高野 仁の「近況」(1999年)

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1999年11月23日

久々に団体戦に出場した。神奈川県の団体戦Aリーグで、慶應義塾チームでワンポイントリリーフで3回戦に登場。無事1勝をあげた。チーム4位は残念だったが、団体戦の雰囲気を久しぶりに味わえて満足している。弟分の慶應義塾湘南藤沢中・高等部はDリーグで、昨年度に続き準優勝。決勝で2勝2敗から1枚1枚の運命戦で破れてしまった。この壁を破れば、また、強くなることだろう。

1999年11月1日

ついに年間三桁達成。1988年が三桁の最後だったから、11年ぶりのことだ。学生時代は当たり前だったが、この年齢で、仕事しながらのこの回数は自分的に快挙である。
氷川区民会館で、月曜練習を組んでくれたおかげと、現役陣に感謝している。
ありがとう。そして、これからもよろしく!

1999年10月7日

秋学期が始まり、仕事も忙しくなりだした。なかなかかるたを取る時間を作り出すことができない。年間百試合の大台にあと10と迫ったが、あと2ヵ月と3週間で可能かどうか微妙な気配である。しかし、たまには仕事の気分転換でかるたを取ることも必要だろう。
目指せ!三桁!ラストスパート!

1999年8月31日

29日の日曜日、江戸川区スポーツセンターで職域・学生大会が行われた。慶應義塾大学は、2チーム参加。Aチームは、A級(最上位のクラスで8チームからなる。3位までが入賞)で4位。Bチームは、E級(最下位のクラスで今回は34チームが参加。5位までが入賞)で5位だった。どちらも2年生以下が主力の若いチームだったので、今後が楽しみである。今年は、この現役陣とも良く練習しているので、彼らの手ごたえを自分自身が感じることができた。次回はさらに上を目指してほしい。
また、私が湘南藤沢キャンパスに勤務している頃から、職域・学生大会に参加しはじめた慶應義塾湘南藤沢中高チームは、念願の最下位脱出を果たした。校内で行う夏合宿に昨年・今年と参加しているが、歩みは遅いながらも一歩一歩前進している様子が見てとれる。今年は、大会前から「最下位」脱出を目標として、その目標をクリアしたわけだ。目標をたてて、クリアしたという喜びを噛み締めていることだろう。兼部者ばかりで日常の練習もなかなかできないでいるようだが、ぜひ、他の部活に負けない情熱を注いでほしい。
明日からは9月。今年もすでに3分の2が終わった。仕事も、ますます忙しくなるが、私自身、年間もしくは年度内練習三桁という目標に向けてチャレンジしたい。

1999年8月2日記

8月になった。8月1日〜7日は通常は職場の一斉休暇なのだが、今年は8月7日〜14日まで、米国のニューヨークとボストンに出張があり、その準備やら何やらで、何か気分的に落ち着かない。海外に慣れているわけでもなく、結構、出かけるのにナーバスになっているのかもしれない。そういうわけで、今年は、8月6日に富士市体育館で行なわれる静岡の高校合同練習にも行けずに残念である。8月にある程度練習を積んでおかないと、年間もしくは年度で百試合という目標の達成が難しくなりそうだ。
現在、年間でいえば66試合、年度でいえば52試合と、順調そうなのだが、秋をすぎると仕事も忙しくなり、ペースダウンが見込まれるので、目標達成にむけてはなかなかきびしい状況だろう。
でも、何事もチャレンジ精神が大切である。目標達成に向けて努力をしていきたい。

小説第2弾も完成しました。リンクはりました。


1999年6月30日記

6月は、8回練習に参加し19試合を取った。このくらいの頻度で練習できると、身体の動きがずいぶんとちがってくる。膝が畳になじむ感覚といったらよいのだろうか、一試合の中で、意識せずにうまく払えたという自然な取りが数回は出てくれる。まあ、こんな感想を抱きながら、今月は久々の月間20試合を目指したのだが、1試合足りなかった。しかし、この半年でみると53試合である。このペースでもう半年いけば、1988年以来の年間100試合となる。それにしても、こうして仕事帰りに練習に寄れる環境はありがたい。慶應も様々なキャンパスを持っているが、三田とか日吉はかるたの練習に、地の利があると感じる。そう考えると地の利の薄かったSFC時代も、少ない回数ながらよく練習をしていたと思う。7月は学生たちにとっては期末試験期間である。そのため、練習自体が行われなくなってしまう週もあるので、回数は伸びないかもしれないが、暑さに負けずに頑張りたいと思う。

