前名人の言葉には重みがあるよな。」
 「高橋さん、チャチャ入れないでください。」
 「いや、高橋さんの言うとおりだと思います。参考に なります。」
 この日は、大学時代の先輩、同期、後輩が重村の家に 集まって、ミツオのための練習会を設けてくれたのだった。 高橋、西寺、古賀の三人を加え、五人の練習会だった。一 試合めは、高橋を九枚差で下した。名人戦予選以来の久々 の勝利の味である。実は、予選以来蓮沼に一回も勝ってい なかったのだ。
 「着物で取っても、取りに違和感がないね。着慣れて る感じがするよ。」
 「毎日、これで練習してますから。」
 「蓮沼さんがつくってくれたんだろう。ありがたいよ な。しかし、東西決定戦から着物で取るなんて、よく決意 したよな。」
 「ぼくは、迷ったんですけど、親方が勧めるんで、そ の気になったんです。」
 「まあ、ひょっとすると盤外戦で有利に持っていく効 果があるかもしれないし…。」
 感想戦で、高橋は、試合内容のことより着物のことば かり言っていた。
 「着物でもいけるぞ。親方以外と取るのも新鮮でいい なぁ。親方には手の内見透かされているから、勝てないん だよな。」
 ミツオは、内心でこう思っていた。二試合めは、前名 人の重村だった。今年の一月に失冠したものの強さは変わ らずだった。ミツオは十一枚差で負けた。
 「さすがに前名人は強い。予選に出ていたら文句無し で代表になってるんだろうな。」
 三試合めの西寺とは、彼の在学中以来の久し振りの対 戦だった。西寺は、大学卒業後はほとんど練習もしていな い筈だ。しかし、ミツオは一枚差で負けた。
 「六枚対一枚から六枚守られて負けってのは、情けな い。でも、西寺の守りは、練習してなくても健在なんだ。 さすが、守りのスペシャリストだ。」
 相手に感心している間もなく、最後の対戦は、古賀と だった。彼も現在では、仕事が忙しくかるたから遠のいて いた。しかし、いざ取り始めると、お手つきは多いが、速 さは現役当時とたいして変わらない。ミツオは、相手の速 さに振り回されて、最終盤でお手つきを返し、結局三枚差 で敗れてしまった。
 「………」
 自陣を抜かれて、無言で相手と詠みに頭を下げた。沈 黙がその場を支配する。ミツオは呆然として札を数えよう ともしない。掛時計のカチカチと時を刻む音が、やけに響 く。ふいに、ミツオの目から涙がこぼれた。
 「何故、代表になんてなっちゃったんだ……。こんな に弱いのに……。」
 こう呟いて、取り札を五枚ずつ、バサッ、バサッと数 え始めた。
 「重村さん、何故、再度名人位を目指さなかったんで すか。重村さんのほうが、ぼくなんかより、よっぽど強い じゃないですか。」
 ミツオは、うめくように言った。
 「練習してない西寺だって、古賀だって、ぼくより強 いじゃないか。ちょっと練習すれば、代表を充分狙えたん じゃないか。なあ?」
 「いやぁ、……。」
 西寺にしても、古賀にしても、答えようがない。
 「それに、蓮沼さんだって、ぼくなんかよりはるかに 強い。たまたま、予選の時に勝ったけど、あの時以来、練 習で一回も勝てないんですよ。」
 札の端数を合わせて、古賀が取り札を箱に片づける。
 「だいたい、なんで沢木が予選に出てなかったんだよ。 あいつなんか、北国、吉野、八王子、明静って、ここんと ころの大会でA級優勝を続けているんだから…。今日の宮 崎も優勝するかもしれないし。ぼくなんかより、実績も実 力も文句なしだよ。みんな、今年の東日本代表の候補って 噂してたじゃないか。」
 「そう言えば、何故か名人戦予選は、エントリーして たけど出なかったらしいな。」
 「出たら、挑戦者になっちまうってか。」
 「えっ?」
 「未確認情報だけど、名人戦の時は、三ヶ月の海外出 張中らしいよ。彼。」
 高橋の情報に、再び沈黙が訪れた。
 「ミツオ。」
 沈黙を破ったのは、重村だった。
 「俺が、今年名人戦予選にチャレンジしなかったのは、 『時』が満ちてなかったからなんだよ。前は、名人位を落 ちたら引退するつもりだったんだけど…。今は、違う。変 に自分を決めつけることはないって思うんだ。自分の心に 素直に従いたいだけなんだ。『時』を感じたら、きっと再 開する。俺が出なかったのも、沢木が出なかったのも、こ れは巡りあわせなんだよ。」
 「はぁ…。」
 「そうだよ。今回、ミツオが東の代表になったのは、 ミツオにだけ与えられたチャンスなんだよ。きっと。」
 西寺が、続ける。
 「予選に出ない人間がいくら強かろうが、関係ないん だ。気にすることはないのさ。試合に出て勝ち残ったとい う結果を残した人間だけが、まごうことなき代表なんだよ。 蓮沼さんだって、練習でいくらミツオに勝ったって、本番 では勝てなかったんじゃないか。本番で勝てなかった人間 が、本当は俺のほうが強いって言ったって、その言葉に説 得力はないんだ。蓮沼さんは、自分自身がそのことをよく 知っているんじゃないか。本当は、自分のほうが強いなん てことは決して言わないだろう。」
 「ええ、そういうことは思っていても、言いませんね。 『名人取って、首を洗って待ってろよ。』とは言いますが。」
 「前向きな人だよな。ミツオは、本当にいい人のとこ ろに弟子入りしたよな。」
 「札作りは、師匠と弟子ですけど、かるたは『ライバ ル』ですから。」
 「その『ライバル』ってのも、蓮沼さんが言ってくれ るんだろ。気が若いよな。ミツオが、今回、代表になれた のも、蓮沼さんとの日々の練習があったからに違いないん だよ。その積み重ねが、今回花開いたんだ。もっと自信を 持てよ。すべてのことには『時』がある。いくら望んだっ て、『時』が来なければ成就しないんだ。それが、東日本 の代表まで来たってことは、『時』が味方してるんだよ。 俺には、『時』が最後まで味方してくれなかった。だから、 名人戦で重村さんに負けた。力がなかったと言えばそれま でだけど、そういう『さだめ』だったのかもしれない…。 今では、体重も増えて、ダイエットしなければ到底、予選 の長丁場をクリアできないようになっちまったし…。とに かく、うじうじ考え込むな。練習で負けが込んでも、本番 で勝ちゃいいんだよ。そんなの本番で取ってみなきゃわか んないだろ。」
 「ああ、なんかよくわかんないけど…、わかった。今 の自分に悩むのはやめる。本番で全力を出すことだけを考 えるわ。」
 口では、こう言ってみたものの、自分の中で割りきれ たわけではないミツオだった。それぞれの予選を勝ち抜い てきた東西の代表者による挑戦者決定戦は、一週間後に迫 っていた。

