札を動かしたい衝動に襲われる時

The forbidden fruit (4)

Jul/2009 Hitoshi.Takano


 今までは、"The forbidden fruit"は、手紙シリーズの中でのリンク先という形で 書いてきたが、今回は、独立作品とした。
 読んでほしいような、読まれると恥ずかしいような、そんな気持ちがないまぜに なっているからである。
 しかしながら、ここに書いたのは自分自身の体験である。体験は、その人その人 の固有のものである。読んだ人が、その人自身の体験につなげていってくれれば 幸甚に思う。
 競技かるたを取っていると、札を動かしたい衝動に襲われる時がある。
 もし、こういう経験をしていないのであれば、それは幸いなことである。
 ここでいう、札の移動は常日頃の自分のうちにある基準に則った移動のこと ではない。本当に「衝動にかられて」ということである。
 自分の中にある基準とは、例をあげていえば、下段の札がなくなった場合は 中段の札を下段に、上段の札を中段にそれぞれ下げるとか、一字に決まった札は 下段に下げるとか、左右のバランスを重視するために調整するとか、必ず、右下段 と左下段には1枚は札を置くとか、そういう類の移動の自分なりの基準のことを いっている。
 そうでない札の移動とは、ふとした思いつきであったり、苦肉の策であったり、 内から湧き上がる衝動によるものであったりする。
 だいたい、勝っている時、リードしている時には、この衝動は出てこないもので ある。おおむね、大差をつけられ、札が取れないと感じるとこうした衝動が湧いて くるのである。「なんとかしないといけない」「なんとかしたい」という思いが、 札を動かすという方向で心を支配してしまうのである。
 別に札を動かさなくとも、「暗記を入れなおす」という行為でも、自分自身に 「掛声をかける」という行為であってもいいはずなのに、なぜか札を動かすという 行為に気持ちが向かってしまうのである。
 序盤からの大差をつけられた場合についての事例は、次のリンク先を参照して いただこう。

序盤で大差をつけられたら


 ここでも述べているのは、決して衝動に従えということではなく、衝動に飲み込 まれずに根気よくということを述べている。
 序盤で大差をつけられるばかりではない、競った展開の中でも中盤で急に、 ぱったりと取れなくなって差を広げられてしまうケースや、相手が終盤に入る直前に 差を一気に広げられてしまうケースもある。
 このような事例については、次のリンクを参照していただこう。

物真似厳禁(歌留多攷格付録より)


 ここでいう、「ヤマネコ」と「伝統芸能」は、札を動かして行うケースであり、 苦肉の策である。わずかでも成功体験などがあると二匹目、三匹目のどじょうを 狙って、衝動が湧き上がってくるのである。

 「伝統芸能」との絡みでいえば次のリンクも参照していだこう。

上段論


 私も、過去には衝動に負けたことが多々ある。衝動に負けても、成功して逆転勝ち などを収めればまだいい。失敗すると、通常以上に落ち込むのであった。
 そこには、正統派の対策ではなく異端の対策であるという思いがあり、これをやって よかったのかどうかと、心の片隅に後悔の念を持つからである。

 衝動のままに、前後を省みず札を動かすのは、良い方策とはいえない。そこには 道理が必要である。その道理は、自分で経験して、発見するしかない。
 経験の浅いうちに、「衝動にかられたら」、実際にやってみればよい。数少ない 成功体験も、数多い失敗体験も、経験の浅いうちであれば、何も失うものはなく、 貴重な経験となる。
 経験は財産である。プレーヤーとしての血肉になる。道理も見つかるかもしれない。

 私自身は、伝統芸能と呼ぶ上段への札の移動で短い期間に二つの勝利を収めた。 練習時の勝利であったが、この二つの勝利は、実に大きな意味をもっていた。しかし、 二匹目のどじょうは、そうそういるものではなく、その後、失敗を重ねる。
 この失敗の経験でわかったことがあった。札を一度に何枚も動かすのは、暗記に 問題が生じ、不利であることを身体で理解したことがそのひとつである。暗記が 混乱するのは、自分自身も相手にとっても同様である。自分で札の移動先を決めて いるのだから、相手よりも混乱が少ないのではないかと思うかもしれないが、実は そんなことはなかった。これは、結構な枚差がついて負けている状況で行うので、 結局、相手は狙いを絞ってくればよいので、札を多く持っている自分のほうが混乱 の度合いが大きいことによるのであろう。
 もうひとつは、視界に札が入っていると暗記だけの時よりも手が出やすいという ことである。暗記だけで視界に札が入っていないと、札を取りに行くものの、自然と 目もついていき、目で確認して払っている傾向があるので、瞬時、躊躇することが ある。しかし、あらかじめ、視界に札が入っているとその目で確認する作業が すでに行われているため躊躇せず取りにいけるのである。また、視界に入って いることで、通常の暗記の中で、より強く記憶に刷り込まれるということである。
 この2点を認識したことにより、差がつき始めてから札を動かすのではなく、 はじめから定位置として上段を利用してしまおうという発想に変わっていった。  札の移動は極力少なく、自陣での移動ではなく、いったん送った札が戻って 来た時に前の場所と違うところに置くようにすることで、実質的移動とする ように考えた。札を送って送り返されたたら、そこは送り札・送られ札の暗記の 入れ直しで、強く意識されるので、抜けやミスの可能性は低く抑えられるからだ。
 さらに、来るべき事態に備えて、上段に定位置を持つ札が増加することになった。 今まで、差をつけられると札の移動で数枚一緒に上段に上げていた札のグループを 上段定位置としたのだ。
 本来は、来るべき事態=それなりに差をつけられる状態=を想定せず、そうは ならないように差をつけるように努力し、実行できる力を身につけるのが正論なの だが、世の中、正論のとおりになるとは限らない。やむをえない状況に対して、 転ばぬ先の杖を用意することにしたのである。
 どうも、自分のかるたスタイルを分析すると、先行逃切りタイプではない。 序盤はぼちぼちで、中盤のねじり合いで頑張るタイプなのだ。そして終盤は 差があっても、相手の守りの堅陣に苦戦するタイプなのである。
 これを考えると、ある程度、中盤の後半から終盤にかけての対策を初形である 定位置に反映させたほうがよいという結論が導き出されたのである。

 初形である定位置に中盤から終盤にかけての不利な状況を想定した対策を盛り 込むなどというのは、正統派の考えることではないだろうが、そうであるからこそ "The forbidden fruit"なのである。

 さきに、負け初めての札の移動による対策を、正統派に対して異端の対策という 書き方をしたが、この初形からの対策は、正統ではないものの変則的対応という程度 のもので、自分のスタイルとして確立させた今では、悔やむ対象ではなく納得の産物 と考えている。

 最後にまとめよう。自己の経験から練り上げた作戦や技術は、己の血肉となる。 したがって、札の移動の衝動にかられたら、恐れずに衝動にしたがってみればよい。 その結果としての失敗・成功を体と心に刻みつけて、自分なりの技術・スタイルを 確立させていってほしい。

失敗を恐れるな!
失敗から学び取れ!



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