かるたの本質論(1)

Hitoshi Takano Jan/2008

I.序

 かるたの本質論というのを一度書いてみたかった。
 かるたによらず、その競技をプレーする上で、プレーヤーとして一度は突き詰めて 考えてみるべきテーマが、その競技の「本質」であると思うからだ。この作業をして 競技にのぞむのとのぞまないのでは、ぎりぎりのところで違いがでるような気がする。
 本質を考えておくことで、自分のその時点での戦略の迷いの時など、選択の根拠と することができる。迷いは時として致命傷になる。そのリスクを軽減させておくこと にほかならない。
 とはいうものの、おそらく人により本質の突き詰め方は相当に違うと予測される。
 言っているわりに甘いという批判は甘んじて受けよう。

 狙いは、競技かるたの本質を書くことになるが、やはり、最初はもっと広くかるた としての本質というところから書き起こしたい。

(1)遊戯としてのかるた
(2)教育としてのかるた
(3)道としてのかるた
(4)競技としてのかるた

 では、この4つの側面から本質を見つめてみよう。

II-1.かるたの本質(1)〜遊戯として〜

 遊戯としてのかるたといった場合、少し、整理しておかなければならないことがある。
 「かるた」は、ポルトガル語の”Carta”によるもので、南蛮渡来のカードゲームがそもそもの語源である。これは、もともとは、我々がトランプとして慣れ親しんでいる”Playing Card”と根を同じくする。「うんすんかるた」と言われて、遊ばれるかるたは、現在のトランプ遊びの「絵札取り」・「ツー・テン・ジャック」・「ナポレオン」などと同系列の遊びである。ここでは、この系列の遊びは検討の対象外となる。
 次に所謂「花かるた」系の遊び、すなわち我々が花札として知っている遊びも、対象外となる。花合わせや、はちはち、こいこい、むしなどの遊戯は、遊び方としては、やはり和風の”Playing Card”系の遊びといえよう。これらの「花かるた」は、日本の四季を感じさせるカードゲームとしての完成度を持ちつつも、得点計算が今でも「文」で行われるように博打としての要素が色濃く残ってしまったうらみがある。江戸時代では、花かるたは博打禁止の取り締まりにあい、非合法に取り引きされるて「鼻」を指でさするのが、闇で購入するときのサインとして使われるようになった。これがもとで、「天狗」が花札の商標などで使われることが多いのである。
 また、遊び方はことなるが、「おいちょかぶ」系の遊び方は、まさに博打的要素の強い遊びである。同系統の遊びには、西洋のカジノで遊ばれる「バカラ」があることでも、ギャンブル色の強さが見て取れるだろう。「おいちょかぶ」には「花札」を使う場合もあるし、「株札」という専用札を使うこともあるが、これも広く言えば、遊戯としてのCard Gameなのである。
 そのほか、博打系の遊びでは、「道才かるた」といわれるかるた遊びもある。「これに懲りよ道才坊」とことわざ系の読み札と絵札からなるかるたであるが、これもまた、花かるたがご禁制のおりに、花かるたではないかるたを博打の道具として使うことで取り締まりの目を逃れるために普及したのではないかとも推測される。小倉百人一首は、「歌かるた」であったが、「むべやま」という博打としての遊び方が編み出されるようになったのも、博打がご法度で、博戯系かるたがご禁制の品であったがゆえの工夫であったのだろう。(なお、「むべやま」には小倉百人一首の札でなく専用札があったらしい)
 本節で、遊戯としての「かるた」を定義するときは、基本的にはトランプ系の遊戯や、花札系の遊戯、博戯としたのかるたを除き、また、小倉百人一首を使うとはいえ、「坊主めくり」などの遊び方も対象外とする。
 小倉百人一首のように読み札と取り札がペアであり、一対一の対応をしている人口に広く膾炙している「かるた取り」遊びを、いわゆる「犬棒かるた」の類を含めて、「遊戯としてのかるた」という本節の検討対象とする。

 さて、これらの遊びの原点は、いわゆる「散らし取り」と言われるスタイルであろう。ここでは、札を多く取ったものの勝ちとなることである。お手つきのルールにも家庭色・地方色があるが、お手つきの罰則を今まで取っている札から一枚出して、次に取った人にその札がいくとか、お手つきした札の下に罰則としての札を置き、当該札を取った人が、その罰則札を手にするというようなルールが多いのではないだろうか?
 これは、最終的に取った札の枚数で競うからにほかならないペナルティーの課し方である。

 数を多く取るということが、遊戯のミッションであり、数を多く取るとるためには、他のプレイヤーよりも早く取ることが、本質なのである。
 すなわち、枚数を積み重ねていく、「増加」を目標とする遊戯なのである。

 これが、源平戦のように持ち札50枚を先に無くしたほうが勝ちというルールになると、減算のゲームとなる。お手つきのペナルティーも、相手チームから一枚送られて、相手チームが一枚減り、味方チームが一枚増えるという仕組みに変わってくる。

 遊戯性を考えたときには、その遊戯の根源的快感としては、私は増えていくという快感が、減るという快感に勝ると思っている。物を貯め込む本能を刺激するように思えてならない。札を重ねて、他のプレイヤーより高かった時の嬉しさ、他のプレイヤーより枚数が多いという優越感。これは、蓄財にもつながる人間の本能に働きかけているのだと思える。

 ここで、遊戯としてのかるたの本質は、一つには「札を多く取ること」と考えることとしたい。そのためには、他のプレイヤーより相対的に早く取ることが肝要であるし、お手つきをしないことも心がけなければならない。また、お手つきのペナルティーを奪えるチャンスには、そのチャンスを最大限活かすことが大切である。

 そして、もう一つの本質は何であろうか。

 それは、「遊戯」であるということである。「遊戯」は何のために行うのか。一つには、娯楽のためであるだろう。あるいは、団欒のためであろう。団欒は、家族であったり、親族であったり、様々なコミュニティーであったりするだろう。
 また、遊戯であっても勝敗がつく。源平戦ならどちらかが勝ち、どちらかが負ける。散らし取りは、枚数が同じというケースもあろうが、順位がつく。勝つことで楽しい。枚数を多く取ることで楽しいというのはあるかもしれない。しかし、遊戯自体が娯楽であり、団欒であり、コミュニケーションの手段であり、勝利以外のところでの楽しさがあるはずである。
 このように考えると、遊戯としてのかるたの本質のもう一つは、「楽しむ」ことに違いないだろう。

 月並みな結論だが、それはそれでよいだろう。

〜〜〜 続 く 〜〜〜

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