"Breakthrough"考 "番外編"
"Breakthrough"考(番外) -腑に落とす-
Hitoshi Takano Jan/2016
テーマ:技術・理論を自分のものとするために
"Breakthrough"について、いろいろ書いてみたが、何か書き足りない部分があるのではないかと感じていた。
たぶん、一つではないのかもしれないが、とりあえず番外編として思い浮かぶことを書きたいと思う。
再び、お付き合いいただきたい。
サブタイトルは「腑に落とす」である。通常は「腑に落ちた」と記述されることが多いだろう。
ただ、「腑に落ちた」というと受動的というか結果論的というか、本人の意思が感じられない表現なので、
あえて「腑に落とす」と自らが意図した行為として強調したのである。
「腑に落ちる」を辞書で引いてみよう。
岩波国語辞典では「腑」(ふ)の項に出てくる。
�,呂蕕錣拭4痢覆�も)・胃・腸など。�⊃瓦里修魁�しんそこ。「腑におちない」(納得できない)「肺腑をえぐる」「腑甲斐無(ふがい)ない」
例文が否定形であるところが面白い。世の中では「納得できない」の意味で「腑に落ちない」と否定形で使われることのほうが多いのだろう。
だからといって「腑に落ちる」という肯定形が使われないわけではない。「納得がいった」こと、「しんそこ、『ああ、そうか』と思った」ことなど、
「腑に落ちた」とか「それで、腑に落ちました」とか使われる用例もあるのである。
「腑に落とす」とは、半信半疑で無理やり納得することでは決してない。理解しようとする能動的な行動や思考のすえに、「なるほど、そういうことか」と
合点がいったことを「腑に落とす」と表現しているのである。
さて、ここからが本題だが、この「腑に落とす」行為は、技術や理論を自分のものとするための"Breakthrough"なのである。
競技かるたの技術や理論は、それこそ様々ある。初心者はもちろん、それなりの選手でも、新しい技術を習得することや、他人の理論から学ぶことは多いのである。
この時、技術を形だけ学んで、その技ができるようになったとしても、理論を取り入れて表面上その理論で競技をしたとしても、それだけでは、その技術や理論は
自分のものになったとはいえないのである。
この段階では、その技術・理論は、まだ借り物の技術・理論なのである。言葉は悪いが「借り物」は所詮「借り物」なのである。薄っぺらいし、自分の骨肉には、
まだなっていないのである。そういう技術や理論は、いざというときにいわゆる「化けの皮がはがれる」ことがあるし、
「裏切る」ことがあるのである。
このような他者から学んだ技術・理論を自分の技術・理論への昇華させるための"Breakthrough"が「腑に落とす」ことなのである。
「なるほど、そうだったのか」と「腑に落ちた」ら、その技術や理論は、はじめて自分のものとなったのである。
「腑に落ちた」とすれば、その技術・理論は借り物ではなく自分のものである。自分の技術・理論は、「腑に落ちた」という感覚と経験が厚みとなり、骨肉となる。
一度、骨肉となれば「化けの皮がはがれる」こともない。もし、はがれるとすればそれは自分自身の実力の皮がはがれるのである。
さきほど借り物であるがゆえに「裏切る」ことがあると書いた。しかし、一度自分自身のものとなった技術・理論も、現象上は裏切られたようにみえることも
起こりうる。しかし、自分自身のものとなった技術・理論は、自分を裏切るものではない。事象的にはそのようにみえても、次へつながる思考や工夫の糧となって
進化への鍵なのである。
競技かるたの技術も理論も、けっして一つではない、実に多種多様である。これらを必要に応じて身につけていくことは、競技者にとって実力向上のために大事なことである。
だからこそ、借り物でとどめてはならず、自分の骨肉にしなければならない。そのための"Breakthrough"が「腑に落とす」ことなのである。
新しい技術や理論に出会ってそれを自分のものにしたければ、ぜひ「腑に落とす」ことを意識してもらいたい。
"Breakthrough"考の”INDEX”
(参考) 競技かるたにおける"守破離"
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