第II部

かるた攷格


競技かるたを取り始めてしばらくすると、「こういう時にはどうすれば いいのだろう。 攻撃は?守備は?……」などの疑問が湧いてくる。第I部を読んで 、実戦を経験された 方は、こうした疑問に直面されてはいないだろうか。

囲碁には定石、将棋には定跡といったものがある。はたして競技かるた にこうしたもの はないのであろうか。競技かるたは、囲碁・将棋のような盤上の競技で はない。自分の 五感を研ぎ澄まし、全身を使い、自らの身体を動かして行なう競技であ る。定石(定跡) とかセオリーといった意味合いも、当然異なるだろう。しかし、多くの 競技者に共通の 認識というものがあれば、それは、定石(定跡)・セオリーと名付けて もよいのではな いだろうか。もちろん、競技かるたの場合、札の出る(詠まれる)順番 という要因があ るし、個々人の音に対する反応の違いやリーチの長さ等の身体的特徴と いった「取り」 に差を生じさせる要因がある。したがって、定石(定跡)・セオリーと いわれるものの 普遍性というものは、囲碁・将棋に比較すると狭いといわざるをえない だろう。

このような競技の性質をふまえて、競技かるたについて、私なりの考え を述べてみよう と思う。「かるた攷格」の「攷格(コウカク)」とは「攷」すなわち「 考」の意であり、 「格」すなわち「ものの道理をきわめる」の意であることから、「かる たの理を考え、 研究しよう」という意味なのである。タイトルは大袈裟だが、本稿が競 技かるたを考え る上での参考または議論の材料にでもなればと願っている。


第1章『究極のかるたとは…』

「究極のかるた」とは何であろうか。競技をする以上、我々はこれを目 指すべきなので あろう。しかし、「競技かるた」という競技である以上、それはルール にのっとった「究 極」でなければならない。札が詠み始められるまで、競技線内に手を出 してはならない のであるから、音を聞かずに札を取りにいくわけにはいかない。では、 第一音が詠み始 められたその瞬間に出札を取っているというのが「究極」なのだろうか 。あいにく、競 技かるたには「決まり字」というものがある。決まり字を聞かずして札 を取っては、た とえ本当に一音ですべての詠札を判断でき、100%の確率で出札を取 ったとしても「霊 感かるた」と呼ばれ「あてている」としかいわれないことだろう。もち ろん、「究極」 を目指すのであれば、「お手付」は禁物である。決まり字前に札を取る ことは、いくら 詠みの癖を知っていたとしても、お手付の可能性が高いことはいうまで もない。このよ うな現実離れした話を別にすれば、いわゆる「究極のかるた」とは、決 まり字が詠まれ るやいなや出札を取っているかるたということになるのではないだろう か。しかも、お 手付はしないかるたでなければならない。実際にこのような取りができ れば素晴らしい と思う。まさに「道をきわめた究極のかるた」といえるだろう。

ところが、いかに「究極のかるた」といえども、相手が決まり字前にあ てて取ってしまっ ては、手も足も出ない。すなわち、かるたという競技には相手があると いうことである。 どんなに遅くとも、相手よりほんの一瞬でも早く取れば「取り」なので あるし、相手よ り先に自陣の二十五枚の札を減らせば勝ちなのである。自陣の減らし方 にもいろいろあ る。札を取ればもちろんのこと、相手がお手付をしても減るのである。 相手のある競技 だからこそ、駆け引きや精神的葛藤が生じ、そこに尽きない興趣が生ま れるのである。 ゆえに、私は「究極のかるた」とは、たとえ一枚差であろうと「負けな いかるた」であ ると思うのだが…。

ここで「負けない」という表現をすると、あまりに勝負にこだわるすぎ ではないか、もっ と勝負にこだわらないで楽しくという意見も出てくることと思う。しか し、競技という ものは、その「競技」という性質上、「勝」「負」がいやが応でもつい てまわる。そし て、双方が「勝つ」ために力を尽くして競い合うからこそ、向上もし、 面白味もあるの である。札が詠まれる瞬間から札を取りにいく瞬間にいたる緊張感、そ の一瞬の「静」 から「動」へのダイナミズムにこそ競技かるたの醍醐味があり、勝ち負 けを度外視して競技 自体を楽しむ楽しみ方があるという方もいるし、かるたという競技を通 して全国に友人・ 知人ができることが楽しみで勝敗は二の次という方もいる。すべてを決 まり字でピッタ リ取るということを目指して「道」をきわめようとする努力の中に、勝 負を超越した悟 りの世界に達する道があるのだという考え方を否定したりはしない。し かし、自分より 強い相手に勝ちたいがためにする努力、自分より弱い相手に負けないた めにする努力、 この単純明快な勝利への願望が、「競技かるた」を支えて興趣尽きない ものにしてきた ことも、また間違いではないだろう。

さて、「究極のかるた」が「負けないかるた」であるとあえて定義付け た時、負けない ために競技をするには、何をどう考えていけばよいかを次章以降述べて いくこととしよ う。


第2章『かるたにおける攻めと守り』

第1章でも述べたように、すべての出札に対して決まり字ピッタリで取 れば、それは相 手が同等以上の技量を持たない限り、負けないかるたということができ るだろう。しか し、悲しいかな、はたしてそこまでの技量に達することが人たる身にで きるであろうか。 もちろん、それを目標に努力することは大切であるが、多くの人はそれ 以前の技量で議 論せざるをえない。人間である以上、集中力がかけることもあれば、精 神・肉体の疲労 という問題もあり、完璧たりえないのである。こういう不完全な人間の する競技であり、 メンタルな部分が大きく作用する競技であるから、作戦のたてようもあ るし、いわゆる 定石(定跡)・セオリーというものが生まれる余地があるわけである。

たとえ、限界を感じようと、音に対する反応をより速くしようとか、払 いのスピードと 正確さを増そうとか、集中力を高めようという基本的技量に属する部分 の努力は怠って はならないだろう。努力を怠ったとたんに現状維持さえおぼつかなくな るものである。 こうした基本的な努力の上に、自分の特徴や得手・不得手を生かした「 取り」や「理論」 ・「方法論」といったものが生まれてくるのである。

さて、それでは本章の主題である「かるたにおける攻めと守り」の話題 に入ろう。

かるたは、詠まれた札(出札)を取りさえすればよいのだから、 「攻め」だの「守り」だ の関係なく、ただ出札を取ればいいのだという論もないことはないが、 ここではあえて、 まず単純に「攻め」と「守り」を定義してしまおう。「攻め」とは、敵 陣の札を取 ることであり、「守り」とは自陣の札を取ることである。札を取るとい う行為からいう とこういうことなのだが、札を取りにいこうとする行為や気持ちにも「 攻め」と「守り」 がある。空札が詠まれても、同音の敵陣の札に対して積極的に取りにい こうとしていれ ば「攻め」であるし、自陣の札を取ろうとしていれば「守り」である。 とも札の別れが 両陣にまたがっていて、敵陣の札が出札であったのに、先に自陣の札を 取りにいこうと していれば、それは「守り」の行為であるし、その逆は「攻め」の行為 である。また、 気持ちの問題もある。「敵陣の札を積極的に取りに行くのだ」という気 持ちは「攻め」 であるし、「自陣の札を相手に取られないようにするのだ」という気持 ちは「守り」で ある。気の持ちようが、必ずしも行為に出るものではないが、少なから ず影響が出るこ とは確かであろう。

以上のような意味において、「攻め」を多用するのがいわゆる「攻めか るた」であり、 「守り」を多用するのがいわゆる「守りかるた」なのである。なお、本 人が「攻めかる た」のつもりでも、他人からは「守りかるた」と呼ばれるようなケース もあることを付 け加えておこう。

要は、「攻め」と「守り」のバランスである。「攻め」ばかりでも「守 り」ばかりでも、 それだけではよしとはいえない。当然のことながら、札の出や試合の展 開によって変化 すべきものなのである。自陣の札ばかり出ては、攻めたくても攻めるこ とができない。 また、大きくリードされている局面で、競り合っている時と同じような 攻守の比率を取 ることは普通はしない。攻守のバランスは、まさにケース・バイ・ケー スであり、TPO があるということである。それを判断するのが競技者自身であることは いうまでもない。 この判断の仕方もまた、その競技者の個性なのである。

