かるたの「免許状」の文面を読んでみよう!

 かるたの免許状の文面の読み方がわからないとの声を聞きます。 私も確かな方から聞いたわけではありませんが、 拙い知識と辞書(岩波国語辞典)を参照しながら、句読点をつけつつ、 読みと解説をしてみようと思います。
 この意訳をもとに、機械翻訳(Weblio)などを参考に英訳もしてみました。(2015年4月)→* English


初段免許 かるた技の習得に熱心し其技堂奥に入る依而初段を授く

   「かるたギのシュウトクにネッシンし、 ソノワザ、ドウオウにハイる。ヨッテ、ショダンをサヅく。」

   (解説)  初段ということですので、 段位としては誰もがここからスタートするので、印象に残るのではないでしょうか?「習得」とは、 「習って覚え込むこと」で、「熱心」=「その事に心を打ち込んでいること」です。 この文言を読むと「初心忘るべからず」という言葉を思い出しますね。「其」は「その」です。 漢字で書くことで、免許状としての威厳が出てくるような気がするので不思議なものです。 「技」が「ワザ」と読むのか「ギ」と読むのかは悩みましたが、次の「堂奥」が音読みなので、 ここは訓読みのほうが意味が取りやすいと思い、「ワザ」と読みました。「堂奥」は「ドウオウ」 と読みます。意味は「堂内の奥まった所。転じて秘奥。奥義。」です。「奥義」は、「学問・芸能・武術などのもっとも大事な事柄。最もかんじんな点。奥儀。」と辞書に記されています。
   また、「入る」も「イる」がよいか、「ハイる」がよいか悩みましたが、理解のしやすさから「ハイる」を取りました。ここで「。」です。そして「依而」=「ヨッテ」です。漢文の表現ですね。「そういうわけですから」と、前段の文章の理由で「初段を授ける」ということになります。
   さて、こういう免状や賞状には句読点はつけません。古来、正式文書には 句読点はありませんでした。免状や賞状は、その功績などに敬意をあらわすものですから、句読点を つけるということは、「句読点をつけてあげないと読めないでしょう」ということを いってるようなもので失礼にあたるからです。とは言うものの「授く」ですから、上から目線の 文言ではありますね。
   簡単に言うと「一生懸命稽古してかるたの技を磨いたので、技の奥義に届いて きました。ですから初段を差し上げます」という感じになるでしょうか?(くだきすぎ?)

弐段免許 かるた技の習熟に勉励し其妙諦に達す依而弐段を授く

   「かるたギのシュウジュクにベンレイし、 ソノミョウテイにタッす。ヨッテ、ニダンをサヅく。」

   (解説)  二段です。「2段」 ではなく「弐段」なんですね。よく、級位はアラビア数字で、段位は漢数字で書きわけます。 将棋棋士の加藤一二三(かとうひふみ)さんは、将棋の九段ですが、縦書きで「加藤一二三九段」と 書くと、「1239段」(せんにひゃくさんじゅうきゅうだん)って読んでしまいませんか?
   おそらく、しないですよね。でも、「加藤一二三弐段」だったら、確実に しないですよね。すみません。おもしろくない話題だったかもしれません。
   さて、今度は「習得」ではなく「習熟」です。「習熟」の意味は、「ある物事に 慣れて十分に会得すること」です。「覚え込む」から「会得」(よく理解して自分のものと すること)になったわけです。「覚える」に今度は「理解」が加わったと考えればよいでしょう。 「勉励」=「つとめはげむこと。一心に努力すること」です。「熱心」は、夢中になっている 感じですが、こちらは意図的な努力という感じがしますね。その結果「妙諦に達する」わけ です。「妙諦」とは、「すぐれた真理」です。正しくは「ミョウタイ」だそうです。仏教用語 から使っているとすれば「タイ」と読むのかもしれません。ちなみに「テイ」は漢音、「タイ」は 呉音です。辞書の見出し語としては「ミョウテイ」しか載っていなかったので、ここでは 「ミョウテイ」と読ませてもらいました。
   簡単に言うと「かるたの技を理解して身につけることによく努力したので、 かるた技のすばらしい真理に到達してきました。ですから弐段を差し上げます」という感じで しょうか?初段と比較すると、理解や心理といった精神性にはいってきた感じがします。

