愛国百人一首

橘諸兄

降る雪の白髪までに大君に
   仕へまつれば貴くもあるか


<愛国百人一首における決まり字>
フル(2字決まり)
<愛国百人一首における同音の数>
フ音3枚中の1
<歌意・鑑賞>
 「白髪」は「しろかみ」と読む。
 目の前に降る雪の如き白髪になる現在まで、大君にお仕え申し上げれば、まことに尊いことで あります。
 天平18年の正月に積雪があった。その時に元正太上天皇の御在所に官人たちが掃雪のために 集まった時の歌である。諸兄63歳、太上天皇は66歳であった。
<コメント>
 橘諸兄は、美努王の子で最初は葛城王と名乗っていたが、母親の姓である橘を姓として 名乗り、橘諸兄となった。
 母は、橘三千代というよりは、県犬養三千代といったほうが歴史上の通りはよいかも しれない。美努王が太宰帥として赴任したあと藤原不比等の妻となり、聖武天皇の皇后 となった光明子を産む。
 疱瘡の流行により藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)をはじめとした諸公卿の 死亡のあとを受け、右大臣となり、朝廷の中で重き地位をになった。その後左大臣となる が、藤原仲麻呂の台頭により、756年には引退し、翌年薨去する。
 奈良時代の政争史の中でも有名な橘奈良麻呂の変は、諸兄が亡くなったその年に、 仲麻呂政権に危機感をいだいた諸兄の息子の奈良麻呂が起こしたもので、獄死して いる。
 父親の処世術を子は学べなかったようである。
 藤原仲麻呂は叔母である光明皇后の信任をバックアップに奈良の政界において、一つの 時代をつくるのであるが、最後は、道鏡排除を企てて、恵美押勝(仲麻呂)の乱を起こし 悲劇的最後をとげる。
 歴史に「もしも」は禁物であるが、疱瘡の流行がなければ、諸兄の政界進出もなく、 奈良時代はまた異なる様相を呈していたことであろう。
 諸兄、奈良麻呂親子にとっては、それのほうが幸せな人生であったかもしれない。

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2008年5月26日  HITOSHI TAKANO