さて、「攻め」と「守り」、それぞれのメリットはどこにあるのだろう か。

「攻め」の単純定義は敵陣の札をとることであった。敵陣の札を取れば 、自陣から任意 の札を相手に送ることができる。送り札を選べるということは、自陣を 自分にとってよ り良い形にすることができ、敵に札を送ることでゲームの流れを組立て 、ゲームの主導 権を握ることに一歩近づくことなのである。「攻め」の気持ちは積極性 につながり、勢 いをつける。敵陣は、また自陣よりも距離的に遠い。こちらにとっての 敵陣は相手にとっ ての自陣であるから、相手にとっては距離的に近くにある。すると、こ ちらが相手より はやく取りに出たとしても、相手に距離の近い分さきに取られてしまう ことも多い。だ からこそ、敵陣を取りにいくのだという「攻め」の気持ちが大切なので ある。守ってか ら攻めにいったのでは、相手がボーッとしているか、余計なことでもし てくれないとな かなか取れるものではない。さらには、次のような意見もある。西洋の 鋸やかんなは、 押した時に切れる(削れる)ようになっているが、日本のものは引く時 に切れる(削れ る)ようになっている。ボクシングでも、欧米系の選手にストレートの 強い選手が多い が、日本の選手にはフックの強い選手が多い。これは民族的な肉体の特 質によるものだ という。したがって、自陣を守ってから敵陣を取りにいく動作より、敵 陣へ攻めてから 自陣に戻るという動作のほうがスピードが出て日本人には向いていると いうものである。

では、「守り」のメリットは何か。相手がこちらの陣を取りにくるより 、自分のほうが 距離的に近いということがまさにメリットである。札の決まり字に対す る反応が相手よ り多少遅れたとしても、距離的近さによってカバーできる。こうして、 相手が一生懸命 に攻めてきても、守りを堅くして取らせないということは、相手が攻め のかるたであれ ば、その勢いを殺すし、相手を普段のペースに乗せないということにな る。相手はもっ とはやく敵陣を取りにいこうとし、お手付をしたり、自陣の取りがおろ そかになったり する。こうした時、守りかるたが敵陣の札を取るチャンスである。相手 のお手付でも札 を送れるわけだから、「攻め」のところで述べた札を送るメリットを得 ることができる。 ただ、守りかるた同士の試合は、札の出に作用されることが多く、地味 で見ていてあま り面白くない。その点、攻めかるた同士の試合は、丁々発止と斬り結ぶ ような感があり、 送り札の応酬もあり、見ていて派手で面白い。まあ、面白い・面白くな いというのは第 三者的な目なので、取っている本人にとってはそれどころではないであ ろう。人の目に 触れて魅せなければならない場合以外はあまり関係のないことではある が…。私として は、取る方も面白く取れるにこしたことはないと考えている。

話はそれてしまったが、「守り」は「攻め」に比し、消極的で待ちの姿 勢になってしま うので、相手のミスでも出ないと勢いに乗りづらいというところはあろ う。しいて、「攻 めかるた」と「守りかるた」の差をあげると、いわゆる「攻めかるた」 は、大勝ちもあ るが大負けもあり「ムラ」が出やすいが、いわゆる「守りかるた」は大 勝ちも大負けも しない堅実なかるたといえようか。

それぞれの競技者が、それぞれに「攻め」と「守り」の特徴を持ってお り、試合の中で の局面ごとに使いわけをしている。重ねて言うが「攻守のバランス」の 確立が非常に大 切である。競技を始めて間がない人は、まず、「攻め」を中心に練習す べきであろう。 なぜならば、「守り」を身につけるより「攻め」を身につけることのほ うが、大変だか らである。先憂後楽ではないが、まず大変な方から身につけたほうがよ いし、「守り」 は「攻め」を練習しているうちにも、取り立てて意識せずとも自然に身 についてくる傾 向があるからである。しかし、逆に「守り」を練習していても「攻め」 は身につくもの ではない。そもそも、敵陣の札を取りにいくスピードというのは、野球 の投手でいえば ストレートのスピードボールに該当するのである。ピッチャーの魅力は 、コントロール・ 変化球・投球の組立・マウンド度胸・ピッチングパフォーマンス等々の 諸要素があるが、 それらを活かすためのもっとも基本的な魅力の素が、ストレートのスピ ードボールであ ると思う。速い球が投げられるからこそ、変化球や球の緩急が活き、投 球の組立に幅が 出るのである。かるたにとってこのスピードボールに該当するのが、敵 陣を攻めにいく スピードである。特に敵の手元(相手が右利きの場合、敵陣右下段)を 取りにいくスピー ドは、投手が打者を攻めるのに一番効果的とされる打者をのけぞらせる インコース胸元 の速球に匹敵する。最初にこの「攻め」のスピードを鍛えることが、後 に他の取りの諸 要素を活かすための基本なのである。ゆえに、「攻めより始めよ!」と いうのが、私の 持論でもあり、競技かるたの先人達が述べ続けてきたことである。それ では、「攻めか るた」とは、具体的にどんなかるたなのであろうか。


第3章 『攻めかるた〜一般論として〜』

「攻めかるた」の基本概念は、前の章でも述べたように、敵陣の札を積 極的に取り、自 陣から札を送り、自陣をより攻めやすい体制とし、攻めやすい体制とな ったならば、もっ と攻めてもっと札を送り、もっと自陣を攻めやすい体制とし、攻め切っ ていくかるたた らんとすることである。

それでは、「攻める」上でのポイントは何であろうか。

(1)とも札が敵陣と自陣に別れている場合、まず、敵陣を攻めにいき 、違っている場 合、自陣に戻る。
(2)とも札が敵陣に数枚くっついており、短い決まりで取れる状態の 場合、短い決ま りで取るべく攻める。一まとめに並べてあれば、そこを確実に攻め、複 数箇所にわけて おいてあれば、どちらから先に攻めるかを決めておき、連続動作で札を はねる。
(3)単独の札(一字決まりの札を含む)や同音で始まる札が敵陣にし かない札を攻め る。
(4)同音始まりで、敵陣に決まりの短い札があり、自陣に決まりの長 い札がある時、 敵陣をまず攻め、違うとわかったらすかさず自陣に戻る。
(5)攻めかるたは、相手がはやく取る箇所の札を取ってこそ、相手に 与える精神的ダ メージが大きいと考え、相手のもっともはやいと考えられる敵右下段( 相手が左利きな ら敵左下段)を攻める。

これだけ攻めるポイントがあると、大変そうに思えるが、とにかく暗記 をしっかり入れ て、攻めのポイントの確認を怠らず、第一音とともに行動に移れるよう 心がけておくこ とが大切である。もちろん、これはあくまでポイントということであり 、そうでない他 の札の暗記もしっかりと入れておくべきである。特に始めたてのころは 「心がける」と ころから始めればよい。自分の暗記にあわせてポイントを減らしてもよ いが、練習する につれ、徐々に攻めることができていくだろう。また、最初のうちに戻 ることを考えて いると攻めが中途半端になったり、お手付のもとになりかねない。そう なるくらいなら 戻ることは考えずに攻め切ることに徹することである。

次に「攻めかるた」における送り札のポイントは何だろうか。札の送り は「攻めかるた」 の基本概念で述べたように、より攻めやすくするための大きなポイント である。ゆめゆ めおろそかにしてはならない。

まず、先のポイントであげた(1)(4)の状況をつくる送り、そして 、自陣で先のポ イント(3)のようになっている札があれば相手にとって攻めやすいわ けだから、そう いう状況を解消するような送りをする。そして、自分にとって敵陣にあ って取りやすい 札を送る。自陣にあれば確実に自分が取れると思われる札などは、あえ て送る必要はない が、やむをえず(または作戦上)送らざるをえなくなってしまったら、 敵陣における暗 記をしっかり入れることが肝要である。

以上が送りの基本事項といえようが、要は、自陣・敵陣ともに自分にと って取りやすく 敵にとって取りにくい状況をつくっていくように送るのが、送り札のポ イントである。

単に攻めといっても、一字決まりの札を取りにいく攻めと三字決まりの 札を取りにいく 攻めでは、手を出すタイミング・音の聞き別け方など違いがあるし、同 音で始まる札の 枚数が多い場合など一音で飛び出すより聞き別けてから取りにいったほ うがよい場合も ある。これは、練習の中でこうした要因を考えながら体得していくべき ことである。同 音で始まる札が敵に何枚あって自陣に何枚あると時はこうしたらよいな どということを 一般論の中で語るのは無理があるし、音に対する感じのの速い人・遅い 人など個人差の あることなので、一概にこうだということ自体無理である。練習の際に 各自が考えるヒ ントにしていただければよろしいだろう。