参段免許 かるた技の研究に励精し其真髄を会得せり依而参段を授く

   「かるたギのケンキュウにレイセイし、 ソノシンズイをエトクせり。ヨッテ、サンダンをサヅく。」

   (解説)  三段です。「三段」 と書くより「参段」のほうが重みを感じます。今度は、「習得」でも「習熟」でもなく「研究」 です。「研究」という言葉は、解説不要なほど使われている言葉ですが、あらためて辞書の 意味を確認してみましょう。「物事を学問的に深く考え、調べ、明らかにすること」です。 初段・弐段には「習」の文字がありました。「習」とは、「覚え、身につける」だったり 「教わる」だったりするのですが、今度は「研究」ですから、自分で考えて調べて明らかに するのです。弐段が、「すぐれた真理」に達するのだとすれば、今度は自分で「真理」を 見つけてしまうという感じですね。「まだ見ぬ真理を明らかにする」と言ったほうがいいかも しれません。「励精」は、岩波国語辞典(私が使っているのは古いのですが第三版です)の 見出し語にありませんでした。そこで大修館の新漢和辞典で見ますと「心をはげます。 精神をふるいはげます」とあります。心をはげましながら研究に打ち込むということですね。
   その結果「真髄」を会得することになるわけです。会得については、 弐段のところで書きましたので省略します。「真髄」とは、「物事の中心・精神ともいうべき もの。また、その道の奥義。」です。初段の「堂奥」が「技」であったのに対し、「真髄」は 「道の奥義」です。ますます、精神世界に入ってきました。
   簡単に言うと「かるたの技の研究を心をはげましながらやってきて、 技の精神を理解して身につけました。ですから参段を差し上げます」という感じでしょうか? 精神世界に入りつつあるのですが、まだ、冒頭の文言は「かるた技の…」というところを 心にとめておいてください。

四段免許 かるた技の真髄に通暁して研鑚の功愈著し依而四段を授く

   「かるたギのシンズイにツウギョウして、 ケンサンのコウ、イヨイヨ、イチジルし。ヨッテ、ヨダンをサヅく。」

   (解説)  四段です。 「四」を「肆」と書くことがありますが、この時の読みって「シ」になってしまうんですよね。 次の五段も「伍段」とせず「五段」になっており、以降は普通の漢数字を使った表記になって います。四は「よん」とも「し」とも読みますが、「よん」は「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、 いつ、むぅ、なな、やぁ、ここのつ、とぉ」の読みなので、「いち、に、さん」とくれば、 本当は「し」でなければならないのかと思います。しかし、「し」は「死」に通じたりして 嫌われていて、「にだん」「さんだん」のあとは「よだん」もしくは「よんだん」と読む ほうが一般的なのだと思います。「シダン」って聞かないですよね。ここでは、「ヨダン」 と読ませてもらいました。
   参段で会得した「真髄」に対して、四段では「通暁」することになります。 「通暁」は「すみずみまで非常にくわしく知ること」です。「研鑚」=「みがき深めること」。 「功」は、あまりに一般的ですが、辞書的な意味をみてみると「労力をつくして事をなし とげた結果・しごと。てがら。いさお。」と書かれています。「愈」は「いよいよ」です。 「前よりもなお一層。ますます。」という意味ですね。「著し」は、「目立ってはっきり している。明らかだ。それとわかるほど、程度が甚だしい。」となります。
   簡単に言うと「かるたの技の精神を知り尽くしてきて、 このこと(参段までやってきたこと)を深めてきた功績は、前よりも一層明らかに なりました。ですから四段を差し上げます。」ということであろう。参段で使った「真髄」 を再度使うことで、その継続性がうかがえます。なによりも大事なのは「功」です。 結果にあらわれていて、それが明らかになっているということが評価されているわけです。 最近よく使われる言葉ですが、四段になったということは「エビデンス」が示されたからだ と言うことができるでしょう。

