かるたの本質論(3)
Hitoshi Takano Mar/2008
II.かるたの本質(4)〜競技として〜
「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者は
ひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。
しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るために
そうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。
そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はし
ない。
すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人
に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。」
唐突と思われるかもしれないが、この言葉は新約聖書の「コリント人へ第一の手紙」
という使徒パウロが記した書簡の9章24節から27節に書かれている言葉である。
約2000年前、1世紀の言葉であるが、競技の本質は、現代となんら変わることがない
と感じられることだろう。
かるたも「競技かるた」であれば、勝利を目指し、その目的のために有効な手段を
追求することが本質であることは、上記の言葉からも導かれる結論であろう。
さて、この結論を具体的なところに落とし込むのが本論の趣旨である。
ここを探ってみることとしよう。
まずは、競技規定を確認しよう。
「第1条 競技は相対せる二人の間に行い、持札各25枚とし、早く持札の絶無となりた
る者を勝者とする。」
まさに、これが本質である。すなわち、「25枚の持札を相手より早く無くす」ことで
ある。
遊戯としてのところで、源平戦を例にして述べたが、競技かるたは「減算のゲーム」
なのである。
では、「持札を減らすためにはどうすればよいか」ということになる。
これも、競技規定で確認しよう。
「第4条 読まれたる札(以下単に出札という)に早く手を触れたる時はその札を
取りたるものとする。札押しの場合は競技線外に札が完全に出た場合には有効と
する。但、両手を用いてはならない。」
「第6条 競技者は対技者の出札をその対技者よりも早く取りたる時は、その都度
自己の持札一枚を対技者に送る事ができる。」
「第7条 出札が自己の持札になき時誤って自己の持札に手を触るるか、又は対技者の
持札中になき時誤って相手札に手を触れたる時は「お手付き」とする。」
「第8条 「お手付き」をなしたる者は、その都度対技者より札一枚を受取る。」
i)まず、自陣の札(持札)を取ることで、減らすことができる。
ii)次に相手陣の札を取ることで、自陣の札(持札)を相手に送ることができ、結果、自陣
の札(持札)を減らすことができる。
iii)相手のお手付きにより、自陣の札(持札)を相手に送ることができ、結果、自陣の
札(持札)を減らすことができる。
このときに注意しなければならないことは、自分がお手付きをすれば、減算のゲームの
目的に反し、持札を増やしてしまうということである。
また、札を取るという行為は、相手より早く取るという相対的な意味においてである
ことにも注意を向けたい。
「第5条 出札に触れたる手が同時の場合は当該札の所有者之を取りたるものと見做す。
但、共に札押しの場合は、出札に近く触れたる者が取りたるものとする。」
もし、競技者双方が絶対的な「速さ」を持っていたとする。この競技規定の第5条は、
同じ「速さ」で同時に取ったならば、それは、その札を持札として持っている者の取り
と規定されている。
どんなにスピードを磨いても、相手が同時に出札に触れる力を持っていたら、相手陣
の札は取れないことになる。もしも、双方にお手付きがないと仮定すると、この場合の
勝敗は、札の出る順番だけで決まってしまう。持札が先に25枚読まれたほうの勝ちと
いうことである。
絶対的な速さを磨くことは、相対的に早く取る上でも効果的なことではあるが、本質
としては、相対的に早く取ることであり、相対的に相手より早く持札を無くすことなの
である。
相対的に早く取るための方法としては、自分が相手より早く取るという方法と相手を
自分より遅くさせるという方法がある。もちろん、前者は自力性が強く、後者は他力性