  *

  「苦労かけるな  お前には
   舞い散る札に  すべてを賭けた
   俺の人生  大勝負
   札一枚の  泣き笑い
   いつかはきっと  名人に
   勝負を挑んで  勝ち名乗り

   恋の思いを  歌は詠む
   狙った札に  真心のせて
   おまえのもとへ  まっしぐら
   恋のかけひき  泣き笑い
   いつかはきっと  夫婦札
   ふたりで取れば  初勝利

   たかが歌留多と  言わば言え
   跳ね飛ぶ札は  思いのたけよ
   百人一首の  勝ち負けに
   札一枚の  泣き笑い
   いつかはきっと  日本一
   明日を夢見て  今日も取る」

 何故か朝から、この歌が頭の中で響いている。蓮沼が、 作詞したというコテコテの演歌である。「かるた人生」と いうタイトルもつけられ、CD化されたそうだ。五年ほど 前に蓮沼の手刷り札のタニマチであるレコード会社の役員 が、この詞の話を聞いて、曲をつけて新人演歌歌手に歌わ せたという幻の作品なのだ。ミツオ自身は、こういうジメ ッとした演歌は好みではなく、明るくポップな歌が好きな のだが、蓮沼が昨日何度も聞いていたせいか、耳に残って しまっていたのだった。
 「『札一枚の泣き笑い』か、まったくだ。」
 地下鉄茗荷谷駅から、試合会場のかるた記念会館まで 歩きながら、歌を口ずさんでいると、現在の自分の心境に あまりにぴったりする歌詞なので、ふとおかしくなってし まった。
 「なに一人でニヤニヤ笑ってるのよ。気持ち悪い。」
 不忍通りの横断歩道のところに差しかかると、突然、 声をかけられた。信号待ちをしている山根志保だった。
 「よお、山根か。おはよう。今日は、観戦か。ご苦労 さん。」
 「おはよう。今日は、うちの亭主の分まで頑張るのよ。」  デビッド・スミスも一緒だった。
 「いやあ、デビッド。おはよう。いつもご夫婦一緒に かるた会に顔を出せていいね。」
 「ミツオ、おはようございます。志保、『私の分まで頑 張れ』言うのよくないです。今日の試合は、ミツオのもの です。他人の分背負うことありません。本人が一番頑張っ ているのですから、応援の言葉に『頑張れ』必要ありませ ん。ミツオには、別の言葉送ります。」
 「なに、それ?」
 ミツオではなく、志保が聞き返す。信号が変わり、三 人で歩き出す。
 「志保にいつも言う言葉ですよ。」
 「試合の時?」
 「ええ。ミツオ、『リラックス!』。決定戦を楽しんで ください。」
 「サンキュー、デビッド。」
 ミツオは、デビッドのこの言葉で、フッと肩の力が抜 けた感じだった。
 試合会場の会館に到着すると、すぐに和服に着替えに かかった。このために早く出てきたのだ。天気予報では、 気温が平年より三度ほど低いということだったので、ホッ としていた。あまりあったかい場合は、和服を着ないつも りでいたからだ。会場に入り、役員に挨拶をする。
 「佐多さん、今日は着物で取られるんですか。意気込 みが感じられますね。」
 「私はつねづね、決定戦も着物着用にしたほうが、い いと思っていたんですよ。よくぞ、着てくれました。」
 おおむね、各役員の反応はよかった。
 しばらくして、対戦相手の西日本代表が入って来た。
 福井県在住なので、昨日から都内のホテルに泊っていたの だ。