さて、では「攻めかるた」における守りというのはどうなのだろうか。 遮二無二攻めま くり、自陣は相手に取られ放題では話にならない。敵陣の暗記はもちろ んのこと自陣の 札の暗記もしっかりと入れておかなければならないし、その暗記の入れ 方も敵陣に対す る攻めと連動させて入れておかなければならない。これは、自陣への戻 りの時にだけ必 要なことではなく、相手に対する攻めの場合にも必要なことである。札 が並んでいる情 景、すなわち敵陣の右・左(敵の立場で見た時の右と左というとらえ方 をしていただき たい)、自陣の左・右(自分から見た時の左と右)に札が並んでいる情 景を単純化して 頭に思い浮かべてほしい。(以下、[敵右]といったら敵にとっ ての自分の陣の右側、す なわち、こちらから見た時の敵陣の向かって左側、敵が右利きだとした ら利き手のある 側と認識していただきたい。[敵左]はその反対側である。 [自右]といったらこちら側、 すなわち自陣右側、自分が右利きとして利き手のあるほうと理解してほ しい。)同音で 始まる札が敵陣に二枚あり、[敵右]と[敵左]に別れて 置かれているとする。決まり字に 差があれば、短い札からいこうと考えるが、同じ場合はその場で迷わな いためにもどち らを先に攻めるか決めておきたいものである。まず[敵右]を攻 め、違ったら[敵左]にい く。どちらでもなかったらお手付をしないように逃げる。この場合、攻 め手にとっては、 初めに[敵右]次に[敵左]の順が取りやすいという人が 多い。(一般論として「右利き」 の立場で述べているので、左利きの方は読み換えていただきたい。) [敵左]から[敵右] にいくほうが取りやすいという人はあまりきかない。左利き相手に敵左 下段中心に攻め ると、敵陣右への攻めが甘くなるという話は、ここに理由があるのだろ う。しかし、相 手がある競技だから、相手が先にいきそうにないほうから攻めようとい う発想もある。 いつも同じパターンで攻めていては、相手にも作戦をたてやすくさせて しまうから、ワ ンパターンにならない工夫がほしいところである。

また、自陣への戻りにしても、[敵右]→[自左]、 [敵左]→[自右]という縦の戻りは比較 的戻りやすい。[敵右]→[自右]という斜め方向の戻り もわりと動きやすい戻りである。 しかし、[敵左]→[自左]という斜めの戻りというのが もっとも動きにくい。練習によっ て慣れることも必要だが、札の配置の工夫も必要になってくる。動きに くい戻りをしな ければならない札の配置は最小限にとどめるよう考えてみよう。

右利きにとっての[敵左]→[自左]という動きは、左利 きにとって[敵右]→[自右]という 動きになるわけだが、左利きの競技者はこれが非常にうまい人が多い。 なぜなら、右利 き相手に競技することが多く、攻めのポイントが[敵右]にある ことが多いため必然的に うまくなる。右利きの競技者は、普段左利き相手に取り慣れてないため 、この技術の差 が、対左利き戦ではあらわれやすいのである。「攻めかるた」における 戻り(守り)の 差が、このようにあらわれるわけであるから、「攻めかるた」の場合で も、攻めの技術 とともに戻りの技術の修得にも心がけたい。

以上、「攻めかるた」について一般論として述べてきたが、「攻めかる た」を目指す人 は、これを参考に実戦や練習の中で、自らの「攻めかるた」を確立して いってほしい。


第4章 『守りかるた〜一般論として〜』

「守りかるた」の基本概念は、自陣の札は相手が取りにくる距離に比較 し、「近い」と いう地の利と、自分の好きなように並べられるという利点を活かし、自 陣の札を堅実に 取り、相手のお手付を待ち、相手のミスやスキに乗じて敵陣の札さえも 取り、自陣をよ り守りやすくするべく札を送り、さらに有利に競技を展開させていくか るたたらんとす るところにある。

それでは、「守る」上でのポイントはどこにあるのだろうか。

(1)比較的決まりの短い札をしっかりと守る。
(2)とも札が自陣に揃っていて決まりの短くなった札は、並べておい て守り切る。
(3)相手が必死で攻め取りにきても取れないということが相手に精神 的ダメージを与 えるという考えから、相手が攻めてきそうな札を確実に守る。
(4)決まりが長く、お手付をしそうな札は、聞き別けや囲い手等を用 い、慎重に守る。 こういう札で相手にお手付をしてもらうようにする。
(5)「守り」といっても、敵陣を取らないことには、札の出る順番だ けで勝敗が決まっ てしまうことになりかねない。大量リードしているのに自陣の札を守っ ているだけでは、 決して勝つための近道とはいえない。自陣の札は相手に絶対取らせない くらいの気持ち で守りつつも、相手陣の狙いやすそうな札(とも札が敵陣に揃っていて 決まりの短くなっ ている札とか、同一音の札が敵陣にしかない札、または、自分の得意札 など)は常に心 にとめておき、攻め取りにいく。もちろん、他の敵陣の札の暗記もしっ かりと入れてお いて、相手の取りが遅い場合などこちらも遅くとも確実に札を拾える( 取れる)ように しておく。

次に、「守りかるた」における送りなのであるが、これも一概にはいえ ないところがあ る。基本は、自分に守りやすく、敵に取りにくい体制とするべく札を送 るということに なる。「守りかるた」の送りの例の一つとして、とも札が相手陣にくっ つくようにして 送りまとめて狙い、自陣にとも札が二枚くっついている場合は、それを 順に送ってまと めて狙うというものがある。(大石天狗堂の札を買ったことのあるかた は、その同封の しおりに記載されているのを読んだ方もいるのではないだろうか。)も う一つの例は、 三字決まりを送るというものである。四字以上の決まりは囲い手で守れ るし、二字以下 の決まりは守りやすくお手付もしにくい。三字決まりを相手にこそお手 付してもらうわ けである。また、自陣を守ってから敵陣を攻めにいく場合は、同音で始 まる二字決まり を残し、敵陣に三字決まり・四字決まりを送る。こういうかるたを目指 すならば、[自右] →[敵左]・[自左]→[敵右]の縦の手の動き、 [自右]→[敵右]・[自左]→[敵左]の斜め の 払いといった一連の動作を練習しなければならない。これは戻りの手の 動きより難しい ものがあるので、多くの努力が要求されるだろう。

しかし、私はこの二つの例のような送りを好まない。二枚のとも札を敵 陣でくっつける というのは、狙いやすいかもしれないが、相手も守りやすい。また、自 陣を決まりの短 い札で守りやすくするというのは、相手にとっても攻めやすい面を持つ 。さらに、自分 がお手付しにくい陣容ということは、相手にとっても同様なのである。 私は、たとえ「守 りかるた」であっても、とも札は自陣と敵陣に別けておくようにしてお いたほうがよい と思う。決まりが三字以上の札も自陣に適度に残したほうがよいと思う 。すなわち、自 分にも相手にも、お手付をしやすい状況をつくるのである。但し、自分 自身が常にそのよ うな状況で練習し取っていれば、慣れていき自分のお手付は減る。しか し、相手がそう した配置に慣れていなければ、お手付をしやすいということになる。す なわち、自分も 相手もお手付をしないような消極的な送りではなく、自分はお手付をし ないが、相手に お手付をしてもらうような積極的な送りをすることを勧めたいのである 。ただでさえ、 「守りかるた」には消極的な気配が漂っているのであるから、せめて送 りだけでも積極 的に考えていきたい。この札は嫌いだから相手に送ってしまおうという 考えを悪いとは いわないが、札の好き嫌いを超越すべく練習してほしいと思う。

さて、「守りかるた」の最大の懸案事項は先にポイントの(5)でも述 べたが、勝利の ためには、終盤における「攻め」を考えなければならない点である。大 量リードされて いる時は、まさに守って守って守り切るという姿勢でもかまわないが、 終盤のせってい る局面で守ってばかりいてもよいものであろうか。また、大量リードし ているのに、自 陣の札が詠まれるまで待っていてよいものだろうか。たとえ「守りかる た」であっても 「攻め」を抜きには考えられないのである。「攻め」については、第3 章を参考に、ま た、せっている時の終盤の取りについては第6章を参考にしてほしい。 「守りかるた」 もまた、実戦の中で、自分自身の「守りかるた」を確立していってほし いと願っている。


第5章 『「感じの速さ」と「払いの速さ」』

第2章以降「攻めかるた」「守りかるた」と随分ページをさいてきたが 、「攻め」とか 「守り」とかにこだわることなく、自分自身の「かるた」のスタイルを 信念をもって確 立することがもっとも大切なことなのである。あの人のかるたは「攻め 」だとか「守り」 だとかいうのは、自分ではなく回りの人間なのである。

さて、回りの人間が他人のかるたについて言う言葉に「感じ(ひびき) が速い(遅い)」 というのと「払い(はねor手)が速い(遅い)」というのがある。 俗に「感じの遅い人 は、守りかるたにはむかない」というような言葉もある。「感じ(ひび き)」や「払い (はねor手)の速さ」といったものが、「かるた」とどう関わるの か、この章で考えて みたい。

《I》感じ(ひびき)の速さ

「感じ」とか「ひびき」とかいうが、これはどちらも同じ意味で使用さ れている。「試 験に出る英単語」という本があるが、これを「デルタン」と呼ぶか「シ ケタン」と呼ぶ かの差と同じことである。地方や会(学校)または個人によって呼び方 が違うが、同じ ものとして考えてほしい。

