競技かるたにおける”守破離”

Hitoshi Takano Dec/2008

第1節 「守破離」とは

 「守破離」という言葉がある。芸道や武道などでは良く使われる言葉 である。「守破離」で一単語というよりは、「守」と「破」と「離」の 三つの言葉の集合体である。

 芸道や武道を学ぶ時、初心者は、まずどうするか。

 まずは、芸の道に入ったばかりの入門者は師匠の教えるとおりを真似 る。型を学ぶのである。この型を学び、その型とおりに行う状態が、 「守」の状態である。
 師匠と入門者には、大きな差があるので師匠のとおりとはいかないだ ろうが、それでも、その流派の型を学び、体で覚える段階と言ってもよ いだろう。

 この段階を経ると、当然初心者・初級者ではなくなっている。体に染 み付いた型に、自分なりに疑問をもったり、自分なりの工夫を入れたく なる。そして、実際に工夫を入れてみる段階が「破」の段階である。 試行錯誤の段階といってもよいだろう。
 師匠に問いかけて、「自分で考えてみろ」・「自分で工夫してみろ」 と言われるようならよいのであるが、ここで、師匠の許しを得られない こともあるだろう。なかなかに微妙な時期である。師匠の許しを得ない まま、「破」に走ると最悪のケースは「破門」になってしまうことも あるかもしれない。しかし、「破」の段階を経ないことには、次の「離」 には達し得ない。

 そして、最終段階は「離」である。「守」で身についた基礎、そして、 「破」で行った工夫を経て、さらに自分なりの芸の創造に達しえた時、 それが「離」である。師匠から独立を許される時、今までの流派から、 新流派を起こす時、これが「離」の時である。

 こうして、「守」・「破」・「離」を繰り返して、芸道や武道は、 進歩してきたといえる。

 もちろん、芸道や武道などの種類によって、「守破離」のあり方な ども異なるであろうが、基本的には上記の説明でご理解いただけると 思う。

第2節 「守破離」の事例

 「守破離」に関して思うのは、個人レベル、流派レベルから、その 道自体に及ぶレベルまで、多様な「守破離」があるように思える。
 今、これを大きく感じるのは、今年の8月の北京五輪などがきっかけ になっているが、柔道界である。いわゆる柔術と呼ばれていた武芸が、 嘉納治五郎の講道館柔道の設立にいたった歴史なども、まさに「守破離」 の流れであったろうが、その後の国際化というのも競技自体が、大きな 「守」・「破」・「離」の流れの中で変化してきたといえるのではな いか。北京五輪男子柔道100kg超級の石井慧選手が、「柔道」ではなく 「JUDO」を戦っているというようなことを言っているが、この国際 スポーツとしての「JUDO」が柔道からの「離」の姿ではないだろうか。 では、「破」の時期はといえば、国際普及の時点から東京五輪での五輪 種目化にいたる流れの中に様々な「破」があったといえるだろう。さ らには、国際試合での青い柔道着の登場、五輪からの無差別級の廃止 など、多くの「破」が行われ、日本柔道界がこだわった部分が国際 スポーツ化の並みの中で変化せざるをえなかったことなども、「柔道」 から「JUDO」への「離」を示しているのであろう。

 マインドスポーツと言われる、囲碁や将棋には、いわゆる「定石」・ 「定跡」と言われるものがある。この定石(跡)を学ぶのは、「守」 である。そして、競技者は、この定石(跡)に工夫を始める。この 工夫は、多くの対局の中でその有効性を検証されることになり、有効 と棋士たちが判断し対局で多く使われると定石(跡)の変化形として 認知されるようになる。この状態が「破」である。そして、「名人に 定石(跡)なし」という言葉があるが、名人級の棋士は、定石(跡) にとらわれない打ち方・指し方をする。これは、すでに「離」である。 そして、この名人の打ち方・指し方が、後に「定石(跡)」と呼ばれ るようにもなる。「離」が新しい「守」を生むのである。
 「守破離」は、繰り返されるサイクルの一単位でもあるわけである。

第3節 競技かるたにおける「守破離」

 さて、前置きがやたら長くなってしまったが、この「守破離」が、 競技かるたの世界では、どのように行われているのであろうか。 これが、本稿のテーマである。

 競技かるたの場合も、「守破離」についての考え方は上記で示した 他の芸道などとの違いはない。ただ、「守」についていえば、芸道な どで「型」というものが厳然とあるわけではない。