 氏名  若狭康治
 年齢  二十歳
 職業  会社員
 かるた歴  八歳からあしかけ十三年。五段。

 西日本では、成長株として期待の若手である。昨年は、 西日本予選の決勝で、現在の名人に敗れたが、今年は見事 に代表の座を勝ち取ってきた。
 「おはようございます。」
 役員に挨拶してまわる。ミツオのところにも来た。
 「おはようございます。若狭です。今日はよろしくお 願いします。」
 「佐多です。はじめまして。本日はよろしくお願いし ます。」
 ミツオは、対戦相手とは、初対面だった。相手は、ミ ツオのことを役員の一人とでも思っていたようだった。
 「えっ、それでは、今日の対戦相手の…。」
 「はい。佐多三男です。」
 「は、はじめまして。若狭康治です。」
 やはり、対戦相手の着物姿に多少驚いたようだった。
 そうこうするうちに、クイン戦の東西の代表も、集ま ってきた。開会の宣言が行われ、審判長からの注意などを 経て、競技となる。
 対戦相手が、競技用の服装に着替えてきた。濃紺のト レーナーに、黒のジャージである。ジャージは普段から使 いこんでいるものなのだろう。膝の部分に二重に継ぎがあ たっている。はたから見るとミツオの着物姿とは不釣りあ いである。相手の緊張感がミツオにも伝わってくる。しか し、ミツオ自身も相当緊張していた。ギャラリーの目も気 になるし、相手のかるたについても未知数である。福井伝 統の強烈な攻めがるたであろうことは予想がつくが、それ とても、取ってみなければわからない。ミツオは、札を箱 から出す時に、緊張のあまり、落として散らしてしまった。
 「すみません。」
 謝ったのだが、相手もその声に気づいてさえいないよ うだった。二十五枚ずつ札をを並べる。札を並べ始めると 次第に心が静まってくる。暗記を入れている間は、余計な ことを考えないですんだ。
 「では、時間ですので、挑戦者決定戦一回戦を始めま す。」
 試合開始だ。最初に札を取ったのは、ミツオだった。 敵の右中段をきれいにはらった。札を一枚取ると不思議と 落ち着くものである。
 「よし、これでパーフェクト負けはなくなった。」
 弱気な感想であるが、ミツオの本心でもあった。気を よくして、続けざまに敵陣から二枚抜いて、自陣を二枚守 る。二十対二十五。最初の五枚差は大きい。
 「いける。」
 しかしながら、相手も西日本の代表である。そうそう 相手ペースにはまっているわけではなかった。
 「はいったった!」
 景気の好い掛け声とともに、ミツオの右下段から一字 札を抜いていった。これが、反撃の狼煙となった。若狭の 攻めが決まり出す。負けじとミツオも攻めるが、出札の割 合が、ミツオ陣のほうが多い。十六枚対十六枚と追いつか れてしまった。ところが、ここで、クイン戦の挑戦者決定 戦のほうで微妙な取りがあり、双方の主張でもめてしまっ ていた。審判がついているにも関わらず、審判に聞きもせ ず、もめている。四〜五分も主張が続いたであろうか、大 会役員が一声かけた。
 「進行上の問題もあるので、審判の判断を仰いでくだ さい。依存ないですね。」
 「はい。」
 「……。」
 一人は不満なようだったが、無言で頷いた。
 「こちらの取りです。」
 審判が、取ったほうを指し示す。
 「えっ、でも…。」
 「ゴホンッ!」
 主張を認められなかったほうが、審判に抗議しそうに なった時に、審判長が大きな咳払いを随分わざとらしくす る。さすがに、抗議しかけた選手も黙った。