基本的には、「音に対する反応の速さ」といえるだろう。たとえば、「 む」という音を 聞いたら、すっと手が「む」の札のところにあるという感じである。人 によって、この 「感じの速さ」が違うのである。「む」のように一枚札なら特に問題な いが、「あ」の ように数が多い札の場合、一字に決まってもいないのに「あ」で感じて 手を出してしま うと後のフォローが大変である。もし、手を出した札が出ないと、その 動きが非常に無 駄になってしまうことが多いからである。このような場合は、「感じ」 を二字めや三字 めの音に対してというようにしなければならない。このように二字めや 三字め以降の音 に対する「感じの速さ」を「聞き別けの速さ」といい一字(一音)めに 対する「感じ」 と区別することもある。この「感じの速さ」に関して、半音でわかって しまうという人 もいる。人によって感じやすい音があるようで、S音は半音で感じるが H音は感じに くいとか、M音は半音で感じるがY音はまったく感じないとか、実に多 様である。また、 半音や一音めに関しては速く感じることができても、二音め・三音めと なると速く聞き 別けることができないとか、その逆であるとかというように感じやすい (聞き別けやす い)音が何字めの音であるかというのも、人によりさまざまである。ま ずは、自分の感 じの特徴を掴むことが重要である。そして、その特徴を活かした取りを 工夫することで ある。

感じの速い人は、お手付をしやすいといわれる。思わず、感じたままに 札に触れてしま うからである。同じSの半音でも「さ」「し」「す」「せ」とそれぞれ 違って感じてい るのか、ただSの半音であることしか感じていないのか、自分自身で認 識して札を取り にいくようにしないとお手付をしやすい。これは練習を重ねて身につけ ていくしかない。 半音で区別がつかないようなら、お手付の危険性を冒してまで速く取る よりは、確実に 聞き別けてから札を取ったほうがよい。しかし、音に感じて手を出すこ とは悪いことで はない。なぜならば、相手がその手と感じにつられて、お手付をしたり 、思わず余計な 動きをしたり(例:攻める筈が相手の手につられて守ってしまう etc...)、自分の感じ を消されたり、狂わせられたりすることがあるからである。

この「感じ」は人により多種多様であるといったとおり、初心者のうち からやたらと速 い人もいれば、練習を続けていくうちに徐々に速くなっていく人もいる 。私は、この感 じはいくら練習をしても、速くなる限界も個人によって差があると思う 。たとえば、最 高時速300キロの車と最高時速250キロの車に乗っている人がい たとする。ドライバーの 運転技術によって、未熟なうちは双方最高200キロまでしかだせな かったとしても、練習 によるドライビングテクニックの向上で双方が最高時速まで出せるよう になった。しか し、乗っている車の性能によって頭打ちスピードの差があるという意味 である。これは 練習による努力を否定する意味ではない。自己の能力を的確に判断し、 自分の特質にあっ た努力をすべきだということである。たとえば、先の車の例でいえば、 最高時速は直線 コースでしか出せないわけだから、S字カーブで他が100キロでし か曲がれないところを 150キロで曲がれれば差を縮められるということである。最高時速では 引けをとっても、 カーブを曲がる安定性においては他車を圧倒する性能をその車が持って いないとはいえ ないのだから…。「汝は限れり」と言われないよう、自分の可能性をあ らゆる視点から 探り、努力すべきであろう。

また、「感じ(ひびき)の速い」人のことを「耳のいい人」ともいうが 、「耳のいい人」 といった場合は、音の聞き別けが鋭いという意味が強いように思う。例 をあげると、「お おえ(オーエ)」「おほけ(オーケ)」「あふこ(オーコ)」という三 枚の「オー」の 札の「オー」の詠み方でどの札が詠まれるか区別(見当)がつくという ようなことをさ している。これは音の高低を聞き別ける能力と関係するのではないかと 思う。次音によっ て、前音の高低やイントネーションが異なるのならば、その時点で聞き 別けが可能であ るということである。さらには、詠み手の癖を覚えることも重要なこと であろう。公認 読手であっても、探せば癖が見つかるだろう。

実に「音」というものは非常に奥が深い。「音」を徹底的に分析し追求 すれば、かるた で札をより正確により速く取るために有益なことが多々でることであろ う。「音」への 関心を常に持ち続けることもかるたの上達への道の一つである。

《II》払い(はねor手)の速さ

「払いが速い」・「はねが速い」・「手が速い」という表現は、かるた においては同様 の意味に使われることが多い。(もっとも「手がはやい」という場合、 世間では別の意 味にとられるので要注意。)

「払いの速さ」とは、まさに読んで字の如しで、「払い手」の速さのこ とをいう。「感 じ」は遅いが「払い」が速いという人もいるし、「感じ」は速いが「払 い」が遅いとい う人もいる。後者の場合は、「払い」が遅いというよりも、「払いが下 手」で、「感じ」 によって、手が速く札のところにいくのだが、手が浮いてしまって素早 く押さえられな いとか、払えないというケースが多い。もちろん、「感じ」も「払い」 もともに速いに こしたことはない。この「払い」にしても「感じ」同様、人それぞれで ある。むしろ、 競技者固有の「感じ」の速さに応じて、「払い」の速さを調節して、自 分にもっとも効 果的な「払い」を身につけなければならないのである。「感じ」と「払 い」を別々に述 べてはいるが、あくまで便宜的にわけているので、この二つは密接なつ ながりを持つ。

たとえば、決まり字を完全に聞き終わってから札を取りにいくとする。 お手付の可能性 は低くなるが、「感じ」の速さで、決まり字の前に手を出してくるより は手の出が遅く なる。しかし、「払い」のスピードと出札に触れる指先の角度の取り方 で、先に手を出 した相手より速く出札に触れることが可能である。取りには、「払い手 」以外にも「押 え手」・「突き手」等々いろいろあるが、ここでは「払い」という言葉 で代表させてい るので、そのように理解していただきたい。「感じ」の速さで劣ったと しても、「払い」 の速さで優ればよいわけである。相手より先に出札に触れるための技術 としての「払い」 ではあるが、これには「速さ」のほかにも「正確さ」という要素も含ま れる。「正確さ」 というのは、札押しではなく出札に直接触れることをさし、このことを 「札直(フダチョ ク)」と呼ぶ。もしも、札押しと札直が同じ速さで行なわれたならば、 当然札直のほう が取りになるわけだから、「速さ」とともに「正確さ」を身につけるこ との重要性がわ かるだろう。また、「感じ」の速い人は「速さ」を活かすために、「払 い」のタイミン グの取り方を工夫すべきである。札に触れる時に最高スピードとなるタ イミングの取り 方である。三字決まりを取るのに半音で感じてしまい手が札の上でうろ うろしていては 得ではない。手元で「感じ」を溜め、三字めが聞き別けられる瞬間に札 に到達できるタ イミングを身につけてほしい。もちろん、聞き別けて、違ったら札に触 れずに逃げられ るよう、払いの動作に遊び(余裕)を持っていなければならない。万一 、この溜めがで きずに、何字決まりであっても半音なり一音で感じて手が出てしまうと いう人は、囲い 手や、押え手でとるための手を札すれすれまで持っていく低い待ちや、 札の上で待って 音を聞き別けた瞬間に手首の返しや指先のはじきで取るなどの方法を工 夫してみてはど うだろうか。

さて、以上の例を身につけるにはどうしたらよいのだろうか。答は、練 習あるのみであ る。実戦練習も大切だが、素振りや札を練習重点箇所に限定して置いて 払うといった基 礎練習が効果的であると思う。膝の位置や腰の高さ、身体の傾斜角度、 手の置き方など の「構え」の工夫から始めて、次に払う時の体重移動や足の蹴り、腰・ 肩・肘・手首・ 指先の使い方、遊び(余裕)の持たせ方といった「払い」の工夫をして みる。最後は、 決まりの長さによって、「感じ」の溜め方・「払い」のタイミングの取 り方を工夫する 練習をする。さらに、他人の取りを見て、取り入れられるところは取り 入れ、自分のも のへと消化・吸収していく。このような地道な努力の積み重ねにより、 自分独自のスタ イルを確立していくことが、「払い」を速くするためには有効なのであ る。

話はそれるが、一人の選手でもいったん確立したかるたのスタイルが変 化していくもの である。この変化は本人の精神的・心理的な内的要因から起こる場合と 肉体的な外的要 因から起こる場合がある。前者は本人の意志決定に基づくことなので、 ここで検討を加 えることは避けよう。後者については、怪我などの場合を除くと特に体 重の増減(主に 増加のほうだが…)に伴うことが多い。膝にかかる負担は、特に何試合 も取ると馬鹿に ならないものがあるし、増加の度合いにもよるが腰の切れが変わってく る。体型にあっ たかるたを取ればいいのだという声もあるが、競技者たるもの、自己の 競技ベスト体重 を把握し、その維持に心がける必要があるように思えてならないのは筆 者だけであろう か。