五段免許 かるた技の精妙を極めて殆ど完璧の域に達す依而五段を授く

   「かるたギのセイミョウをキワめて、 ホトンどカンペキのイキにタッす。ヨッテ、ゴダンをサヅく。」

   (解説)  五段になると 「精妙」=「不思議なほどすぐれて巧みなこと。わざが細かくてすぐれているさま」を 極めることになります。「極める」とは、「この上なしの所まで達しつくす。」ことです。 「殆ど」=「おおかた。あらましのところ。すべて、全くとはいえないが、それに近い 程度」という表現を使っているのは、次に控えている「完璧」なる言葉に対しての謙虚さ の表れだと思います。
   その「完璧」の意味は「一つも欠点がなく、完全なこと。完全無欠な こと」です。次の「域」も言わずもがなのわかりやすい表現ですが、辞書的な意味は 「土地の境界。限られた広さの場所。範囲。」ということになります。要するに、完璧の 域に達してしまったら、その後の進歩は期待できないわけです。人は、完璧でないから、 努力し、研鑚をするのです。したがって、「殆ど」の文言がついていることが、非常に 素晴らしく思えます。完璧の域に達してはいるけれども、殆どであって、足らないと思う 部分を自分で見つけてもっと研鑚を積んでねというメッセージなわけです。
   簡単に言うと「かるたの技は、不思議なくらい優れて巧みになって、 ほとんど完璧になりました。ですから五段を差し上げます。」ということでしょう。 「ほとんど」と言う言葉で、精神性を示している一方、「かるた技」という「技」の面 では、五段まででほぼ完成なのです。そういうわけで、次の六段からは冒頭の文言が 大きく変化していきます。

六段免許 貴下かるた道を究めて芸術の秘奥を闡明す依而六段を授く

   「キカかるたドウをキワめて、 ゲイジュツのヒオウをセンメイす。ヨッテ、ロクダンをサヅく。」

   (解説)  五段のところで指摘したとおり、冒頭が変わります。五段以下の「かるた技の…」が、「貴下かるた道を究めて…」となります。「貴下」は「相手に対する敬称。男が、おもに文書・書簡に使う。」と辞書にあるように「書き言葉」です。最後は「授く」で上から目線かもしれませんが、冒頭は敬意をはらって「貴下」の敬称を用いています。ちなみに、一般社団法人全日本かるた協会の年間登録料も、六段以上は五段までの金額の倍額となります。免許状の文言のほかにも、こんなところにも大きな差があります。「究める」は「極める」のところで意味の説明をしていますので、そこをご覧ください。「学」などに関しての時には「極める」ではなく「究める」の文字を使います。五段のところでは、「技」の精妙だったので「極」の字を使い、六段では「道」という精神性についてなので「究」の字を使い、区別をしていると考えてよいでしょう。そして、「技」から「芸術」に変わってきます。そういえば「技」の辞書的意味を紹介していませんでしたね。「技」=「方法。技術。武道・すもう等で、相手を負かそうとして仕掛ける、一定の型の動作。手。」とあります。一方、「芸」はどうでしょうか?「芸」=「―のして身につけた技能。学問。技術。わざ。芸術、または遊芸に関すること。」です。「技芸」という言葉もあるくらいですから、なかなかにその区別を明確に表現するのは難しそうです。辞書で「技芸」を引くと「美術工芸方面の技術」とあります。では、「技術」を見てみましょう。「技術」=「_奮悗鮗尊櫃鳳用し、人間生活に役立てるわざ。∧事を(たくみに)行なうわざ。」とあります。ここでは△琉嫐があてはまるでしょう。さて、では「芸術」はどうでしょうか?「芸術」=「(厳檗Τ┣茵δ刻・音楽など、独特の表現様式によって美を創作・表現する活動。またその作品。技芸と学術。」ここでは△琉嫐なのでしょうか?一般的には△塙佑┐襪任靴腓Δ、競技者としての感覚では、競技かるたという対戦という表現様式による美の創作であり、美の表現であると考えています。どちらかというと,剖瓩ご恭个覆里任后作品として形は残りませんが、記憶として残ります。これも、また芸術なのだと思います。そして,琉嫐であるほうが、次の「秘奥を闡明す」にしっくりとつながるように感じるのです。「秘奥」は「容易にうかがうことのできない、物事の奥深い所。」と辞書にあり、用例としては、「芸道の秘奥をきわめる」とあります。「かるた道」は「芸術」でもあり「芸道」でもあるように思います。個人的には「芸道」のほうが気持ちに馴染みます。「闡明」=「それまではっきりしなかった事を明らかにすること。」です。「闡明」はあまり使われない表現ですが、「芸術」の△琉嫐にもつながる表現です。
   「簡単に言うと」と今まで無理やりまとめていましたが、だんだん簡単に言えなくなってきました。それでも、あえて簡単に言ってみましょう。「貴方(あなた)はかるたの道でこの上ないところまで達して、かるたの芸術性の奥深さを明らかにされました。ですから六段をさしあげます。」という感じでいかがでしょうか?

