かるたの本質論(2)

Hitoshi Takano Feb/2008

II-2.かるたの本質(2)〜教育として〜

 かるたというのは実によくできた教育用の教材だと思う。幼い子に平仮名を覚えさせる為の教材にもなれば、犬棒かるたのようにことわざを遊びながら覚えるための教材にもなる。さらに、小倉百人一首ともなれば、古典和歌を覚えるための教材になる。
 たしかにこうした側面をかるたがもつことは確かであるが、しかし、ここでは、このようなことを教育ということで言及するわけではない。
 競技かるたというかるた競技がもつ、教育としてのかるたの本質を考えてみたいのである。

 たとえば、高校野球などは、よく高校における教育の一環として行うということが言われる。学校の宣伝の道具でもなければ、商業主義に呑み込まれるようなことがあってもならないと言われる。勝利至上主義も批判の対象になることがある。
 全国の何千校が予選から始めて、その中で勝ち続けて甲子園で優勝するのは唯の一校である。一校を除いては必ず負けるのだ。
 負けることを経験するのも教育の一環だし、勝利に向かって努力することも教育の一環である。さらに、レギュラーになれる人間となれない人間がいることも厳然たる事実で、若い内にその事実を学び、自分自身をどう考えていくかも教育であろう。
 フォー・ザ・チームの精神を学ぶこと、組織の中での自分の役割を学ぶことも教育だろう。また、あたりまえのことだが、野球という競技の持つ考え方やプレーを学び、様々な工夫や身体能力の向上を考えつつ、取り組むというのも教育の要素であろう。

 このように人口に膾炙している野球という競技を教育の現場で、教育としてどうとらえるかという事例として例示したが、競技かるたにも同様の側面があることはおわかりいただけるだろう。

 高校で競技かるたの指導に長らく当たられていたある先生は、「すべては、職域・学生大会という団体戦での優勝という目標のために、日頃の練習も個人戦もあるという考え方を徹底した。個人戦で優勝し、上の級にあがるのも、段位をあげるのも、それが、団体戦で役立つからである。」と話をされていた。
 同高校で準決勝・決勝に多く残った時には、戦わずして、譲り(棄権)により勝敗を決めることも多々あった。あと1回の決勝進出もしくは準決勝進出でで上の級にあがれる過去の実績を持つ生徒に対して、この大会では優勝もしくは決勝進出でなければ上の級にあがれないという生徒に譲らせる(棄権させる)という方法である。できるだけ多くの生徒を上の級、上の段にあげていくという方法は、その高校全体としてのチーム力の強化、戦力の強化を数の面からはかるという方法にほかならなかっただろう。また、段位が高いということは、相手の高校生へも無言のプレッシャーにもなるからだろう。
 もちろん、譲らされた生徒の中には、今回こそは優勝をと考え、決勝で実際に白黒をつけたかったという選手もいたことだろう。しかし、そこを全体のためといって、譲らせるのは、その先生の持つポリシーとそれを生徒に納得させるだけの指導力が確固たるものでなければならなかっただろう。
 大学生にこれをやろうとしても、会の目的・方針を決め、日頃指導している監督なりコーチのいるような体育会系の組織であればある程度可能であろうが、サークル活動として様々な目的意識で活動に参加しているものも多い組織では相当に困難である。学生のリーダーはいても、ある意味集団指導的な活動をしているので、意見をまとめるのに苦労するのである。極端な話、競技かるたのサークルであるにも関わらず、競技かるた以外の付随する活動を主な目的として参加しているものもいるのである。
 ここでは、様々な目的意識の違いをいかに全体の満足度を高めるかのバランスをどこにとるかというための経験を積むことになる。
 さきに述べた高校での経験者の中には、大学にいったら続けたくないというものもいた。それは、高校の中での活動で疲れてしまったというケースでもあった。また、大学にはいったら、団体戦の優勝とかを目標にするのではなく、楽しくかるたを取りたいといって活動するものもいる。逆に高校のときに、チームのレギュラーになれなかった思いを大学では主力選手になろうと努力するものもいる。
 高校卒業後のかるたへの対応は、実に様々である。しかし、これも教育の一環としての活動の結果なのである。

 私自身が指導する立場で関わった中高一貫校の活動においては、団体戦にも出場したが、立ち上がったばかりの活動ということもあり、そこの顧問の先生との共通の方針として、「競技かるたを好きにさせよう」という目標で臨んだ。生徒たち自身で、TOPを目指したいと言い出すまでは、まずは、競技自体の持つ面白さや、自分自身で考え工夫を行いその工夫が成果を見た達成感という側面を重視した。TOPを目指すための団体戦のあり方を意識した指導はしなかった。
 それでも、5人1組で取る団体戦の考え方、1勝2敗で終盤接戦になったときの札のそろえ方とか、相手がこちらとほぼ同じ戦力の主将から五将であった場合の優位に立つ組み合わせのあり方とか、団体で戦うということについては説明をした。実際には、それ以前の競技スキルという部分での指導のほうが大きな課題であった。
 あいにくか、幸いか、チームも5人が精一杯だったので、補欠にまわって悔しい思いをし、次回レギュラーを目指すなどというような経験はさせられなかった。
 おそらく、学齢期においてのこうした団体戦という経験は、教育としてのかるたを考えた時、非常に効果的であろう。競技かるたという本来一対一の個人競技であるがゆえに、フォー・ザ・チームの考え方や経験を与え、チーム内での切磋琢磨、仲間でありライバルであるという複雑な人間関係を体験する機会として、貴重な性格をもつものなのである。
 もちろん、個人競技としても教育に資する側面は多い。強くなるために、うまくなるために、自分なりに競技をどうとらえ、どう工夫するか。工夫がうまく言ったときの成功体験。失敗から学ぶこと。プレッシャーとの戦い。相手とのコミュニケーション。自分のお手つきに相手が気づいていないときの、心の持ち方や精神的葛藤など。
 教育を知育・体育・徳育という3面から捉えるとすれば、そのすべての要素を競技かるたは持っているだろう。

