「かるた展望」の発行中断

中断期間:丸6年 第11号(1977年8月発行)と第12号(1983年8月発行)の間

(個人的コメント)
 第11号の編集後記をみると、半年遅く発行されたことがわかる。1年半の間をおいて いるため、名人戦、クイン戦は2期分が記載されている。
 「時の移り変わりの速さを感じ、ニュース性に乏しい」ということから、読者の立場としたらなおのことで、「せめて季刊(年4回)はほしいところ」と書かれている。さらに次号は大風呂敷を広げて「かるた界の歴史」をまとめてみたいということまで書かれている。
 しかし、選手会発行の「かるた展望」はこの号をもって終わる。空白期間の「かるた界の歴史」は世紀をまたいで「競技かるた百年史」の刊行を待つことになる。
 そして、6年間。おそらくこうした記録に残らない紆余曲折があったことだろう。 1983年8月、「かるた展望」第12号は、全日本かるた協会の機関誌として復活する。
 こうして、「かるた展望」の記事を読んでいると、資料・記録としての機関誌の重要性 がわかる。この空白の6年は、あまりに大きいような気がする。もちろん、記録的な意味 では、全日協レポートというもので大会の案内や大会の記録が各会に送られていた。 深田郷風副会長の名調子で、「紀州の小冠者」△△とか「はやて」の○○、好漢◇◇など、寸評に味わいがあった。それでも、冊子という形をとった刊行物は保存に適している。
 私が、競技かるたを始めたのは1979年4月からであり、この空白期間にぶつかって しまっている。大学4年の卒業の年になって、卒業後にやっと復刊したのである。B級以下の時代の記録は、かるた展望には残されていない。どの選手が、同じ時期にかるたを始めて昇級していったのかは、記憶をたどるしかないのである。自分自身のB級入賞やB級優勝の記録は自分のつけている記録や記憶にはあるが、「かるた展望」からはわからないのである。これには一抹の寂しさを感じる。
 さて、そういうわけでこの空白期の名人戦・クイン戦くらいは振り返っておこう。

<名人戦>
1978年 ○森 洋三 3-0 川瀬健男
1979年   森 洋三 2-3 松川英夫○
1980年 ○松川英夫 3-0 前田秀彦
1981年 ○松川英夫 3-1 前田秀彦
1982年 ○松川英夫 3-1 栗原 績

<クイン戦>
1978年 ○堀沢久美子 2-1 鶴谷智子
1979年 ○堀沢久美子 2-0 妹尾美技
1980年 ○堀沢久美子 2-0 吉井瑞枝
1981年 ○堀沢久美子 2-0 妹尾美技
1982年 ○堀沢久美子 2-0 金山真紀子

 名人位は、交代劇が1回。森名人の3連覇の終わりから松川名人の4連覇までがこの 時期である。クイン位は、堀沢クインの8連覇中の5期分がこの時期にあたる。クイン 戦の妹尾は福山所属、金山は東京吉野会所属であるが、どちらも慶應のOGである。
 この間の思い出としては、同期の小飼伸一が大会で松川名人に勝ったことである。一緒にかるたを始めた身近にいる仲間が名人に勝ったということは、私の中ではセンセーショナルなことであった。小飼の強さは、同期の中でも郡を抜いていたが…。
 そして、自分がA級にあがって松川名人と大会で対戦できたときは、すごく嬉しかった。相撲の力士が横綱と本割であたり、横綱とあたる地位まであがってきた感動を語ることがあるが、まさにそういう感慨があった。小飼とは違い、私はあっさり一蹴されてしまったが…。
 さて、かるた展望の大会成績でA級優勝・入賞で名前が何度も掲載された選手は、東日本・西日本の代表となり、その後、挑戦者として名乗りをあげてくる。こうした流れをみる上でも、かるた展望の資料的意味は大きいと考えるのだ。
(H.Takano)

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