七段免許 貴下かるた道を究めて余蘊なし加ふるに勲功顕著也依而七段を授く

   「キカかるたドウをキワめて、 ヨウンなし。クワうるにクンコウケンチョナリ。ヨッテ、シチダンをサヅく。」

   (解説)  七段です。「ななだん」でしょうか?「しちだん」でしょうか。「いち」と「しち」で聞き分けづらいところから「いち、に、さん、し、ご、ろく、なな…」と「なな」派もいますが、四段のところでも書いていますが、「なな」と読むのは、「ひぃ、ふぅ、みぃ…」の数え方の流れなので「しち」であるべきです。段位のときは「いちだん」と言わず「しょだん」なので、余計「なな」である必然性が薄れます。ラジオ体操のかけごえも、「…ごー、ろく、しち、はち」ですよね。文学者の柳瀬尚紀氏は、羽生善治さんが、将棋で七冠を達成し「七冠王」となったときに、「ななかんおう」ではなく「しちかんおう」と読むべきであると主張されていました。ここは、「しちだん」と読ませていただきます。
   冒頭「究めて」までは、六段と共通です。「余蘊」というまた聞きなれない言葉が出てきます。「余蘊」とは、「残るところ。」です。「余蘊なし」ですから、残るところがないほどかるた道を究めたということになります。「勲功」は解説することのない言葉かもしれませんが、一応辞書的には「国家・君主などに尽くした功労・てがら。」です。ここでは「斯界のために尽くした功労」と考えればよいでしょう。「顕著也」ですが、この最後の「也」はひらがなで「なり」と書いてもいいような気がします。まあ、でも漢字で「也」の方が一部漢文チックで雰囲気がいいのかもしれません。「顕著」=「きわだっていること。いちじるしいこと。」です。
   簡単に言うとなので「かるた道を究めて」はそのまま使うことにします。「貴方(あなた)はかるた道を究めて、残すところがありません。それに加えて斯界のために尽くした功績はきわだっています。ですから七段をさしあげます。」という感じです。少々、言葉を補っていますね。

八段免許 貴下かるた道を究めて玄を悟り幽を啓き勲功斯界に輝く依而八段を授く

   「キカかるたドウをキワめて、 ゲンをサトり、ユウをヒラき、クンコウシカイにカガヤく。ヨッテ、ハチダンをサヅく。」

   (解説)  八段です。将棋のプロの世界では、A級リーグに昇級すると八段になります。このA級リーグの優勝者が名人に挑戦するシステムです。
   それはさておき、八段の免許状の文言です。「玄を悟り幽を啓き」とは、いわゆる「幽玄の世界」に足を踏み入れたということでよいでしょう。では、言葉の意味を辞書的に見ていきましょう。「玄」は「おくふかい意味を感じさせる。おくふかい道理。」です。「幽」は「奥深くもの静か。暗い。人の容易に知りえない深みがある。」です。これが、かさなって「幽玄」となると「奥深くて、はかり知れないこと。趣が深く味わいが尽きないこと。」となります。「幽玄」は、藤原基俊(「ちぎりお」の作者)・藤原俊成(「よのなかよ」の作者)・藤原定家(「こぬ」の作者)などにより、和歌の評論に使われる用語として出てくるので、縁を感じるところでもあります。ちなみに囲碁の世界でも「幽玄」という言葉は、使われます。日本棋院の運営するインターネット対局の専用サイトにも「幽玄の間」という名前がつけられています。
   あとは、言わずもがなでしょうが、「悟る」=「,呂辰りと理解する。見抜く。◆癖教用語)心の迷いを去って真理を会得する。悟りを啓く。」、「啓」=「閉じたものをあける。未知のものを明らかにする。教えみちびく。みちびく。」です。
   「斯界」はすでに解説で使っている言葉ですが、「この(専門)社会。この分野。」の意味です。この文章の中で「斯界」といえば、「競技かるた」の世界・社会・分野ということになります。
   ではいつものように、簡単に言ってみましょう。「貴方(あなた)はかるた道を究めて、奥深い道理を悟り、容易に知りえない深みまでを明らかにしました。その功績はかるた界の中で輝くものです。そういうわけですので、八段を差し上げます。」ということになりますでしょうか。

