道具論

Hitoshi Takano Dec/2007

 道具というのは、その競技の性格づけをするものである。
 たとえば、ラグビーが、あの楕円ボールでなかったとしたら、どうであろうか?
 どこに転がるかわからないからこそ、面白いのではないだろうか。
 野球のボールに縫い目がなかったら、変化球は今ほど多彩ではなくなりピッチングに多大の影響がでるだろう。
 飛ぶバットや飛ぶボールが規制されるのも、競技自体が大味になってしまうことを懸念しているからにほかならない。

 道具のもつ性格づけは、スポーツにとどまらない。PCが普及し、ネットで碁や将棋を楽しむことができるようになり、棋譜管理や研究にもPCが使われるご時世である。しかし、棋士の中には、PCは棋譜管理に使うものの盤と駒、盤と石で実際に並べることにこだわる方も多い。
 手に馴染んだ感覚、指先から道具を通じて伝わる感覚が、思考に結びつくからに違いない。

 さて、かるたの世界を考えてみよう。

 かるたは畳の上で、紙の札を使って競技する。そういう意味では、囲碁・将棋の盤に該当するのが、畳であろう。
 もし、この道具が違うものであったら、競技かるたはまた、現在と違うものとなったであろう。
 北海道には、木の札を使う「下の句」かるたがある。あの木の札を使って、競技かるたを行ったらどうなるだろうか?
 畳は、あっという間にすり切れ、和室のふすまや、障子は穴だらけとなろう。また、大勢が一同に介してかるたを取れば、飛んできた札によるけが人が続出しそうだ。
 下の句かるたが、正一枚突きで取るスタイルになったのは、むべなるかななのである。また、下の句かるたの場合は、両手を使ってよい。したがって、大山札を右手と左手でそれぞれ待っていてよいのである。手も道具だとすれば、競技かるたとの発展の仕方が異なったのも当然なのである。(なお、下の句かるたは、守備・中堅・攻撃の三人で一チームを編成し、源平戦スタイルでおこなう。)

 競技かるたは、今のサイズの紙の札を使用し、今の競技線の広さで、畳の上で、左右どちらかの手のみで取り続けるということで、進化してきた競技なのである。
 競技かるたの性格付けにも、道具がはたした役割が大きいのである。

 さて、その点で、一点、不満を述べさせていただきたい。それは、体育館の柔道場での試合である。現在の柔道場の畳は、柔道競技への対応から、い草の畳表ではない。ビニル製ではあるが、畳の目をきざんで、それらしくはなっているが、札との摩擦係数が高く、い草の畳表とはあきらかに札の飛び方が異なる。かするほどぎりぎりの取りなどでは札が動かず、もめのもとにもなるし、払いも意識して強く払わねばならなくなる。このことは、畳の質により競技の性格が変わる可能性を示唆している。
 札をかするかかすらないかのぎりぎりの払いや、響きの速さで軽く払ってもきれいに決まる札押しなど、選手の磨いた技芸や個性が発揮でにくくなる環境が、柔道畳なのである。

 大勢が一同に会して試合できる会場が、少ない事情はよくわかるが、柔道場でのかるたは、い草の畳表でのかるたとは、また、違うテーストになってしまうことは、是非、一考したいものだと思っている。


次の話題へ        前の話題へ
関連話題:「こだわりの品」-作ってみてわかること-

"競技かるた"に関する私的「かるた」論のINDEXへ
慶應かるた会のトップページへ
HITOSHI TAKANOのTOP PAGEへ

Mail宛先