では、本章の最後に「感じ」と「払い」の話の総まとめとして、「後の 先(ゴノセン)」 について述べよう。相撲の極意で「後の先」というのを聞いたことがあ る方もいるだろ う。これは、立ちあいで、一瞬相手に立ち遅れたように見えながら、実 は先に自分優位 の組手に組んでしまっているというものである。昭和の大横綱双葉山の 立ちあいがまさ に「後の先」であったといわれている。かるた界に目を転ずると、これ は私も聞き伝え なのだが、ある超一流選手が、仕事の繁忙による練習量の減少と年齢に 伴う自己の「感 じ」の衰えを感じ、相手の「感じ」の速さを利用して、かるたを取った という話が残っ ている。これこそ、かるたにおける「後の先」ではないだろうか。相手 が先に「感じ」 て出てくるところを後から出ていって、なおかつ相手より速く取ってし まうわけである。 たとえ初心者であっても、自陣の札において、距離の近さのゆえにたま たま経験するこ とのある感覚であるが、これとても自分自身の聞き別けをしていないと 、ともすると相 手の「感じ」に誘われてお手付をしてしまうし、札際(フダギワ)にお ける「払い」の 速さをもっていないと相手の「感じ」と「払い」のタイミングのあった スピードで札を 払い飛ばされてしまう。これを自陣・敵陣の両方において、しかも意図 的に行なえたと すればまさに「後の先」の奥義を具現していたといえるのではないだろ うか。一歩でも、 そこに近づくべく、自分自身を見据えながら努力を重ねていきたいもの である。


第6章 『試合の組み立て〜序盤・中盤・終盤を どう戦う〜』

序盤から、着実にリードを広げ、中盤でさらに引き離し、終盤でぶっち ぎる。こんな試 合展開ができれば、文句はないし、ここでわざわざ各論を述べる必要も ない。試合によっ て、来る札も違えば、札の出方も違うし、相手も違う。同じ相手であっ ても、その日の 好不調があり、自分にも好不調がある。試合は千差万別、同じ試合など はないのである。 それゆえに、試合とは一期一会であり、その出逢いをないがせにしては ならない。これ を一括りにして、序盤・中盤・終盤をどう戦うかなどと、実に乱暴な話 なのである。で はあるけれども、あえてこの困難な作業を試みまでに一般論として述べ てみたい。

《I》序盤をどう戦うか

まず初めに「序盤」を定義しなければならない。これも諸説あることで あり、また明確 に区別できるものでもない。しかし、あえて序盤・中盤・終盤という三 区分にわけるの であれば、序盤は最初から三十枚程度詠まれた頃までとしたい。

では、この序盤で何をすればよいのだろうか。まずは自分の調子をはか り、相手を知る。 この試合の自分の「感じの速さ」はどうか、払いの調子はどうかなど… 。そして、相手 の「感じの速さ」はどうか、攻め中心なのか守り中心なのかなど…。も ちろん、自分の 調子や相手の様子に気をとられているばかりではいけない。十五分間の 暗記がすんだば かりとはいえ、札は自陣にも敵陣にも二十五枚ずつあるところからスタ ートしているの だから、暗記の確認をしなければならない札は充分にある。ともすると 何枚かの札がお ろそかになっていたりするものである。このような「穴」や「抜け」が ないようにして おかなければならない。また、同一陣内にある「とも札」で決まりの短 くなっているも のをチェックしておく。さらに敵陣の札へは、同音の札が詠まれたら、 空札であっても 積極的に攻撃のそぶりを見せる。これが相手に対する牽制ともなり、プ レッシャーを与 えることにつながる。

次に、序盤において「目標札」を設定しよう。暗記中から考えておいた ほうがよいが、 取り始めてから、自然に目標札といった存在になる札もある。目標札と いうのは、いわ ゆる狙い札とは異なる。敵陣にあって、攻めや暗記の際の目標となる札 で、その札を中 心に攻めや戻りのパターンを構想したり、暗記の輪がその札を中心に広 がっていくよう な役割を果たす。目標札の設定により、攻めの流れのリズムに乗れれば 申し分ない。百 人一首の札の中に出てくる「澪標(みおつくし)」といった存在の札と とらえていただ きたい。その札が詠まれてしまったり、送られてしまったり、場所を変 えられたりする と設定を変えなければならないが、複数枚を設定しておき、その札を中 心に暗記を繰り 返していくようにしていれば、混乱は少ないだろう。二字決まりで同音 で始まる札が場 に多い札を設定していることが多いのではないだろうか。目標札の設定 は最少の枚数で 最大の効果をあげるようにしたいものである。

最後は、札の送りである。序盤ではアトランダムに取った最初の札の配 置のままである。 「とも札」などが自陣に固まっていたり、同音で始まる札が大量に来て いたりとアンバ ランスな状態が生じている場合が多い。攻めかるたなら、自陣が相手か ら攻められやす く敵陣を攻めにいくのに後顧の憂いが残るようなこのような状況を解消 すべく、送りに よって自陣の陣容を整えていく。また、守りかるたの人ならば、自陣を 守りやすい陣容 にするべく送りを考えることになる。この序盤に自陣の陣容・体制を整 えることが、そ の後の戦局に大きな影響を与える要素となる。序盤で先行すれば有利な ことは確かだが、 力みや焦りは禁物である。手が出なくなったり、払いが遅くなったり、 お手付をしたり と悪い結果を招くことになる。相手に先行されても、あわてることはな い2〜3枚の差 ぐらいでピッタリ相手についていけばいいくらいに気を楽に持つことで ある。真剣な中 にも余裕を持って序盤を乗り切っていただきたい。

《II》中盤をどう戦うか

中盤の定義は、実に難しい。「中盤とは、序盤と終盤の間を指す」とい うのが、もっと も妥当なところだろう。しかし、これではよくわからない。序盤は詠み が始まって三十 枚を過ぎたころまでと定義したので、それ以降が中盤である。では、い つまでなのか。 ここで、先回りして終盤の定義をしてしまおう。終盤についても諸説あ るが、私はあえ て、「自陣もしくは敵陣の残り札のどちらかが五枚になったところから を終盤と呼ぶ」 と定義したい。極端にいうとこの定義では、場の残り札が三十枚(二十 五枚対五枚)で も十一枚(五枚対六枚)でも、同様に終盤ということになってしまう。 札の詠み残し枚 数にも大きな差が出てしまうが、競技の性質ということも考え、了解し ていただこう。 これで、中盤の定義付けができた。試合展開によって中盤の長さに長短 の差が生じるこ ともやむをえない。

さて、こういうわけで、中盤には三つのパターンができる。大量にリー ドされている場 合、ほぼせっている場合、大量にリードしている場合の三つである。共 通注意事項から 述べよう。第一点は、決まり字の変化を追い、同音始まりで出た札は何 かを確認してお くことである。第二点は、札が送られたり送ったりと、随分行き来して いるので、確認 を怠らないことである。この確認ができていないと、もと置いてあった 位置を払ってお 手付をしたり、払わないまでも手を出してたり迷ったりして相手に取ら れてしまったり と、ミスが生じやすい。第三点は、札の送りである。序盤の延長で自陣 の陣容が整った と判断したら、ここでより積極的な送りに転ずる。相手がこの札が送ら れてきては嫌だ (困る)と感じそうな札を送ったり、敵陣にあったほうが取りやすい札 を送ったりする。 この送りについては、先の第3章・第4章を参照していただきたい。中 盤の札の送りこ そが、自分の持つ送りの思想・技術、ひいては自分のかるたのポリシー が反映され、発 揮される場なのである。第四点は、集中力を持続させることである。い くら真剣に取っ ていても、中盤あたりになるとダレ場ができてしまうものである。空札 が続いたり、攻 めても攻めても敵陣が出なかったりすると、ついついイライラしたり、 イヤになったり してしまう。ここをこえると今度は、札の出が続いたりするものである 。イライラが出 そうになったら、終盤へ向けての気分転換も兼ねて、詠みと詠みとの間 に「ちょっと、 失礼します」と相手に断り、立ち上がって身体を伸ばしたり、深呼吸す るとよいだろう。 イライラは、頭の中が軽い酸欠状態なのだから、酸素を補給しなおして 、リフレッシュ 気分で、札の暗記と確認に向かい、集中力を持続させよう。

