上段論

〜主に中央部の利用について〜

Hitoshi Takano Oct/2007

★ A digest in English ★

(1)はじめに

 そもそも、上段論を書こうというきっかけは、最近の練習でのできごとにある。

 ひとつは、大学2年生の後輩の「浮き札」という一言である。上段の中央の札をこう表現されたことに自分自身が違和感を持ったことによる。たしかにこのように「浮き札」と呼ぶケースや人々がいることは知っているが、自分自身は、浮かせているつもりはなく、そこが定位置であり、そこに置くポリシーがあるので、「浮き札」と呼ばれることに釈然としないのである。
 個人的には、「浮き札」という表現は源氏物語の「夢の浮橋」などのイメージに通じ、ネーミングセンスとしては、かるた会らしくて好きであるが、自分の定位置としての上段の置き方には馴染まないと思っている。
 すなわち、私にとって「浮き札」という表現は、定位置の札が多くなって、緊急避難的に通常定位置でない上段の中央部にしかたなく札を置いたケースに用いる表現という認識なのである。
 そこで、この「浮き札」ではない上段の中央部の札のあり方を語ってみようと思ったのだ。
 そして、もうひとつは、高校3年間のキャリアを持つ大学1年生から、「何故、上段にたくさん札を置くのか」という質問を受けたことによる。ちなみに質問をした選手は、上段(中央)でA級にあがったと自負しているが、現在は上段(中央)を封印して取っている。そこには、試行錯誤によるイノベーションが見て取れる。自分のかるたの再構築をはかっているのだろう。
 「何故」と問われ、真意を測りかねた私は、「そこでなければ取れないから…」というやや曖昧な回答をした。事実ではあるが、それでは、相手の質問の意図とは異なる。それは、そのあとの「上段でA級にあがった」というコメントを聞いたことで気づいた。2回対戦したが、2回とも自陣の上段の中央には札を置いていなかったからである。
 そのときも、自分の考えを率直に述べたが、充分に語り切れていない、説明不足があったとの思いが残り、どうも気になってしまった。そこで、もう一度、自分なりに上段を論じてみようという気になったのである。

 ここでは、自陣の上段の両サイドから3〜4枚分くらいを除いた中央部約8〜10枚分くらいのスペースに札を置き、札を取ることの意味を中心に論じてみたいと思う。

(2)検証:定位置としての上段中央部

 定位置としての上段の配置については、先人の理論をまず参考としたい。
 東京吉野会の夏目延雄氏は、その著書の中で自身の上段の定位置は40枚あることを記されている。これは、確率論で毎回平均10枚を上段に置くということになる。(ちなみに私は42枚を上段の定位置としている。)
 1971年に虹有社から刊行されている「百人一首の取り方」で、同氏は次のように述べている。

 「上段は殊更に札をつけてならべずに、一定の間をおいて配列します。」
(中略)

 「又上段に札を少なく列べ勝ちですが、之は消極的戦法であって実戦におきまして非常に損なならべ方と言わなければなりません。即ち競技かるたには守勢に傾むくことは禁物であって、七三程度攻勢をとってこそ、初めて敵の札を自分の札と同じように、とれるものなのです。此の理由は簡単であって、上段に多く札をおくことに依って積極的攻勢に移れるものなのです。そして此の陣形は敵方としては守勢に余儀なくならざるを得なくなって、従って自分の中段とか下段は、敵としてはとりにくくなるものなのであります。ですから、十二分に攻め立てても楽に自己の陣営は守れるものであります。」