 中断の間、ミツオは、嫌な気分になりながらも、暗記 を入れ直す。しかし、集中力が途切れてしまったのも事実 だった。敵下段の札が詠まれる。今までの展開であれば、 攻め取っている札のはずだった。ところが、攻めが遅れて しまったのだ。若狭に余裕で守られてしまった。続けて出 る敵陣。攻めきれないミツオ。クイン挑戦者決定戦の主張 中断の悪影響が出てしまった。札の流れは、敵陣。でも攻 められないミツオ。逆に五枚差をつけられてしまう。が、 影響を受けたのは、ミツオだけではなかったらしい。若狭 のほうも集中力に変調を来たしていたようだ。ミツオ陣で 三字決まりの札をお手つきした。差は三枚差に縮まる。こ のあとも、お互いに払い残しや、攻め遅れが目立ち、最終 盤を迎えた。
 若狭の残り札二枚、ミツオ五枚。若狭は、左右下段に 一枚ずつ配置し、ミツオは右下段に二枚、左下段に三枚並 べていた。ミツオの狙いは、敵の右下段の攻めと自陣左下 段の守りだった。左縦ラインにポイントを置いたのだ。自 陣の右下段は、相手が出遅れた時に取れれば儲け物程度に 考えていた。相手がミツオ陣の左を攻めてきた場合でも、 とにかく相手に先んじて手を出すことで、相手の攻めを牽 制する効果を期待できる。集中力は、ここに来てようやく 高まってきた。
 詠みのタイミングをはかるミツオ。
 「よしっ!」
 詠みとともに敵右陣を攻め抜く。
 送り札を慎重に選ぶ。相手には、まだ二枚ある。出そ うにない札を送って守るより、出そうな札を送って攻める。 積極策で札を送った。
 「ふーっ。」
 カラ札に肩の力を抜く。再び、高まる緊張感。張り詰 める神経。
 「はいった。」
 出た。今、送った札だった。
 これで、二枚対三枚。一枚差だ。もう一回出そうな札 を送る。敵陣は左右下段に一枚ずつ、ミツオは右下段一、 左下段二である。
 「はいった、はいった!」
 若狭の声が響く。右を抜かれた。ここに来て相手の攻 めも本調子になったようだ。若狭の送りは、ミツオが送っ た札とは逆の札だった。ミツオが出そうだと思った札を自 陣に残したのだ。「捨て身で攻めにいくか。いや、なんか すぐには出ないような気もする。」ミツオは悩んだ。
 「お待ちください。」
 ミツオは、送られた札を左下段に、今まで左に置いて いた二枚を右下段に配置しなおした。
 「こうします。」
 「はい。」
 相手は出そうだと思って札を送ってきたのではないと 直感的に感じたのだ。ミツオもこの札は一・一までは残る 札ではないかと感じていた。「取りあえず、自陣右下段の どちらかが出る。」この思いが、確信のようにミツオの中 に広がってくるのだ。
 カラ札が一枚詠まれた。ミツオは、音とともに自陣右 下段を囲った。この二枚は取らせないぞという、相手に対 するデモンストレーションになったはずだ。
 「よし。」
 ミツオから、低い声が洩れた。相手の手が見事に囲い に出た手にぶつかってくれたのだ。これで、一枚・二枚。 ミツオは、左下段の札を右下段の外側に置きなおした。「も う、いい。悩むのはやめた。さっき送った札が出そうな気 がしたのは間違えだ。自陣の二枚の札と心中だ。」方針を 決めると、気持ちがスーッと静まってきた。音に対する感 覚が冴え渡るようだ。
 カラ札もなく、ミツオ陣が二枚立て続けに詠まれた。
 ミツオは、この二枚を死守したのだった。