(1)守

 「守」の初期における事項のひとつに、定位置の策定がある。しかし、 これも、師匠の定位置を受け継げというような指導は少なく、基本的 な考え方を示し、自分で選択させることが多い。定位置などは、「型」 をつくろうと思えば、いくらでもできそうだが、指導者の多くのこの とおりにしなければならないというような指導をとらない。しかし、 ここでいう基本的考え方というものは、「守」の時期を代表させる ものかもしれないし、「所属会」の特徴や、教える人の個性が反映 される部分であろう。また、「守」の初期においては、「構え」・ 「払い」といった部分での指導がある。これも、所属会によって、 特徴がないわけではないが、身長やリーチの違い、体の硬軟の違いなど 個々人の肉体的特徴によってかわるものなので、基本的な考え方は あっても、そのとおりの型にしなければならないというものはなく、 個人の身体的特徴を生かして、基本的な考え方が実践できればよい という指導になる。
 この入門時から初心者指導の部分で大きな要素をしめる事項にお いて、「守」の部分は、考え方というような抽象的な部分によるも のが大きく、いわゆる「型」的な具体的な形を真似る部分において は、すでに「破」の要素が含まれている。これが、競技かるたの「守」 の特徴であるだろう。
 定位置、構え、払いなどの次には、実戦練習が来る。この実戦練習 においても、「とも札は攻めろ」「敵陣の札を取れ」というような 考え方や、送り札をどう選ぶかといった考え方が指導される。この 戦略的な考え方も「守」の部分ではあるが、特に初心者の場合、攻め る前に自陣の札の決まり字が聞こえてしまったというようなケース があり、それで出札が取れてしまったりもする。相手より早く自陣 の札を絶無にするのが競技のミッションであるわけだから、理念は ともかく現実としては、競技のミッションを果たす行為であることは 間違いない。
 ここでは、意識せずに「破」が行われてしまっているわけだ。もち ろん、初心者時代は、自陣の札に感じたとしても、敵陣のとも札を攻 めにいく癖をつけるのだという指導もあるが、この音に対する「感じ」 の早さ・遅さも個人差が大きく、指導者よりも音に対する「感じ」が 素で早いということもないとはいえないのがこの競技なのである。
 この競技の「守」の特徴は、「考え方」「理念」にありということ をご理解していただけたであろうか。したがって、「守」の時代の中 にあっても、実戦の部分においては「破」を実践してしまっているの である。

(2)破

 それでは、競技かるたにおける「破」の段階は何かというと、実戦 の中で実践してきた「破」を自分の技術として定着させるという段階 であるといえる。
 「破」の中の「守」であるともいえよう。
 意図的な「破」もあれば、無意識に出てしまった「破」もあるが、 これを何度も何度も実戦の中で繰り返し、自分自身の持ち味、自分自身 の技術にまで高めていく行為は、まさに自分の型をつくる行為であり、 普通の競技であれば、「守」の中で学ぶ「型」を、「破」の中で学ぶ ことに他ならない。
 そして、「破」の中で大事なのは、「守」で学んだ競技の戦略や戦術 に関わる考え方、それは「攻守のバランス」であったり、「送り札の 考え方」も含まれるが、こうした先人の考え方を自分の技術を基盤とし て、再構築することである。
 競技かるたにおける「破」の特徴を理解いただけたであろうか。

(3)離

 最後が「離」であるが、「破」において、考え方を自分なりに再構築 する時点で、「離」の要素がでているように思うが、さきほど「破」で 説明した先人の考えを自分の技術を基盤として戦略・戦術として再構築 するところをさらに発展させるのが「離」であると考えられる。
 すなわち、今度は、再構築した戦略・戦術を元に自分の技術をその実践 のために実戦のうちで確立し、高めていき、自分独自のかるたの競技観を 形成していくというのが「離」である。

(4)「守破離」のサイクル

 「離」のあとは、理念と実践のスパイラルをより高いところに向けて 描いていくのである。
 しかし、ある年齢までは高みに向かっていけるかもしれないが、いづ れは年齢とともに肉体も衰えてくる。そうすると、今までできていた 理念の実践ができなくなる。こうなると競技観自体を考えなおさなけれ ばならなくなる。
 ここで、過去の自分とのギャップに耐えられなくなると、現役選手と しての自分からの「離」ということになる。「引退」である。引退して も、競技と関わっていくならば、まだ完全な「離」ではない。しかし、 中には、競技かるた界自体から離れてしまうものもいる。
 そのような「離」ではなく、後進への指導の中で、後進の新たな「守破 離」のサイクルを実現すべく関わってほしいものである。

第4節 最後に

 競技かるた自体も、戦後の使用札の古典仮名遣い・新仮名遣い問題や タイトル戦設置などの「破」を経て、現在にいたっている。団体戦の 隆盛などを見ると、今でも「破」の段階にあるように思う。そして、昨今 の漫画化や、TVドラマ化の波、さらには、国際普及の萌芽をみると、そろ そろ「離」の時代の到来を予感させる。
 「競技かるた」から「Mind Sports "KARUTA"」になる日もそう遠くは ないのかもしれない。


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