 何より、「勝ち」と「負け」から学ぶことは大きい。

 「勝つことは自分を磨く最大の手段である。」
 「よき敗者たれ。」

 先人は、すばらしい言葉を残した。
 勝者の影には、必ず敗者がある。誰しも望んで敗者になるわけではない。敗者の痛みを知る者は、よき勝者にもなれる。それは、相手の気持ちを慮ることができるからである。

 さきほどは、教育を知育・体育・徳育といったが、教育とは、ソクラテスが助産法というように、持っているものを引き出してやるための手法・手段でもある。人にはみな学びとる力がある。それをスムースに行えるようにするのが教育である。
 人は生涯学び続ける存在である。生涯教育という言葉が使われだして久しいが、年齢に応じた教育なり、学び方がある。それは、競技かるたの世界に身を置くものにとっても同じである。
 まず、かるた競技を好きになるための教育、そして、高校や大学などの時期には団体戦を通じて、個人競技ではあるが団体で強くなることを考える教育、そして、大学卒業後の仕事をしながら競技することでの学び。人生のそれぞれのシーンでそれぞれにあったスタイルがある。
 もちろん社会人になってから競技をスタートする者には、それなりの学び方があることと思う。それも、また、ひとつのあり方であろう。

 さて、競技かるたの本質を教育としてのかるたと考えたとき、それは、「経験・体験」だと結論づけたい。

 なぜならば、人は、経験・体験から学ぶからである。「競技かるた」は、その競技を通じて、実に多くの経験を与え、実に多くのことを教えてくれる、それをどう受け止め、自分の学びとするかは、本人の問題でもある。人から教わるということも経験だし、人に教えるというのも経験である。「学び」は、経験からの気づきによって生じる。

 競技かるたの本質は、教育から考えたとき、それは多様な経験を与えるものである。経験は、より多様な方がそれだけ学びの幅も広がる。個人戦は嫌だ、団体戦は嫌だといわずに経験を積むということを大事にする時期があっていいはずだ。

 さきほどは、「経験・体験」と述べたが、実際には、「経験からの気づき・学び」が教育としての競技かるたの本質なのかもしれない。

II-3.かるたの本質(3)〜道として〜

 「かるた道」という言葉がある。これは、柔術に対しての柔道、剣術に対しての「剣道」、弓術に対しての「弓道」、相撲に対しての「相撲道」などと同じである。
 喫茶が「茶道」になり、生け花が「華道」になる。西洋生まれのスポーツであるベースボールも野球となり「野球道」になった。

 「道」とは何か。それは、精神性にほかならない。
 おそらく「道」をつけたときに、「道」をつけて語る人の中には、理想があるのだ。理想というよりも、プラトンのいうところの「イデア」のようなものを見ているのかもしれない。

 その精神性の先には、その競技・技に秀でたものは、心・技・体の充実と品格も備わっているとの考えがある。横綱朝青龍へのバッシングも、最高位にある強い競技者への理想を見て、それを要求するからである。

 「○○道」に携わるものは、求道者なのだ。

 勝敗はもちろんある競技だが、勝敗だけではない。「礼に始まり、礼に終わる」ことから、伝統に培われた所作を踏襲することもその所作の意味を知りつつ実行することが求められる。場合によっては、所作を先に覚え、あとで所作の意味を知るケースもある。形から入って、のちにその精神性を知るのである。
 強いだけでは、評価されない。強いということは、その道の精神性の具現者でなければならないのだ。

 また、「道」になることにより、強者も弱者も道を求め、志を同じくする同志としての仲間になることになる。
 ただし、実際には、競技者全員が同じ精神性などということはありえない。似通っている場合もあろう、また、異なる場合もあろう。ただ、共通なのは、「道」ということで、そこに精神性を感じていることなのである。

 柔道は、国際スポーツとしての”JUDO”になり、”JUDO”は講道館柔道とは違う競技になったと嘆く人もいる。
 しかし、そうなのだろうか?
 スポーツとして頂点を極めるために行うその精神性は、ポイントの取り方や一本に対する考え方とは別に共通する点があるのではないだろうか。

 競技かるたを「かるた道」としてとらえる時、その本質は、自身の理想に対する精神性の確立(を目指すこと)にあるように思える。

 そして、「道」であれば、現役だとか引退したとか、そのようなことを言わずに死ぬまで、その道を歩みつづけ、究めようとしつづけることができるのだと思う。

 そして、道を究めて行き着くところは、中島敦の短編小説の「名人伝」に著される名人の姿なのかもしれない。

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