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"競技かるた"に関する私的「かるた」論

番外編

文法論

〜「攻めカルタ」・「守りカルタ」の相違〜

Hitoshi Takano Apr/2015


 「競技かるた」を人に説明しようと思うと、比喩(たとえ)を使うことが有効なのではないかと思う。
 野球などの人口に膾炙したスポーツにたとえたりするとイメージが湧きやすい。そんな中で、ふと「攻めカルタ」と 「守りカルタ」の違いを説明するのに何を用いたらいいのかと悩み始めた。

 最初は、言語の違いにたとえるのがいいかと思った。

 特に語族も離れた言語は、単語も違えば文法も違う。

 しかし、「攻めカルタ」と「守りカルタ」の違いは、英語と日本語ほどに離れているだろうかと考えたところ、 どうもそれほどに離れてはいないような気がした。
 札を取るという行為においては、共通な言葉を使って理解しあっているように感じたからだ。共通の単語は使われて いると思うのだ。
 しかし、「攻めカルタ」と「守りカルタ」では、何かが噛み合わない。何が噛み合わないのだろうと考えていたら、 ふと、「文法」が違うのではないかと思った。

 日本語は、主語がきて、目的語があって最後に述語がくる。英語は、主語(S)+述語(V)+目的語(O)となる。 これを、共通の単語で、文法だけ変えているような意思疎通の感覚に近いのではないかと思ったのだ。

 日本語だと、「私は学校に行く。」だが、英語だと「I go to school.」である。英語をそのまま、日本語の単語 に置き換えて表現すれば、「私、行く、学校に」というようになる。
 「攻めカルタ」と「守りカルタ」の相違感は、このくらいの違和感なのではないかと感じたのだ。

 これは、現代の日本語と古典として習う漢文くらいの相違なのかもしれない。
 日本語なら、「先生は『私は15歳で学問を志した』とおっしゃった。」となるが、漢文だと「子曰吾十有五而志乎学」 となる。語順どおりに読めば「先生はおっしゃった。私は15歳で志したのだ。学問を。」というようになる。この くらいの相違感なのである。漢文の書き下し文は、日本語文法にできるだけあうように返り点などを打って読ませるので、「子いわく『吾、十有五にして学に志す』」となるので、日本語との相違感は「子いわく、○○」という表現くらいに縮まる。
 日本語に導入された漢字で示される単語をもとに見れば(白文を単語中心に語順どおりに見れば)、日本語を使っている人にはだいたいの意味は通じるが、語順は異なる。このくらいの相違が、「攻めカルタ」と「守りカルタ」の相違ではないだろうか。

 というわけで、「攻めカルタ」と「守りカルタ」の相違は文法の違いだということでたとえたいのである。

 使用例としては、「守りカルタの選手とあたってね。文法が違うから、てこずってしまったけど、何とか勝てたよ。」 というような感じになるだろう。

 現代のかるた界では、「攻めカルタ」の文法が、基本文法になっている。その共通の約束事のなかで行なわれてしまって いる試合の中で、数枚は「守りカルタ」の文法を使ってみてはどうだろうか。相手に違和感を感じさせるというのも、 勝敗の綾として有効な一手となるかもしれない。

 「私は、別れ札は相手陣を攻めます。『しかし、守ります。私、たまに、別れ札。自陣で。』その結果、私は有利に試合を 進めることができました。」

 「守りカルタ」の文法を試合途中にいれる(二重鍵括弧の部分)と、上記のような言葉の感じになるのではないかと思う。 違和感はあるが、実際の試合では、こんなことがよくおきているような気がするのである。


文法の相違への対処方法

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