小学校の時に聖書を読み始めたきっかけは、親が教会に行き始めたから だった。教会学校に行き、高校の時には洗礼を受けた。今では父親は、 牧師になり自宅(私の実家)で牧会をしている。私は親元から離れて暮 らしているので、小学校の時から集っているプロテスタントの教会に 現在も通い続けている。こんな私が、日々感じることなどをちょこっと 紹介してみようと思う。時間のある方は、しばらくおつきあいいただき たい。明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。 一日の苦労は一日にて足れり。
(聖書「マタイ伝福音書」第6章34節)
本文へ跳ぶ 学生時代に友人に「お前は、堕落した切支丹だ。」と言われたことがある。 その友人の持つクリスチャンのイメージとは、違っていたのだろう。私が 日本史を学んでいたことを知っていたからだろうか、最初は「伴天連」など と言っていたが、それは外人宣教師のことだと言うと「切支丹」に落ち着いた。 まあ、そんなエピソードを思い出したので、こんなタイトルをつけてみた。