が強い。しかし、相手が早く取れないような工夫をこちらがすることで、自力性を反映
させることができるであろう。それは、相手から取りにくい配置であったり、いわゆる
フェイントという手法もこのうちにはいるかと思う。
相手が遅くなってしまう原因としては、お手付きの可能性を感じさせることも、その
一つとして挙げられるだろう。それは、友札の別れであったりするわけだ。この関係を
試合の途中で作れるのが、送り札である。すなわち、相手陣の札を取るか、相手のお手
付きで、自陣から札を送る行為である。
この機会を捉えて、お手付きをしやすいように場を作っていくことが、取りを遅くさ
せるとともに、相手のお手付きというまさに他力本願的な減算手法を少しでも能動的に
演出する方法であるといえよう。(もちろん、自分がお手付きをしては元も子もない。
それは、日頃の訓練でお手付きをせずに相手より早く取るように努力するしかない。)
どうだろうか。本質は見えてきただろうか。
「相手よりも相対的に札を早くとり、相手にお手付きを誘うような札の送りをし、
相対的に相手より早く持札をゼロにする。」
なんだ当たり前というなかれ、キイワードは「相対的に早く」と「減らす」である。
「札をたくさん取る」のではなく、「札を早く減らす」のである。
そして、あえてもう一点、視点を加えよう。
出札一枚の価値は、本質的に変わらないが、敵陣の札を取ることは自陣の札を取る
ことよりも意味があるということである。
自陣の札を一枚取っても、自陣の札が一枚減るだけであるが、敵陣の札を取った場合
は、相手陣に自陣から好きな札を送ることによって自陣の札を一枚減らせるということ
である。一枚減るという数字上の事実においては変わらないが、ゲームを組み立ててい
く上で、自分の意思を反映させるという行為においては、大きな意味があるということ
である。
ラスト一枚で勝てるという状況のときは、敵陣をとっても送り札は発生しないのだか
ら、場にある一枚の価値は同じということはおわかりいただけるだろう。しかし、そこ
にいたる経過の中では、敵陣の一枚を取ることには意味があるのである。
蛇足になるが、自分がお手付きをすることを怖れ、お手付きをしやすくなるような
送りをしない選手もいる。相手より早く取るということに重点をおいているのだろうが、
私はこれはもったいないと思う。
自陣の札を一枚減らすという観点からいうと、取りによる減もお手付きによる減も
同じ一枚だが、お手付きによる減は、同時に相手の持札を増やすということになり、
先に持札をなくすという競技のミッションを考えた場合は、二枚の価値があり、さらに
は、敵陣に自陣から選択した札を意図を持って送れるというゲームメイキングの上での
大きな意味を持つからである。お手付きという相手次第の僥倖をあてにはできないと
いう考え方もあろうが、相手がお手付きをする・しないに関わらず、お手付きという
競技かるたという競技の持つ大きな特性というか魅力を充分に活かさない手はないと
思うのである。
相手より早く持札を減らすという本質を、より早くより効果的に実現するならば、
自分はお手付きをせずに相手にお手付きをさせる仕掛けを使わない手はない。
ぜひ「相対的に早く」の持つ意味を、競技かるたの本質として自分なりにもう一度
考えてもらいたい。
III .まとめ
かるたの本質と題して、「遊び」・「教育」・「道」・「競技」それぞれの面から
見てみた。
要は、関わる人の関わり方であると思うが、「競技かるた」の本質には、好むと
好まざるとによらず、これら四つの要素に関わらざるをえないのではないかと思う。
「遊び」だけでとどまってしまうのであれば、他との関連性はきわめて低くなり
そうだが、少なくとも「競技かるた」に足を踏み入れれば、この諸要素は微妙に絡み
あってくるだろう。そして、個人におけるその要素の構成比は、その個人の年齢や
競技年数によっても変化してくることだろう。
最後に、実は、充分に書ききれていないという思いが強い。
その中の一つとしては、上記の四要素と別に項目立てしようかとも考えた「勝負」
という観点もある。一部はこの視点に触れてはいるが、充分ではない。それ以外に
も、一枚の価値や一枚の意味、運命戦、お手付きなど、もっともっと言及したい部分
はある。その部分については、重複する部分もあるかと思うが、おいおい本コーナー
でテーマとして取り上げてみたいと思う。
引き続き、お付き合い願えれば幸いである。
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