次に中盤三パターンの各論に移ろう。まず、せっている時は以上の注意 事項の遵守で良 い。そのまま、集中力を持続させて終盤に移行しよう。次いで、大量リ ードしている時 も同様である。付け加えるとすれば、油断と過度の余裕は禁物であると いうことである。 一度気持ちや身体が弛緩してしまうと、もとに戻るのに倍以上の時間が かかるものであ る。勝ちを焦ることなく、最後の詰めに向かえばよい。最後が、問題の 大量リードされ ている場合である。リードされた原因は、自分のお手付にあったり、攻 めが甘かったり、 守りが甘かったり、要するに思うように取れないことにあるわけである 。こうなってく ると自分に愛想を尽かして、自分がイヤになってくるのである。この悲 劇の末路は、タ バ負けである。自分がイヤになる気持ちは理解できるところではあるが 、それを肯定し てしまっては話が進まない。望みを捨ててはいけないのである。いつ相 手がお手付で崩 れてくれるかもしれないし、相手が相手自身をイヤになるかもしれない のだ。かるたは メンタルな競技である。何がきっかけとなり逆転に結びつくかは誰にも わからない。た だ、あきらめずに根気よく待つだけである。しかし、これではあまりに 他力本願的な考 え方である。私は、大差をつけられた時、次のように考えることにして いる。倍セーム (自分の持ち札二十枚、敵が十枚のような倍になる枚差のことをいう) ならば、敵が一 枚取る間にこちらは二枚取っていけばよいと考え、トリプルセーム(自 分が十八枚で敵 が六枚というような三倍になる枚差のことをいう)ならば、敵が一枚取 る間に三枚取れ ばよいと考えるのである。三対一、二対一の枚差ならば、逆転の可能性 は高いからであ り、決して悲観はしない。そして、自分なりの守りの体制を整える。何 も札を取るだけ が札を減らす方法ではない。相手が引っかかってくれるくれないはとも かくとしても、 相手にお手付をさせるために敵が狙ってきそうなところにお手付しそう な札をもってき たりもする。敵陣より自陣が多いのだから、守り中心になるのは確率論 的にも間違いな いが、敵陣のケアも忘れてはならない。逆転に成功した例では、敵陣の 札も数枚取って いることを付け足しておこう。「大差をつけられてもあきらめてはなら ない。」このき わめてあたりまえの言葉が、実に重いのである。

中盤を乗り切って、試合はいよいよ終盤へと展開していく。

《III》終盤をどう戦う

終盤についての定義は、すでに終了している。敵陣残り五枚か自陣残り 五枚の場面から が終盤となる。大負けしている時、敵陣の五枚が減るのはあっという間 であり、逆に大 勝ちしている時は、自陣の残り五枚を減らすのに大層時間がかかるよう な気がするもの である。どちらにしても、泣いても笑ってもあと五枚なのである。さて 、大きくリード されている場合は、中盤の同様のケースの記述の延長線上に考えて、少 しでも早くせっ ていると認識できる状態にもっていっていただくしかない。相手の最後 の一枚がなくな るまでは負けていないのだから…。逆に大きくリードしている場合は、 大量リードとい う事実を自分の精神的武器と考えてしまおう。たとえば自陣五枚で相手 が十一枚以上持っ ていたとする。相手が二枚取る間に自分は一枚を確実に減らしていけば よいのである。 まずは自分の気持ちに余裕を持とう。自陣より敵陣が多いのだから札の 出も確率的に敵 陣が高い。当然攻めればよい。おそらく相手は守りを中心にしているで あろう。自陣の 出札は確実にキープしたい。また、お手付の危険性を冒してまで札をは やく取ろうとし なくてもよい、多少遅くとも確実に拾えればよい。はやく取りにいく札 はお手付の危険 のない札にしよう。こういう札を中心に、札に優先順位をつけて、一連 の動作の流れを 頭の中で構築しておこう。がちがちに狙っていると、他の札が出た時の 対応が鈍くなり がちである。優先順位一番の札を目標に違ったら順位二番の札をケアし 、どちらでもな かったら三番の札をチェックする。ここまでくれば、どの札が詠まれた か判明している はずだから、出札に向かうというように動作のイメージを組み立てなが ら、札の確認を 行なうのである。決まりの変化の確認ができていることはいうまでもな い。鬼門は、相 手に連続して守られたり、自陣を抜かれた時の焦りである。リードとい う事実を胸に油 断することなく平常心で取り続けていけば、勝利のゴールが見えてくる ことを信じて終 盤に臨んでもらいたい。

さて、終盤での大きな問題は、せっているというシチュエーションであ る。残っている 枚数は、双方あわせてたかだか十枚程度である。この際、「攻めかるた 」だ「守りかる た」だと言ってはいられない。とにかく、出た札を取るしかない。特に 「守りかるた」 の人はいやがおうでも敵陣への対応を迫られることになる。「攻めかる た」の人でも、 自陣の札をおろそかにはできない状況である。まずは、決まり字のチェ ックである。こ こでのお手付は致命傷になりかねない。同音のどの札が残っていて、今 、この札は何字 で取れるということを明確に覚えていなければならない。たとえば、二 枚の同音始まり の札が両陣に別れてあった場合、他の同音の札が出切っているかどうか を知っていると 知らないとでは、最初に取りにいこうとしたほうの札が出なかった時の 神経の使い方が まったく違う。札が違うということがわかった時点で、もう片方である ことが間違いな ければ思い切って取りにいけるが、他の空札がある時は聞き別けに神経 を払わなければ ならないからである。終盤の神経が張りつめているこの場面で、余分な 神経を払うこと は極力避けたい。場に残っていない音の札に神経を払うことはない。場 に残っている札 にのみ神経を集中させることが必要である。そして、さらに取りにいく 札の優先順位の 設定をする。枚数は少なく、決まりは短い。したがって、双方ともに取 りが速くなるの は自然の理である。相手より速く取るべく、札を確認する際にどの札に もっとも神経を 使い、違ったら次にどの札に気持ちを向け、どのような動作の流れをす るかというイメー ジを設定するのである。この優先順位が、相手と異なる時もあれば、重 なってしまうこ ともある。この順位付けの巧拙が勝敗をわけることになりかねない。実 戦により経験を 積んでいってほしい。

よく試合の流れや札の詠みの流れから次はこの札が出ると思ったとか、 予測していたと かいうケースを耳にする。人間の第六感を否定しはしないが、一度偶然 であたったりす るとついつい二匹めのどじょうを狙ってしまうのが人情である。しかし 、場の出札につ いて、次にどの札が出るかは、すべて同じ確率なのである。優先順位を 設定して札を取 りにいくことは構わないが、優先順位一番がいつもあたるわけではない 。あて始めてい る自分に気づいたら、確率論を考えて冷静になっていただきたい。

最後に、相手に先にリーチをかけられた(持ち札が残り一枚になること )場合のことに ついて触れておこう。「三対一(サンイチ)は一が出る」「二対一(ニ ーイチ)は一が 出る」という言葉がかるたの世界にはある。これは、勝っているほうも 、負けているほ うも、一枚になった陣の札への注意を怠ってはならないといういましめ の言葉でなので ある。たとえ、相手に先にリーチをかけられてもあきらめてはならない 。こうした最後 の局面においては、今までに札が何枚詠まれたか確認しているといない とでは大きな差 が生じる。たとえば、一対一(イチイチ)になった場面で、次に詠まれ るのが九十九枚 めなのか九十八枚めなのかでは、神経の使い方が違うのである。九十八 枚めでは、自分 が取りにいこうとしていた札と違うとわかった時点での聞き別けが必要 だが、九十九枚 めでは、出札と違うと判明した時点でもう一方が確実に出札なのである から、余計に神 経を使うことなく思い切って札を取りにいくことができるのである。こ の一瞬の差は、 この最終局面においては非常に大きい。同様に三対一で九十七枚めが詠 まれるかどうか、 二対一で九十八枚めが詠まれるかどうかということを知っているといな いとでは、大き な差が出ることを知っていてもらいたい。

蛇足ながら、一対一は信念を持って取りにいく札を決めておくことを勧 める。中途半端 や迷いは禁物である。これで負けたら、それはそういう状況にしかでき なかった自分が 悪かったと思ってほしい。そして、その無念の思いを次の試合に活かし ていただきたい。


第7章 『実戦上の諸注意』

本文中でも、各箇所で説明していると思うが、実戦上注意すべき点で補足が必要な項目 と、本文中で触れなかった点で是非注意を促しておきたい項目について、この章で述べ ておくこととしたい。

《I》狙い

前章までは、「狙い」という言葉よりも、序盤においては「目標札」という言葉を用い たし、終盤においては札を取る「優先順位」という表現を使った。これは、いわゆる「 狙 い札」という言葉から受けるイメージを打ち消したいという意図があったからである。 「狙い札」というとそれしか狙っていないような、その札以外が出たら対応できないよ うな狭い意味の言葉のような感じがしてしまう。しかし、ここでは、幅広い意味で「狙 い」という言葉を使用したい。

さて、「狙い札」は相手にばれないようにすることが肝腎である。「狙い札」と相手に 悟られると、その札が送られてきてしまったり、警戒されたりして、取りにくくなって しまう。本当の「狙い札」をカムフラージュするために、別の札をダミーにして素振り するのも一つの牽制方法である。そんな余裕があるならば、暗記の確認をよりしっかり と入れたほうがよいという声も聞こえてきそうだが…。

