順徳院

百敷や古き軒端のしのぶにも
   なほあまりある昔なりけり


決まり字:モモ(二字決まリ)
 百番目のこの歌を百番目のリンクにした。これでリンク完了である。

 後鳥羽帝の第三皇子で守成親王。14歳で即位し、順徳天皇となった。在位11年間は 父後鳥羽院の皇権回復、朝儀復興の方針に協力した。皇子の仲恭天皇への譲位は、後鳥羽の 倒幕計画への協力のためと言われる。
 承久の変で敗れ、佐渡に流される。以来21年佐渡で暮らす。父、後鳥羽は流刑の隠岐で 1239年に崩御。19年間の流刑生活であった。順徳院は父に遅れること3年、1242年 に佐渡の配所で崩御する。京都へ戻る望みがたたれ、絶食して命絶えたとも伝えられる。
 不食の病で亡くなったと伝えられる歌人が、百人一首の中にあるのは、そのことへの鎮魂の 意味もあるのではないだろうか。

 この歌は、佐渡に流される前、在位中に詠んだ歌である。「百敷や」は従来、「大宮」に つける枕詞であったのだが、のちに大宮や皇居そのものをしめす言葉となる。「しのぶ」には 「しのぶ草」と「偲ぶ」の意味が掛けられている。そして偲んだ昔は、延喜・天暦の治といわ れた時代とも言われるが、朝廷が栄えた時代を総じて指しているのだとも言う。

   皇居の古びた軒端にしのぶ草が生えているのを見るにつけて、(朝廷の威光が弱まって しまったことを感じてなげかわしくなってしまい)昔の朝廷の栄光の時代をしのんでもしの びたりないのだ。

 歌の意味はこのようになるだろう。

 この順徳院の歌の意味を知れば、百人一首の中に朝廷の威光が強かった時代の歌があり、 過去の盛時を懐古する歌がありといった撰について、なるほどとの思いを持つ方もいるのでは ないだろうか。

 さて、百首を順不同に一首ずつ紹介するという作業も無事に終わることができた。もともと は、1995年に自分のホームページを立ち上げる際にコンテンツの一つとして 小倉百人一首をのせたのが最初である。最初は、リンクしている歌をとびとびに見て もらって、ページの一番最後まで読んでもらえるように、一画面にリンクが一つは くるように9首の紹介をしていたにすぎなかった。ところが、自分でも何故やる気 になったかはわからないが、今年(2008年)になって、全首やろうと思い立った のだった。それが、ここに完成を見たということである。
 実際に達成してみて、やってみてよかったと正直感じた。
 それは、何よりも、百首一首一首にあらためて向き合うことができたということが、まず、 あげられるであろう。普段、競技で払い飛ばしている札の歌や作者に向き合うことで、一首 の深さや重みを再認識することができた。こういう文化的遺産をゲームとして競技性を高め ていることは、日本文化の誇りであるといえよう。
 そして、もうひとつ感じたことは、「百」という数をあらためて感じることができたと いうことである。これがどういうことかというと、「百もある」から「百しかない」へ の気持ちの変化をあらためて体感したということである。
 百人一首を暗記する時も、わりと多くの人が「百もあるの?無理無理!」という反応を 示す。それを、経験者たちが「百しかないんだから、大丈夫!」と言って、この道に引っ 張るという図式があり、まさにその感覚である。もちろん、百という限りのあることとい う認識はもっていたが、「百首もエピソードやら解説やら書いてリンクを張るのは相当な 手間だなぁ」という思いは強かった。しかし、20首完了、これで5分の1。25首完了、 これで4分の1。33首完了、これでほぼ3分の1。40首、5分の2。50首、半分。
 ここまで来ると、あとは、残りのほうが少なくなって、気分的には加速していく。
 60首、5分の3。66首、ほぼ3分の2。75首、4分の3。80首、残り5分の1。 どういうわけか、80までくると、5分の4という感覚より、残り5分の1になるのである。 カウントダウン感覚である。それは、90首を越えるとより顕著となる。カウントダウン が始まるのである。
 このカウントダウン感覚、1首ずつ減っていくというのは、競技の中で、札を1枚ずつ 減らす感覚に似ている。
 こういう感覚をあらためて感じることができたことは、「百」という数量を「一」という 単位で確認する作業をしたことにほかならないと思った。
 百という数だけではない。百人の歌人に、百首の歌に、百枚の札にあらためて触れる ことができたこの作業に満足している。(内容はともかく…)

 この私の「百」の作業を読んで確認してくださった方にも、「ありがとうございました」 との感謝の言葉を贈りたい。

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2008年6月1日  HITOSHI TAKANO