“対技者”論

Hitoshi Takano APR/2008

 先月まで三回にわたって書いた「かるたの本質論」では、「相対的」という表現を随分使用した。
 お察しのとおり、これには対戦者としての“対技者”がいるからに他ならない。札を早く取るという のも、自陣の持ち札を早く絶無にするのも、対技者との比較において、「相対的に早く」ということな のである。
 何をわかり切ったことをとお考えかもしれないが、この当たり前の事実を忘れがちになるので、試合 の中で、心が揺れたりしてしまうわけである。団体戦でも、5人一組ならば三組が、3人一組ならば 二組が、相手チームより相対的に早く勝てば「勝ち点」なのである。そのために、自分が勝つのが近道 である場合もあれば、他のチームメイトが勝つために自分がどうすればよいのかということを考えて 実践するのが、チームの勝利のためになるのかということこそが大切なのであり、それを忘れて、空回り していて、相手チームの勝利のために貢献してしまったということにならないようにすべきなのである。

 さて、我々が練習している時に、自分自身の調子の好不調もあれば、対戦相手の好不調を感じること があるだろう。いつもは楽に勝てる相手に、自分の不調で負けてしまったり、いつもは勝てない相手に 相手のミスや不調で勝つことができたりしないだろうか。また、相手に特に不調やミスがなくとも、 自分の調子がよくて望外に勝利を収めることもあるだろう。
 自分の負けの時に、相手の好調で自分はいつもと変わらないのに負けてしまったという例を紹介しな かったのには理由がある。相手がいつも勝っている相手のような場合で、このようなケースは、相手の 好調なのか、自分の不調なのかがわからなくなりがちだからである。普通は、自分の不調だと思いがち である。しかし、その相手の他者との対戦を見ていたり、自分と再三対戦すると、実は相手が実力を 上げていたということに気づくこともある。
 また、得意にしている相手や不得手にしている相手というのもいると思う。第三者との対戦を見て いると自分のほうが強いと思えるのに何故か負けてしまう。逆に実績的に上の相手であり、他者との 対戦でも自分の勝てない相手にバンバン勝っている選手だが、自分はいつもその人ととるときは何故か 強いというようなケースもあるだろう。

 こうしたことが起きるのは、結局は、対技者との相対的な関係によって、強さや早さというものが 決まってくるからにほかならない。

 試合の勝敗という大きなところで見ているが、試合の中での一枚の出札ごとにも同じような相対性が 関係しているのである。その点を考えてみよう。
 たとえば、「はるす」「はるの」が同じ陣に並んだ二字決まりの状態では早さにかなわない相手が いたとする。その時、「はるす」と「はるの」を並べずに左右にわけて、渡り手で取らなければなら ない状況をつくっておくとする。すると、相手の攻めと逆の方向に行くことで、相手が行ったほうと 逆の出札が出ることで相対的に早く取れる可能性があるということである。
 また、何かの拍子に出札に対して遅くなることもあるし、お手つきをおそれて手が止まったり、 浮いてしまうこともある。そういう札をそういう時には、通常であれば早さで負けたとしても、その 時に限っては、相手より相対的に早く取れるのである。また、強い選手といっても、自陣の中、敵陣 の中でも、全ての箇所が早く取れるというわけではない。比較的にその選手の中で、遅い箇所という のがあるものである。そういう所を見つけて、そこを重点的に早く取りに行くという方法もある。 逆に言えば、そういう穴のない選手や、ミスのない選手というのが強いとも言える。

 しかし、試合の中では、いろいろな場面で間違えたり、ミスをすることがある。送った札、送られた札 の元の場所に手が反応してしまったり、同音の札が複数違う場所にあるときに出札と違うほうに 手をだしてしまうとかいうミスもあれば、読みの音を聞き間違えるというミスもある。また、長い決まり 字の札に決まりより早く手を出してしまい通常のタイミングをとズレてしまって、手が浮いてしまう こともある。さらには、終盤で決まり字の変化を間違えたり、数少なくなって来たときの札の優先順位 の付け方が、対技者双方で異なったり、いろいろに相対的早さを左右する要素がある。
 相手が「速い」とか「強い」と思っても、人は間違えるものなのである。ミスが起きた時、必ず、 そこにつけいる隙が生じる。そこでさらに「こんなはずじゃ、なかった」などと思おうものなら、さら にチャンスが広がる。

 しかし、何度も言うが、こうしたミスがなく、絶対的なスピードを持つ選手が強いことは確かなの である。だからこそ、ミスがないように集中力を高め、絶対的なスピードを磨くように練習するので ある。だが、同時に練習の中では、対技者のミスを誘うような仕掛けも考えつつ、その呼吸を磨く こともひとつの工夫であると思う。
 そういう他人のミスを考えるような練習は邪道だという人もいるかもしれない。自分自身のスピード と集中力を伸ばすことこそが正統な方法であるという理由からだろう。
 しかし、競技には、そして、勝負には、様々な側面がある。その全てを総動員してプレイするのが 競技者というものではないだろうか?
 将棋の故大山十五世名人は、勝負の肝の場面で、最善手ではなく次善手などの怪しい手を指して、 相手にあれこれ考えさせてミスを誘ったという。素人がそのような手を指すのではなく、大山ほどの 大棋士がそのような手を指すことで、相手は、自分の考えた最善手と違うと考えてしまうのである。 これも、立派な勝負術であり、技術である。もちろん、日頃の強さが裏付けとなっているが、もう ひとつの裏付けは、「人は間違えるものだ。間違えた方が負ける。」という大山の勝負哲学であった はずだ。

 競技かるたにおいても、いかに相手のミスを誘い、それを利して勝負にいかすかも大事なこと なのである。
 「人は間違えるものなのである。」
 しかし、それでも相手が間違えなければ、それは相手の日頃の精進が上回っていたのである。その 精進を自分自身が上回るしか勝ちは見えてこないのである。
 
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