  【名人戦挑戦者決定戦一回戦】
     ○ 佐多三男  一枚  ● 若狭康治

 「私の薬指が、そちらの指の間から先に札に届いてい ます。」
 「あなたの指がくぐった時には、私はすでに札に触れ ています。」
 「いいえ、私の指のほうが早いです。」
 「そんなことありません。」
 クイン戦挑戦者決定戦は二回戦でも、激しい主張の応 酬が続いた。持ち札、十枚対十枚、中盤戦の山場に来て、 またもや、大もめが始まった。
 「いいかげんにしてくれよ。」
 ミツオは内心、頭に来ていた。周囲の影響をもろに受 けて、感情を害することは競技者としては失格である。し かし、この時は、状況が違った。ミツオの持ち札十七枚に 対し、相手はすでに一枚なのだ。すでにミツオの集中力は 途切れていた。思いはすでに三回戦にある。
 「ゴホンッ!」
 「ゲホッ!ゴホン、ゴホン。」
 ミツオがわざとらしく咳払いすると、ほぼ同時に審判 長の咳払いが聞こえた。ところが、審判長は、咳払いの先 をこされて、むせてしまったようだ。この咳払いで、熱く なって主張していた選手も気付いたようだった。
 「審判、いかがですか。」
 審判は無言で、聞いたほうの選手を指し示す。
 「……。」
 取られたほうの選手は、キッと険しい目で審判をにら む。しかし、にらんだところで判定が変わるわけもない。 詠みが再開された。
 「なほあまりあるむかしなりけり…
   吹くからに秋の草木のしをるれば…」
 「はいったったっ!」
 ミツオ陣を蹂躪し、吠える若狭。
 「あ…した。あ…した。あ…した。」
 ミツオは、相手と詠み手と審判に素早くお辞儀する。
 「ありがとうございました。」と言っているのだが、一連 の動作で手早く言うものだから、傍から聞いていると、「あ …した。」と聞こえてしまう。
 一回戦が終わり、ミツオは無性に腹が減っていた。普 通であれば、食べないか、おにぎり一つですますところを 三つも食べてしまっていた。すると今度は、突然睡魔が襲 って来た。二回戦は、暗記時間から眠さとの戦いだった。 相手に六枚連取されて、ようやく回復してきたが、相手を 調子にのせてしまったツケは大きかった。若狭の攻めがミ ツオ陣で炸裂し、ミツオの焦りは、お手つきを誘発した。 その結果が、大差の負けであった。泣くも笑うもあと一試 合だった。