九段允許 貴下かるた道を究めて遂に神仙の域に迫る依而九段を允許する

   「キカかるたドウをキワめて、 ツイにシンセンのイキにセマる。ヨッテ、クダンをインキョする。」

   (解説)  九段です。「くだん」と読みます。「きゅうだん」ではありません。また、お気づきかと思いますが、九段は「免許」ではなく「允許」です。八段までは「免許」なのですが、九段は「允許」となります。名人位・クイーン位も「允許状」で「第○期名人位を允許」されることになります。では、辞書的な意味を紹介しておきましょう。「免許」は「ヾ姥庁が許すこと。∋嫋△弟子にその道の奥義を伝授すること。」です。ここでは、△琉嫐で使われています。「允許」は「みとめゆるすこと。許可。」です。九段は「神仙の域に迫る」わけですから、「師匠が弟子に」という辞書的な意味での免許では失礼になるわけですね。そこで、「允許」を使うことになるのでしょう。
   文言はほぼ説明不要でしょう。ただ、これまでと同様、辞書的な意味を紹介しておきましょう。「神仙」=「/世篝膺諭⊃青摸呂鯑世神膺諭」です。,任皚△任癲△海海任琉嫐の取り方はよいかと思います。将棋の九段が囲碁の九段と話をして、将棋・囲碁の神様が百としたら、自分はどのくらいのところを知っていると思うかという話題になったというエピソードがあるそうです。その時、将棋の九段は「6〜7」と答え、囲碁の九段は「4〜5」と答えたそうです。その時、将棋の九段は「なんと自分はうぬぼれていたのだ」と悔やんだそうです。「遂に神仙の域に迫る」と言っても、本当はこのくらいのものなのかもしれません。
   必要もないくらいですが、簡単に言っておきましょう。「貴方(あなた)はかるた道を究めて、ついに神や仙人の域にまで迫るまでになっています。そういうわけですので、九段をお贈りします。」という感じでしょうか。

十段推挙状 貴下かるた道を啓いて一世の儀表たり且つ勲功現代に絶す依而十段の極位に推す

   「キカかるたドウをヒラいて、 イッセイのギヒョウたり。カつクンコウゲンダイにゼッす。 ヨッテ、ジュウダンのキョクイにオす。」

   (解説)  いよいよ最後の十段です。 将棋の竜王戦の前身の読売新聞の棋戦は「十段戦」でした。 囲碁には今でも「十段戦」があります。囲碁は産經新聞の棋戦です。 この囲碁や将棋の「十段」はタイトル戦ですので、いわゆる「初段」から「九段」までの、 「段位」の体系とは異なります。しかし、競技かるたの世界では「十段」はタイトル戦ではなく、 段位体系の中の最高段位としての「十段」です。もちろん、「免許」などという言葉は使いません。 「允許」でさえもありません。「推挙状」なのです。では、文言を見ていきましょう。
   冒頭が六段〜九段と変わります。「かるた道を究めて」ではなく 「かるた道を啓いて」となります。すでにある「道」を究めるのではなく、「道」を切り開くと いうニュアンスが「かるた道を啓いて」の文言には感じられます。開拓者であり、道をつくる人 というイメージですね。
   「一世」は「イッセ」と読む場合は「一生涯。終生。」と辞書にあります。 仏教用語だと「過去・現在・未来の中の一つ」という意味で書かれています。 また、「イッセイ」と読む場合は、辞書には5つほど意味が書かれています。その中で、この 文章で該当しそうなのは「ある時代」でしょうか? 悩むところですが、ここでは「この時代」という意味で理解しておきたいと思います。    「儀表」は「手本。模範。」です。「極位」は、この上ないところの(頂点) の段位という解釈でよいでしょう。
   例によって、簡単に言ってみましょう。「貴方(あなた)は、かるた道を 切りひらいて、この時代の模範です。その功績は現代に比類ありません。そういうわけですので、 十段の最高位に推薦します。」ということでしょうか。


 ずいぶんと間違えがあるとは思いますが、正解を知っている方に教えていただければ幸甚に 存じます。


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  参考  :  段位基準の変遷

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Hitoshi Takano
Sep/2014