1999年5月29日記

5月といえば、小倉忌慶讃かるた大会に出場するために京都に出かけたことを思い出す。もう何年行ってないだろうか。体調を崩したり、急な仕事が入って、今月は思うように練習回数を伸ばせなかった。自分自身の強い意志だけで練習できるものでないことを痛感する。この年齢になると、仕事をはじめとして、優先事項が多々存在する。そうした合間を縫っての練習なのだ。また、一人でカルタを取れるわけでもない。後輩たちの練習や他会の練習と、多くの人の力があってこそ、自分も練習に参加できるのである。このように「時」と「環境」が整って、やっと練習ができる。そう考えると練習の一試合一試合をけっして無駄にするわけにはいかない。けれども、自分は本当に一試合の練習を有意義なものにできているのだろうか?反省することしきりである…。

1999年4月29日記

4月には7回も練習場に足を運んだ。11試合練習ができた。一か月にふたけたの練習ができたのは夏休みを取れる8月を除くと、ここ10年間で3回目のことだ。今年度はすこし練習回数をのばせそうだ。年間3桁の練習は、年度単位ならば1987年度以来、年単位なら1988年以来ご無沙汰している。はたしていつになったら復活できることやら…。

1999年4月7日記

ここのところ、2回ほど仕事帰りにカルタを取った。水曜日はノー残業デイであるし、仕事の中でメリハリをつけることも大切なことだ。しかし、仕事のあとのカルタはきつい。何がきついといって、「札に感じないこと、暗記が抜けること、集中力が持続しないこと、腰がきちんとあがっていないことetc...」要するに自分として「まあ、まし。」と思えるカルタが取れないことほどきついことはない。これは、たとえば、試合とか合宿で、朝からカルタを何試合もしたあとの疲れとも異質のものである。まあ、何にしても、疲れた状態でも、それなりにそこそこのカルタが取れるようになるべく、仕事帰りの練習も続けていきたいと思っている。

1999年3月28日記

私と「百人一首」の出会いは、小学校低学年のことだった。お正月にご近所の家に遊びにいくと、そこのおじさんが「百人一首」の札を出してきて「坊主めくり」を教えてくれたのだ。そして、「坊主めくり」を何回かやると、「百人一首」を使った「かるた取り」を教えてくれたのだった。
今日、私と「百人一首」の出会いを与えてくれたこの方の前夜式(通夜のことをキリスト教ではこう呼ぶ)があり、参列してきた。享年79歳だった。
「百人一首」のほかの想い出も去来する。小さい頃の私を本当によく可愛がって暮れた方だった。深く感謝の祈りを捧げたい。

1999年3月17日記

私の勤務する人事部では、職員の心と身体の健康維持と残業減を目的として「ノー残業デイ」をもうけている。実は「水曜日」が、ノー残業デイとなっている。「水曜日」といえば、練習日である。定時に仕事を終え、念のため「今日、練習してる?」と学生責任者の携帯に電話したら、「今日はお休みです」という返事だった。水曜日に練習している他の会の練習にお邪魔するという手もあるのだが、初めての会には、やはり顔をだしにくい。自分で言うのも何だが、結構、人見知りするほうなのだ。その緊張感だけで疲れてしまうので、相当の気合いを込めて、エネルギーを貯めてないと、肝腎のかるたがボロボロになってしまう。他所の練習に行くのは、またの機会とすることにして、大人しく帰宅した。
仕事帰りの練習には、いつになったら復帰できるだろうか?

1999年3月8日記

6月1日付の人事異動で三田キャンパスに異動になって10ヶ月めになります。
年度末・年度始めのあわただしい時期を新しい職場で初めてむかえ、てんてこまい しています。
そんな中、AOLのメンバーズサーバーに登録した(今は別サーバーに移動)英語のページに続き、今度は ジオシティーズにホームページをもうけました。タイトルの下にリンクをはっておきますので、興味のある方は見てください。
仕事の合間には、カルタの練習に励みたいと思います。

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Hitoshi TAKANO