  【名人戦挑戦者決定戦二回戦】
   ○ 若狭康治  十七枚  ● 佐多三男

 クイン戦挑戦者決定戦の間は、ミツオにとって、気持 ちを落ち着かせるいい時間となった。こちらの試合は、二 ―〇のストレートで勝負が決した。三回戦で、あの大もめ を聞かされないですむのはありがたいと、ミツオは正直ホ ッとした。
 「三回戦、始めますよ。」
役員の声に、頬をバシッと両手で張り、ミツオは気合 を入れた。
 「ミツオ、リラックス、リラックス!」
 デビッド・スミスが声を掛けてくれる。
 「OK!デビッド。」
 「グッドラック!」
 二回戦が終わって、負けたら蓮沼になんて言われるか わからないと、勝利への思いに汲々としていたミツオにと っては、最高の応援だった。
 「そうだよな。ここまで来たんだ。幸運でもなきゃ、 勝てないや。」
 ミツオは今朝、デビッドに言われたことも思い出した。
 「よし、試合を楽しんで、あとは幸運まかせといくか。」
 三回戦の暗記時間が始まった。共札が結構偏っている。 敵陣では、右下段に「シ」決まりと「キ」決まり、左下段 に「ナガ」決まり、左中段に「ハナ」決まり、右上段に「ア ワ」決まりと「アラ」決まりである。ミツオの陣では、「ツ」 決まり、「イ」決まり、「ハル」決まり、「ヨ」決まり、「ナ ニ」決まり、「ワス」決まり、「ワガ」決まりである。敵陣 を抜いたら送る札のネタには困らない。こうした決まり札 がわけられていく流れの中で、いかに正確に取れるかも大 きなポイントとなる。十五分は、ミツオには、少々短く感 じられた。
 詠みが始まった。しょっぱなから、カラ札が五枚も続 く。一枚、一枚、緊張がミツオを支配する。
 「ふーっ!」
 深呼吸をひとついれる。
 最初に出たのは、「つき」だった。ミツオ陣左下段に内 側から「つく」「つき」と置いてあった。
 「よ…。」
 「はいった。」
 「…くないか。」
 「つく」の札に達したのはミツオが早かった。思わず 「よし」という声が出かけた。が、若狭の真っ直ぐの突き が、「つき」の札に入っていた。札押しでは札直に勝てな い。ミツオの声にかぶさるように入った「はいった」の声 に「よ…くないか」と続けてしまうミツオだった。若狭の 送りは「きみがためを」だった。右下段に置きかけたが、 右下段に七枚めを置くことを嫌って、上段中央に配置した。 「『き』じゃない、『きり』『きみがためは』。」と、敵陣 の暗記を入れなおす。
 「わがみひとつのあきにはあらねど…
   き…」
 ミツオは、札を送られて暗記を入れなおしたはずだっ た。しかし、詠まれた「き」の音で、思わず敵陣の右下段 の「きり」と「きみがためは」を払っていた。と、次の瞬 間、無意識に自陣上段中央の「きみがためを」を囲ってい た。相手は、唖然として何もできないでいた。
 「…みがためはるののにいでてわかなつむ…」
 詠みは「きみがためは」を詠んでいた。
 「よーし、ついている。それに落ち着いている。ちゃ んと無意識にフォローできているなんて、これは落ち着い ている証しにほかならない。いける。」
 ミツオは気をよくしていた。さっそく「いまは」を送 る。今度は自陣を「い」で払うようなチョンボをしないよ うにしなければならない。三回戦の雲行きは、すでに妖し げだった。
 取りつ取られつ競技は進む。十九対二十、十三対十五、 十対十二、ミツオはわずかのリードを保っていた。ただ、 取りの舞台は、ほとんどがミツオ陣なのだ。この展開は二 回戦と変わらない。ミツオは右下段は抜かれるものの、自 陣の左と上段をよくキープしていた。敵陣をあまり取れな いためにわけられずにいる共札を、自陣のバランスを取る ために左右にわけたりすると、若狭は不思議と出札の逆か ら払ってくれるのだ。ミツオは相手に渡り手をさせること なく、出札を堅実におさえた。
 若狭が十枚を切った時、ミツオの持ち札は六枚。三枚 差だった。普通であれば、ミツオも攻めるはずだった。し かし、ミツオは、ここで自陣が出続けるという感覚にまと わりつかれていた。そして、この感覚は自陣を守りたいと いう衝動を引き起こすのだ。敵の攻めのターゲットになっ ている右下段も守り切れる。何故だかわからない確信だっ た。
 その場で取っているものだけにもたらされる感性は、 ミツオに味方した。なんと五枚連続ミツオ陣が出たのだ。 しかも取られたのは一枚だけ、四枚は守りきった。二枚対 八枚。数の論理からいったら八割がたは守る場面だ。だが、 若狭は、それでも攻めてきた。彼もまた、敵陣を攻めきれ ない自分に納得がいかないのだ。
 「やくやもしほのみもこがれつつ…
   よ…」
 若狭は、ミツオ陣「よを」を攻めに出る。この時、何 故だかミツオには音が聞こえなかった。
 「…よのなかはつねにもがもななぎさこぐ…」
 すでに二字決まりの自陣「よの」への戻りは完璧だっ た。ミツオはピクリとも動けなかった。
 しかし、無情にもミツオの「よを」の札は、一センチ ほど動いていたのだった。取り損である。労せずして、リ ーチがかかった。ミツオは、この一字に決まった「よを」 の札を残した。必ず、相手の持ち札がなくなる前に出ると 信じたからだ。
 一対七、一対六、一対五。差は縮まる。構えこそ敵陣 を攻めてはいるが、気持ちは自陣に集中している。一対四。 四枚連続で敵陣が出た。
 「かひなくたたむなこそをしけれ…
   よをこめてとりのそらねははかるとも…」
 出た。ミツオの右手は、自陣の札を跳ね上げていた。