 まずは、この上記の説について考えてみたい。

 第1点として、上段に札を多く置くことで、敵陣を積極的に取る姿勢につながるのであろうか?
 実は、私が競技かるたを始めたばかりの頃、定位置をあれこれ考えている中で、敵陣に対する積極性の観点から上段に札を置くというのも一つの方法だということを言っていた先輩がいた。 初心者が何も教わらないとすれば、自分で自由に配置できる自陣の札のほうが敵陣の札よりも取れる(取りやすい)というのは、自然なのことなのではないだろうか。
 この意味においては、自陣の上段にたくさん札を置いたとしても、何も教わらなければ自陣の札が覚えやすく取りやすいという状況は同じに思える。しかし、「上段に札をたくさん置くことが敵陣を積極的に攻める姿勢につながる」ということを指導者なり、先輩が言うことでそこに「言霊」のしばりが働く。上段に札を多く置くことは「積極的に敵陣を攻める姿勢」の象徴なのだ。初心者は、自陣の陣形を見るたびに、敵陣を取ることの大切さを思い返すことになり、次第に無意識に敵陣を攻めるようになっていくのである。
 もちろん、これは、成功事例としてなら、そうなるだろうという話である。
 しかし、競技かるたの普及のスピードと交流地域の拡大は、このような配置による象徴性の利用の必要度を低減させたといっていいのではないだろうか。
 福井渚会、大阪暁会などを中心とした強烈な攻めを核としたかるたは、配置を超越して全国にその思想と精神を普及したといってよいだろう。また、それは、昭和末期から平成にかけての東京大学かるた会の興隆の中でも実証されていると思う。
 現在につながる昭和60年代の東京大学かるた会の草創期において、ひびきの良さをもっていた選手たちには、個性的な取りも目立ったが、あまりひびきの良くない選手たちを強くしていったのは、徹底的な攻めの姿勢であり、その教えであった。
 ひびきの良さを持つ選手は、ひびきが速すぎることでのお手つきがなければ、ひびきの遅い選手に比べて、先に芽を出し、実績をつくる。ひびきの遅い選手は、そこでひびきの速い選手との差を自分なりに感じる。そこで、考えるのは、同様にひびきを速くするか、それ以外のものを磨くかのどちらかである。ひびきがそんなに簡単に速くなる方法論がなければ、答えはひとつである。試行錯誤という遠回りよりも、先輩が体験的に学んできている教えという方法論を採るほうが近道という合理性が、先輩からの「徹底的に攻めろ。特に相手の右下段を攻めろ。」という教えを選択させる。さらに、受験勉強で自身が体験的に知っている「努力は裏切らない」という思想の実践が、この教えを体現させる。(努力を継続することができるというのも大いなる才能である。)
 こうして職域学生かるた大会でのA級優勝を重ねるチームができあがった。
 「強烈な攻め」「徹底的な攻め」をする会では、初心者は攻めを学ばないと初心者の生半可な守りでは試合にならない。そこで自然と初心者にも攻めが身につくという循環ができる。
 これらの事例に見るように、夏目氏の本が刊行された昭和40年代とでは、「攻め」の普及度には差があるように思われる。昭和40年代には、指導において「上段に札を多く置くのは攻めの姿勢」という象徴が必要とされていたかもしれないが、現在の職域学生かるた大会などを見ていると、上段の札の置き方は関係なく「敵陣を攻める」思想が普及しているように思われる。また、象徴を必要としないほど「攻め」がかるた界を席巻し、理論として確立しているように思うのである。
 かように考えると、現代における上段は、昭和40年代の「攻めの姿勢の象徴」としてのものとは違う意味を持ってきていると言わなければならないだろう。

 そこで第2点として考えてみたいのが、夏目氏の言うところの上段にたくさん札を置くことで敵が守勢にならざるをえなくなって、こちらの陣の中段・下段が取りにくくなるのかという点である。
 平成10年代も終わろうとしている現代、明日のかるた界を担う若者たちがしのぎを削る職域学生大会のA級の試合をご覧あれ。敵陣の上段が多かろうが少なかろうが、下段への攻めの勢いは衰えることを知らない。右下段を中心とした強烈な攻めは、敵陣の陣形などはおかまいなしである。これは、札がどこに多い少ないというよりも、かるたの組立自体が、敵陣の右下段の攻めを機軸としてできあがっているからであろう。その攻めのリズムで、他の場所の札の攻めに移行し、自陣への戻りなどへの対応ができているのである。
 平成の「攻めがるた」は、敵陣の陣形などに影響を受けないほどに強固なものになりつつあるのである。