また、直前に確認した札が出ると「狙い」と同じような効果を生む。直前に詠まれた札 の連想から、直前のスペシャル確認を行なうとこうしたラッキー体験をすることができ る。また、出なくても札の印象が強くなるので、札の暗記にも役立つ。一例のみ紹介し よう。百人一首には、同じ語句や関連語句や音の同じものが、歌を越えて多数使用され ている。これを頭に思い浮かべて直前確認をするのである。たとえば、直前に詠まれた 札が「わび」だったとする。下の句は「みをつくしてもあはむとぞおもふ」である。ま ずは「みをつくし」の縁で「なにはえ」を確認する。「あは(アワ)む」から音をとっ て「あはれ」「あはじ」をチェックし、「おもふ」からは「おも」をケアする。もちろ ん、確認する札が場にない時もあるが…。これも、自然にふっと直前に気にするならば よいが、あまり意図的に意識的に無理にすると、他の札の暗記や取りに悪影響が出てし まう。悪影響が出るようならやめたほうがよいのはいうまでもない。しかし、直前確認 をするしないに関わらず、確認に役立つ要素は数多く持っていたほうがよいと思ってい る。作者名、姫・坊主・皇族の別、百人一首内の作者の親族関係など、かるたに関わる ものの知識として持っていてもよいものである。これを機会に、ぜひ、いろいろと試し てみていただきたい。<

《II》お手付

お手付をしたとしても、焦ったり、くやしがったり、うろたえたりしてはならない。た とえ、心の中でそのように思ったとしても、表面上はあくまでも平然としていることが 肝要である。こうしたポーカーフェイスに、本当にお手付したのだろうかと逆に相手が 不安を持ってくれたりする。

逆に相手がお手付した時も、特にポーカーフェイスの相手には嬉しそうなそぶりを見せ てはならない。こちらも、平然と淡々と札を送るのがよい。但し、お手付をしてしまっ たといって、「しまった」と騒ぐ相手に対しては、「チャンス」と自分に言い聞かす感 じでそれとなく声を発するのも相手の落ち込みに輪をかける一つの方法であろう。(「 ラッキー」という声を出す人もいるが、相手のミスを喜ぶようで好ましくはないと思う 。 「ハッピー」という声を聞いたこともあるが、これもどうかと思う。)中には、静かに 「お手(お手付)」とか「ダブ」と指摘するように声を発する相手もいた。

何にしても、お手付はしないにこしたことはない。

《III》誘い

一字の半音や二字や三字の決まり前に、相手の感じの間合いで手を出すと、相手が誘わ れて、フッと手を出してお手付をしてくれることがある。これが「誘い」である。下手 をすると誘いをかけた側がお手付をしてしまったり、誘う札の選択を間違えて肝腎な札 を取られたりすることもあるので、充分に注意をするようにしたい。成功すれば効果は 大きいが、自信のない方はそんなことに余分な神経を使うよりは、自分の取りに専念し たほうがよい。

また、逆に万一誘われて、お手付してしまったとしても、誘われたことを相手に悟られ てはならない。普通のお手付をしたと同じように平然としているポーズを取っていれば よいのである。

《IV》抜け

試合の中では、あってはならないことなのだが、時として暗記から抜け落ちてしまって いる何枚かの「抜け札」が出てしまうことがある。暗記を確実にして、そのような札が ないようにするのはもちろんであるが、抜けてしまったものは仕方がない。相手に抜け があればラッキーであるが、自分に抜けがあったらアンラッキー、相手にゆっくりと拾 われてしまうとショックは大きい。そんな時、自分が情けなくなり、自分で自分がイヤ になってしまう。だが、決して気にしてはならない。まして、抜けていたことなどを相 手に知られてはならない。その札の暗記が抜けていた分、他の札の暗記が強く入ってい るのだと良い方向に考えよう。また、相手に対しては、たまたま、他の札の攻めに気を 取られていたので、反応が鈍かった程度に思われるように見せかけておこう。抜けた札 の一枚分は他のところで取り戻すぞと前向きに考えよう。

また、ちょっと極端ではあるが、実際に他の多くの札を取るために、半分相手に取られ ることを前提にしたような少数の飾りの札を設定しておくようなこともありうるのであ る。この札が相手に遅く取られてしまったら、先に紹介した例と逆に、これは「抜け札 」 だったと相手に思わせておけばよいだろう。

こちらの真の意図は、相手に悟られないにこしたことはないのである。

《V》掛け声

大会などを見学にいくと、詠みの合間に威勢のよい掛け声がかかるのを耳にする。「フ ァ イト!」「サッ、一枚!」「バンカイッ!(挽回)」「ハイ(ホイ)、キタッ!」「エ イッ!」etc...。こうした掛け声をかけるのは、自分に気合いを入れるためには良いの だが、詠みの余韻の間に入ってからは発してはならないので注意してほしい。

また、札を取った瞬間に自分が取ったことをアピールする「ハイッタ!」「ヨシッ!」 という掛け声もある。相手の払い残しの場合は「ノコッタ!」という声まで出る。この 声も、他の競技者の妨げとならないように充分注意しなければならない。たとえば、「 ひ とも」「ひとは」が敵陣に並べてあって「ひと」で取った瞬間に「ハイッタ」などと声 を出すと、他の競技者が次の決まりを聞く妨げになってしまう。競技しているのは、自 分たちだけではないのである。このことを忘れてはならない。「ヨシッ」と声を出して はみたものの、実は明らかに相手が取っていたというようなこともある。声を出したほ う は、少々気まずい思いをしてしまう。相手も今のは自分の取りだと主張してくるとは思 うが、そんな時は、それより先に相手に軽く会釈して「いえっ、失礼しました」と礼を 尽くそう。

私は、延べつ幕無しに掛け声をかけることは、好ましくないと思っている。そんなに掛 け声を掛け続けるエネルギーを使うくらいなら、その精力を暗記や札の確認に費やした ほうがよい。真に重要な局面で掛ける掛け声だからこそ、自分の丹田に力を込められる し、相手に対する威圧にもなるのだと思っている。

《VI》主張

競技中、札をどちらが取ったかでもめることがある。二人で解決がつかない場合、審判 がついているならば、審判に判断をあおげばよい。審判に尋ねた以上、必ずその裁定に 従うことは言うまでもなく、審判の裁定に少しでも疑義をはさむようなことは言っては ならない。ところが、審判がついていない場合も多い。そのような時にはどう対処すれ ばよいのだろうか。まず、主張は論点を明確に、事実を確認しながら、論理的に行なわ なければならない。そのためには競技規定などをよく理解しておくことが肝要である。 決して、関係ないことや無駄なことを言ってはいけない。また、ただ自分が取ったと主 張するだけでは埓があかない。自分はどの札から払ったか、相手はどこからと主張して きているのか、札を払った双方のタイミングはどうだったか、札の飛んだ方向はどうか などを主張のやりとりの中で、あらゆる角度から確認していくのである。その上で、双 方了解の上でどちらの取りであるかを判断すればよい。もちろん、回りで他の組が取っ ているわけだから、いたづらに主張に時間を費やして迷惑をかけないように、短い時間 で要領よく結論に達するよう努力していただきたい。

さて、実際の試合において、明らかに年下の選手が無神経な言葉遣いをしてくると、ム ッ として取られたとわかっていても素直に認めたくない気分になることがある。相手に取 られたという事実は変えようがないし、競技している以上、そこは競技者として年齢差 や社会上の地位など関係のない一対一の個人がいるだけだということをわかってはいる が、競技者全員がそういう認識を持っているとは限らない。競技者としては、節度ある 礼儀正しい言葉遣いを心がけたいものである。こうした心遣いが双方の主張の潤滑油に なる。しかし、どんなに礼儀を尽くそうが心遣いをしようが、世の中には意固地になる 人とか思い込みの強い人というのが存在することも事実である。こういう人に万一出会 っ てしまったら、どんなに論理的に主張しても通じないものである。この場合は、相手に 札を譲ってしまうしかない。相手にわかってもらえないような、揉めるような取りしか できなかった自分を未熟と思えば、何も悔しがることはない。三枚譲って勝てなかった ら、それは自分の実力がないのである。あまり、主張にこだわりすぎると、暗記が抜け たり集中力がそがれたりして、ろくなことがない。特に相手の非論理的な主張にイライ ラし腹をたてるというのが、メンタルな競技であるかるたには、もっとも悪い影響を与 えるのである。自らその陥穽にはまることはない。

《VII》暗記(決まりの変化)

札が詠み進められるにしたがって決まり字は変化していく。これを暗記しているのは、 競技者として当然のことである。しかし、時としてこの決まりの変化を失念してしまう ことがある。「あれっ?あの札は出たかな。」と悩む体験を持っている人も多いだろう 。 このような事態を招かないことが一番なのだが、もしもわからなくなってしまったら、 何試合も取る度に札の暗記と失念を繰り返すという競技の性格上仕方がないことだと考 え、くよくよ悩まないことが最良の策である。悩む分を、しっかりと他の札の暗記と確 認に集中していただきたい。万一、決まりがわからなくなった場合、見込みで絶対に払 っ てはいけない。あたれば良いが、お手付という痛い目にあう可能性がないとは言えない からである。三字か二字かわからなかったら、二字で囲って三字めを聞いてから取れば よいのである。決まりがわからくなったという精神的な焦りこそが禁物である。