  【名人戦挑戦者決定戦三回戦】
   ○ 佐多三男  四枚  ● 若狭康治

 「なんだか、冴えない決定戦でしたね。」
 「佐多くんっていうのはムラッ気があるのかね。二回 戦はひどかったね。」
 「それに三回戦のあの守り一辺倒。あれで挑戦者です か。物足りないですね。」
 「一月は、名人の防衛劇が見れそうだね。」
 表彰式も終わり、ミツオが物陰で着替えていると、様々 な声が聞こえてくる。人の気配がなくなったと思ったら、 音もなくデビッド・スミスがやってきた。
 「ミツオ。おめでとう。」
 「サンキュー、デビッド。」
 「今の話、聞こえてたんでしょう。」
 「ああ。批評家はいいよな。勝手なこと言ってればい いんだから。」
 「……。」
 「ぼくは勝ちたかったんだ。守れば勝てると感じたん だ。だから、守ったんだ。いいじゃないか、それで。二回 戦だって、下手に粘って体力を消耗して三回戦に臨むより、 大差で負けて結果的に良かったんだ。なんで、あんなこと 言われなきゃいけないんだよ。」
 「そうです。ミツオ。あなたは正しい。言いたい人に は言わせておけばいいのです。勝ったという事実が、大切 なんです。名人戦でもミツオがいい試合をできるように祈 ってます。」
 「デビッド、本当にありがとう。デビッドの『リラッ クス!』っていうのと『グッドラック!』っていう言葉の おかげで、本当に落ち着けたんだ。楽しんで取れたとは言 えないけど、自分を見失うことなくかるたが取れた気がす るよ。」
 「それは良かった。きっと今度は、楽しんで取れます よ。ミツオが、名人戦で楽しんでかるたを取れるように祈 ってますから。」
 「うん、ありがとう。」
 「では、私たち、これで帰ります。シーユー。」
 着替え終わって、デビッドと物陰から出て行くと、離 れたところで山根が手を振っていた。
 「ミツオ、おめでとう。次も、頑張ってね!」
 「ありがとう。じゃあ、またな。」
 「『頑張ってね』か。彼女も結局は日本人なんだよな。」
 ミツオには、志保の『頑張ってね』の言葉が何故だか とても新鮮に聞こえていた。