 夏目氏は前掲書において、次のようにも記している。「一足飛びに理想的の配列法を望んでも、其の人個人の体質・体格・発音に対する感受性の強弱、方向によるとる手の速力を考慮してからでないと、完全な配列法を身につけることは出来ないので、上の句ならべを基準として漸次改善してゆくべきものであります。」また、「要するに完全な配列は、自己の撓まざる修練の結晶の結果に外なりません(以下略)」とも書いている。

 これは、もっともなことであり、現代でも変わることがない指摘である。そして、あえて加えるならば、先に見たように、その時代時代のかるた界の状況も、定位置の改善のための一つの要素なのではないだろうか。

(3)上段中央部の現代かるたに於ける意味

 では、現代において、上段中央部を置くことにどういう意味があるのであろうか?

 一つには、かるたの幅を拡げる効果であるだろう。相手に対しては、左右を中心とした攻めのほかにもう一つの攻めの場所を提供する。右下段を機軸とした攻めで他の場所が出たときのリズムの中に、上段中央というポイントを増加させなければならないということである。
 そしてもう一つは、ここの取りは、左右の札に対する払いとは異なる取り方を相手に考えさせるということである。
 それは、突きの技術であったり、他所を攻めてから上段を取る時の引きの技術であったり、押さえ手であったり、あるいはレンジの短い払い手であったり、臨機応変に対応しなければならないからである。
 右下段の攻めを中心に組み立てていても、ここの取りに慣れていなければ勝手が違う。
 この攻めのポイントの増加と相手が場合によると上段の取りに習熟していないかもしれないという2点においてメリットがあるといえる。
 ただし、第2のポイントについては、自分が普段から上段中央部を定位置として同所の札の取りに習熟しているという大前提が必要である。そして、相手が同所の取りに習熟していればそれほどのメリットではない。
 左利きの選手と取ると面食らう感覚に似ている程度のことだろう。

 昨今、試合を見ていて興味を感じたケースとしては、双方ともに相手陣の右側の札の攻め合い・取り合いをしているが、自陣の左側は取らせないというものがあった。強烈な攻め合いの試合の中では、相手の攻めに屈しない場所もしくは札の存在の重要性である。
 「攻めがるた」の指導においては、「敵陣を全部攻めて、お手つきもせずに取ることを仮定すると札の出る順番という偶然性で勝敗が左右されることになってしまいませんか?」という質問によく出会う。
 これについては、一つには「送り」の選択の技術で先に出る札を送るのだから、札の出の順ではなく送りの技術によって勝敗が左右されるので単なる偶然性ではないのだという回答があるが、確率論でいえば、どの札もその時点では読まれる確率は同じなので、偶然性によるという指摘に対しての正しい回答とはいえないだろう。
 もうひとつは、偶然性によらないために自陣の内、一カ所は相手の攻めを凌いで守る所をつくるという回答である。
 相手陣は出たら取る。自陣は一カ所は相手に取らせない。そうすれば偶然性に左右されたということにはならないという理屈である。

 この理屈において、自陣の上段中央部で守るという選択も出てくる。相手は右下段から来ている。右下段に攻めに来ている相手に対して、自陣の中央部なら守れるということになれば、考えられる方法である。
 しかし、これははたして本当に効果的な方法なのだろうか?
 夏目氏は言う。「其の人個人の体質・体格・発音に対する感受性の強弱、方向によるとる手の速力を考慮してからでないと、完全な配列法を身につけることは出来ない。」
 次節では、この個人の持つ特性をふまえて、上段の中央部の活用について評価してみたい。