《VIII》札の移動

最初に来た二十五枚を自分の定位置どおりに並べると、札が妙に偏ったりして左右のバ ランスが取れないことがある。定位置どおり置くと右下段に十枚以上来てしまったりす ると、当然不都合が生じる。こんな時は、臨時に他の位置に何枚かを置いておき、本来 の場所に置けるスペースが空いた時に定位置に戻すといった方法を取る。また、出札の 出方によって、自陣の右なり左の札が極端に減ったり無くなったりすることがある。こ のような時には、左右のバランスを取るために札を移動させたりする。その他にも、一 字決まりに変化した札を下段に下げたり、一字決まりがやたら右なり左下段に集中して 狙われやすいので左右に散らしたり上段中央に上げたり、敵の狙いをはずそうと考えて 札を動かしたり、自陣に取りやすいシフトを組むために札を移動させたりと、種々の理 由がある。どのような理由にしろ、自陣の札を動かす時は、必ず相手に断わらなければ ならない。

札の移動にいろいろな理由があるのはわかるが、ただ相手を撹乱させるだけの理由で一 度に大量に札を移動させるようなことは、やめたほうがよいと思う。なぜなら、相手が 撹乱するということは少なからず自分も撹乱してしまうからである。自分自身の暗記が その札の移動についていけなければ、札の移動は意味を持たないだろう。札の移動は、 自分にとって益となる意図を常に裏に秘めているべきなのである。

特に終盤における札の移動は、狙いや取りの優先順位とも大きく関わり、勝敗を決める 要素の一つともなる。不安を持っていたり、中途半端な考えしか持っていないようなら ば、札を移動させないほうがましである。明確な理由・根拠を持ち、自己の信念と確信 に基づいてこそ、初めて札を動かすべきである。札一枚の移動が千金の重みを持つ。決 して、おろそかにしてはならない。

《IX》個人トーナメント戦

名人戦・クイン戦及び同挑戦者決定戦は、同一人相手に数番取って(名人戦が五番、そ の他が三番)勝敗を決めるが、それ以外の大会ではほとんどが個人トーナメント戦方式 を採用している。出場者が三十二人〜六十三人ならば五試合〜六試合を勝ち抜かなけれ ば優勝できないという長丁場である。コンディションを充分に整えておかなければ、こ の長丁場を乗り越えることはできない。特に冬場は試合が多いので、風邪など引かぬよ う充分に気をつけていただきたい。大会会場は神社や寺院の広間や体育館の柔道場など 広くて天井が高いところが多いので、暖房による暖はあまり期待できない。冬は寒さ対 策を充分に整えておいたほうがよい。着込むと動きにくいので、懐炉などの用意がある とよいかもしれない。夏も冷房をあまり期待しないほうがいいだろう。汗ふき用のタオ ルなどの用意をしておきたい。

当日の朝食は必ず取っておくことをおすすめする。特に昼食時間が用意されているわけ ではない。試合の経過によっては、昼食をとることができない。そんな時、朝食をとっ ておかないとここ一番で力がでないだろう。大差で勝利し、運よく昼食を取る時間がで きたとしても、満腹になるほど食べてはいけない。腹八分といわず五分か六分でとどめ ておいたほうがよい。食べ過ぎると胃袋に血液が集中し、頭の働きが鈍ると言ってあえ て食べない人もいるくらいである。但し、夏場で汗を大量にかくような場合は、水分を 充分に補給しておかないと脱水症状をおこしかねないので、試合当日の環境に応じた自 己管理が必要である。

さて、以上のことは個人トーナメントに限らず試合全般に共通の注意事項である。ここ で個人トーナメントにつきものの不戦勝の時の時間の過ごし方について、述べたいと思 う。たとえば、三十三人の出場者がいるとすると一回戦は一組二人だけである。三十一 人が不戦勝である。その間、試合の詠みを聞いて、詠み手の癖を掴もうとしている人も いるし、身体を休めて次の試合に備えている人もいる。どれもよいことであるが、眠る ことはお勧めできない。眠ってしまうと頭が通常の状態に起きあがるまでに結構時間が かかるからである。身体を横にして肉体を休息させることはよいが、眠らないよう注意 していただきたい。また、準決勝くらいになると対戦相手が遠方の選手であると、列車 や飛行機の時間の都合で棄権して帰ってしまい、予想外の不戦勝が舞い込むことがある 。 こんな時、もう一試合を観戦し決勝戦の相手の取りの研究をするのもよいが、これをす ると一試合取ったのと同じくらい神経が疲労する。自分の精神・身体の疲労状況をよく 考え、疲れているようならば休息すべきである。その際、それまでの試合のことなど振 り返ったりもしないほうがよい。とにかく、今までの試合や札の出のことは一時も早く 失念すべきである。新鮮な気持ちで決勝戦の暗記に集中できるようにする。ただでさえ このように何試合も続けて取っていると、前の試合の暗記が頭をもたげてきたり、現在 の試合の暗記が入りにくくなっているものなのである。当然、この時も眠るのはよくな いので、横になって身体を休めるにしても注意をしてほしい。

試合では、いつも勝ち残れるものではないが、勝ち残った時に焦らずにすむよう、練習 の際、特に合宿などで一日がかりで練習できる機会を大事にしていただきたい。

《X》団体戦

最近では団体戦の大会も増えてきている。団体戦では、一対一の組み合せが三組なり五 組行なわれ、二勝なり三勝したチームが勝ちとなる。しかし、団体戦を「個人戦が三組 なり五組行なわれている」というように考えるのは誤りである。ここでは、団体戦の際 の注意点を何点か紹介しよう。

団体戦で、すべてがせっている試合であることは珍しい。一組くらいは、差がついた試 合展開になってしまうものである。勝っているほうは、できるだけ早く確実に勝利を収 めるべく努力すべきである。余裕をみせて勝利が遅くならないようにしたい。勝つこと が一番ではあるが、他に取っているチームメイトに与える影響が違うのである。一勝し ているという事実を背負って取っているのとそうではないのでは気分の持ちようが異な るからである。一方、負けている方は、たとえ自己嫌悪に陥っていようが、恥ずかしい から早く勝負を終わらせてしまいたいなどと考えてはならない。個人戦ならば、途中で 戦意を喪失してしまってもやむをえないこともあるが、団体戦ではそれは許されない。 なぜなら、他のチームメイトが自チームの勝利を目指して、一生懸命取っているからで ある。負けが見えかかっていても、負けを一瞬でも遅らせなければならない。考え方と しては、チームの勝利が確定するまで(五組試合なら三勝め、三組試合なら二勝めがあ がるまで)は、負けが確定しないよう粘るということである。この気持ちで取り進むう ちに、いつのまにか自分が最後の一組として残ってしまって、「自分の勝利」イコール 「チームの勝利」という事態になっているかもしれない。そうなったら、あとは「やる っ きゃない!」である。頑張ってもらいたい。

さて、続いては複数組がせって終盤に突入した場合の注意点である。二組がせって終盤 の局面を迎えたとする。この時チームは二組のうちあと一勝で勝利という場合、たとえ 二組とも一枚対一枚になったとしても、それぞれ異なる札を持って二人とも自陣を守っ ても勝てる体制を作れるように、他の試合経過を見ながら札の送りを考慮しなければな らない。逆に、他の組で相手にリーチをかけられて二組ともに勝って逆転しなければな らない場合は、札を揃えることを考えて送りを考える。但し、これが予選最終戦で チームの勝点を落としても合計勝利数であと一勝で決勝進出という場面ならば、札を別 けて残す 送りにしなければならない。このように団体戦では、全体の中でチームが置かれた状況 を選手全員が試合前に把握していなければならないのである。こういう考え方に日頃か ら慣れているチームが団体戦上手といわれ、個人個人の戦力では劣っていても、総合 力、まさにチームワークで勝利をおさめるものなのである。


終章 『競技かるた暗中模索』

本稿も最後の章になった。いろいろな観点から述べてきたが、これで充分に語り尽くせ たとは思っていない。「かるた」も自己表現の一つのなのである。百人の人間がいたら 百の「かるた」が存在する。また、「かるた」や「かるた会」、「かるたの競技者」等 々 いわゆる「かるた界」への関わり方も百人百様であり、これもまた、自己表現方法の一 つである。「競技かるた」の世界は、相当に奥が深そうである。本稿は、一つの問題提 起にすぎない。本稿が「競技かるた」について考える一つのきっかけになれば幸いであ る。

「かるたに王道なし。」練習と試合の積み重ねの中から、自分にもっとも適した「かる た」のスタイルを見つけだしていただきたいと思う。しかし、自分にあったスタイルが できたと思えても、それもまた仮の姿である。その人の人生の歩みとともに「かるた」 という自己表現手段もまた変化していくのである。「競技かるた暗中模索」に終わりは ない。


Coryright:Hitoshi Takano

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