  *

 「あの三回戦の後半、守らなければならない感じは、 なんだったんだろう。普通だったら、絶対攻めに行くとこ ろだよな。それに『よのなかは』の時に限って、音が聞こ えなかったのもいい偶然だったな。あれは、相手の攻めの 速さから考えると、聞こえていたら、ひょっとすると自分 がお手つきしていたかもしれない。これを、まさに『運』 て言うのかなあ。」
 地下鉄に乗って、一人になってしみじみと思う。勝て たのは、自分の力以外の何かが味方してくれたとしか思え ないのだ。地下鉄丸の内線で茗荷谷駅から二つ目が、池袋 駅である。池袋の公衆電話から、蓮沼に電話をかける。
 「よかったな。おめでとう。早く帰ってこい。今日は 祝勝会だ。」
 何よりの言葉だった。
 山の手線に乗り換えようと、JRの切符売り場に行く と、少々離れたところに大学の先輩の高橋が立っているで はないか。黒の礼服に身を包み、手には、引き出物の紙袋 を下げている。きっと池袋のホテルで結婚式でもあったの だろう。
 「高橋さん。」
 「あれぇー、ミツオじゃないか。今日だったんだよな。 応援に行けなくて悪かったな。実は、これがあってな。で、 どうだったんだ。」
 「おかげさまで、勝ちました。ありがとうございまし た。」
 「そう深々と頭下げるなよ。俺なんか、何も力になっ てないんだから。」
 「いえ、今日は、今まで関わりを持ってくれた人たち に感謝の気持ちで一杯なんです。」
 「でも、よかった。今度は一月だな。」
 「はい。」
 二人で話していると、高橋の連れが切符を買って戻っ てきたようだ。
 「混んじゃってて、お待たせしました。」
 「あれっ、八角じゃないか。」
 「佐多先輩、どうしてここに。」
 「それは、こっちの台詞だよ。留学中じゃなかったの か?」
 「あかね先輩の結婚式のために一時帰国ですよ。……、 あっ!」
 八角は、佐多と春日あかねの昔の関係を思い出したの か、言ってしまってから「しまった」という表情をした。
 「ああ、そうだったのか。それで、高橋さん、なんに も言わなかったんですね。」
 「いや、別にミツオに隠し立てするつもりは何もなか ったんだ。いずれは、わかることだろうし…。」
 「いいんですよ。もう気にしてませんから。で、どう でした。彼女は幸せそうでしたか。きれいでしたか。」
 「ええ、とってもきれいでした。、ウェディングドレス も超豪華で。ニッコニコしてましたよ。」
 「そうか。なら、よかった。」
 「来年の五月には、お母さんになるんですよ。」
 「八角!」
 高橋が、八角のおしゃべりをさえぎる。
 「ふーん、あのあかねちゃんが母親か…。」
 ミツオは、ふと昔のあかねの笑顔を思い出していた。
 「ぼくの挑戦者決定戦の日に、春日の結婚式だなんて、 できすぎた偶然ですね。今度彼女にあったら『おめでとう』 と伝えておいてください。それから、ぼくが名人戦の挑戦 者になったことも…。」
 「ああ、わかった。それじゃあ、またな。」
 「先輩、またね。」
 「じゃあ。」
 ミツオは、彼らと同じ電車に乗って帰る気がしなかっ た。別れてひとり、池袋の街を歩いていた。
 日曜日の午後、大勢の人間が街を歩く。いくら、まわ りに人が多くいても、誰もミツオを佐多三男として認識し たりしない。他人にとっては、通行人の一人にすぎないの だ。しかし、ミツオには、この群衆の中に個を埋没させて いることが心地良かった。試合の疲れも、かなわぬ恋の思 い出も、ミツオとともに大勢の人々の波が飲み込んでいく ような気がしたからだった。

 北から吹く風が、冬の到来の近いことを知らせていた。


  Copyright:Hitoshi Takano

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