(4)かるたのスタイルによる上段中央部の活用評価

 ひびきの良い選手が、上段中央部に札を置くことは、相手の攻めのポイントを多くさせるということにおいてのメリットと、その自陣の上段中央部の札をひびきの良さで取るという利点を併せ持つといえよう。上段中央部は手をまっすぐ出せば短い距離で取れる場所であり、「ひびき」派には、そのひびきの良さを活用できる置き場所なのである。
 また、「ひびき」派が、敵陣の札へ先にひびいたとして、違っていればスッと引きかえせる場所であるし、敵下段から自陣下段に戻るより、距離的に短いという利点もある。
 難としては、「聞き分け」と「撓め」ができないとお手つきの危険性をはらむという点である。

 ひびきの良くない選手は、どうであろうか?
 相手の攻めのポイントをふやすという効果はあるとして、上段中央部における札を取るテクニックを磨くことで、昨今の右下段抜き合いに慣れてしまい、上段中央部の取りに不慣れな相手より技術で上回るということになろうか。
 ただし、現代の右下段への強烈な攻めを中心とする考え方の中で、ひびきの良くない選手が相手陣の右下段を抜きにいった場合、札が違って自陣に戻る際、上段中央は戻るのに便利な場所ではない。むしろ、ひびきが遅いことで、決まりが聞こえてしまって上段中央の札に手が自然に伸びるというようなケースでの絶妙な取り体験が多いのではないだろうか。
 これは、傍目には上段中央で守っているように映る。現代の攻めを中心としたかるたからは、異質な守り中心のかるたと見られてしまうのである。
 ひびきの遅い選手が上段中央使いをすると、そこでの守りにシフトしてしまい、ひびきが遅いがゆえにより一層必死に敵陣を攻めなければならないにも関わらず、その手が鈍くなりがちになるというリスクも背負うのである。

 今、新人に定位置を指導するとしたら、上段中央部の活用はその段階では助言しないだろう。なぜなら、現代かるたの急所である敵陣への攻めという意味での「払い」のスピードをこそ、最初に基礎として徹底的に教えることが優先順位として高いからである。
 野球の投手にたとえれば、直球のスピードを最大限に上げることの訓練だからである。次に直球のコントロールをつけることとして、敵陣への攻めにおいても、スピードとともに出札への最短距離をとる払いのマスターを目指す。
 変化球を覚えるのは、これらの訓練の次のステップである。上段中央部の取りのテクニックを学ぶのは、直球のスピードとコントロールを鍛えたあとでよいのである。
 最初は左右にわけた定位置で、基礎を鍛え、そして、スピードの限界を感じたり、試合展開の中での作戦組立の試行錯誤が必要になった時に、試してみればよいのである。そうして、長い年月をかけて、自分の定位置やかるたスタイルができていくのである。

(5)おわりに

 私は、右上段とともに上段中央部を活用するスタイルである。上段には時として一字決まりから六字決まりまでの六種類が並ぶこともある。
 この決まり字の長短のバラエティーで取り分けるのが楽しいというのもあるし、相手も苦労するのではないかという思いもあるからである。
 しかし、かるたは札が一枚ずつしか読まれないゲームである以上、自陣の一枚はどこで取っても一枚だし、相手にこちらの札を取られたとしても、どこで取られても一枚は一枚なのである。上段中央で守ろうが、左下段で守ろうが、左中段で取られようが右下段で取られようが、一喜一憂することはないのである。
 私自身は、そう考えることができるようになって、右下段は抜かれたくないというようなこだわりが減じた。「右下段で抜かれたら別のところで守ればいい、自陣を取られたら敵陣で取ればいい。」ということである。
 実際そう簡単に自陣を取られたから敵陣を取るというわけにはいかないが、自陣の一枚は、その札が自陣から取り除かれるだけだが、敵陣を取った一枚は、敵陣に自陣から一枚札を送れるという試合展開に自ら関与できる機会を得る一枚なのである。
 願わくば、自陣の配置が、相手陣を取る行為に益と働くものであるように。
 上段活用術はそのようにありたいものである。


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