早慶戦論
Hitoshi Takano May/2008
1.きっかけ
ダカーポ特別編集「早稲田大学の実力」という本をたまたま見つけた。パラパラとめくっていると、
早慶戦を取り上げている記事があった。その中の一つのジャンルとして「かるた」が掲載されていたので、
ついつい引き込まれた。しかし、読んでみて、ショックを受けたというのが正しいのか、寂しい気持ちに
なったというのが正しいのかわからないが、えもいわれぬ感覚を覚えたのであった。
この記事によると、1980年代は、早慶の両校がTOPで相争っていたが、慶應では強豪の多かった時代
に下の世代から強い選手を育てきれなかったために、慶應は迷走するようなったと書かれていた。そして、
記事の中では、早稲田の関係者をして慶應の低迷は寂しいと言わしめている。
慶應関係者としては、なんともいいがたい記事ではないか。記事で書かれている早慶が竜虎あいまみえた
という80年代に学生として、そして若いOBとしてかるた会の中で過ごした一人として、競技かるたにお
ける早慶戦について、少々論じてみたい。
2.一般論としての早慶戦
慶應義塾では、早慶戦とは言わずに“慶早戦”と呼ぶが、ここでは、世間に膾炙しているとおり「早慶戦」
と記す。以前、本ホームページのTOPICのコーナーで、取り上げたことがあるので、そちらの記事も参考に
していただきたい。
☆ 「慶早戦」
(“TOPIC”より、2004年6月掲載)
早慶戦とは、特に野球が有名であるが、端艇部の早慶レガッタやラグビーなど体育会の各部をはじめ、
文化的な競技や活動においても、実に多種多様な競技種目で行われるといってよい。
極端なことをいうと、スポーツ系でも競技系でもない研究などを旨とするサークルが、そのサークルの
活動とはまったく関係なく、毎年両校のそれぞれのサークルの交流を兼ねて、ソフトボールで対抗戦を
行う例などもありうるのである。
競技の方式も、両校の部同士の定期対抗戦という形式もあれば、学生連盟等のリーグ戦などの一部として
組み込まれて行われるケースもある。
東京六大学野球の場合は、慶應義塾と早稲田の対抗戦を軸に他の大学が加わってきてリーグ戦が組まれた
といってもよいし、ラグビーの対抗戦などは、もともとそれぞれの大学の対抗戦が組織化されて現在にいたった
経緯がある。
仮に、連盟のリーグが一部・二部とわかれているような場合は、同じランクのリーグに所属していないと
早慶戦は実現しないのである。
ただし、それらの連盟の公式戦とは別に定期的に早慶戦を行うというパターンもある。
そうした定期戦も早慶戦であるし、トーナメント形式の試合で勝ち上がって戦う場合も早慶戦であることに
は変わりがない。
ただ、部や競技によって、両校のみで定期的に行っている早慶戦のみを基本的に早慶戦の勝敗にカウント
するケースもあれば、対戦したすべてを早慶戦にカウントするケースもある。また、いわゆる連盟の公式戦
=早慶戦という形で勝敗をカウントすることもある。
その時々で、両校の戦力が拮抗していようがいまいが、“打倒早稲田!”、“打倒慶應!”を胸に、相手
に勝つことを目標に戦うのが早慶戦なのである。したがって、必ずしも戦力優勢、実力優勢という下馬評の
とおりになるものではない。二部にいるほうが一部にいるほうを負かすこともあるのが、早慶戦の醍醐味
なのである。
さて、一般論はともかくとして、競技かるたにおける早慶戦について語ることとしよう。
3.競技かるたの早慶戦(1)〜定期戦として〜
早慶の両かるた会が、春と秋に定期対抗戦として早慶戦を行うようになったのは、1978年からである。
いつまで続いたかは、記憶が定かではないのだが、1979年入学の私が在学中は間違いなく行われていたし、
卒業後も続いていたように記憶している。
これは、A級とB級で行い、1チーム5人。5人中3人が勝ったチームに勝ち点がつき、勝ち点2を先に上げた
ほうが優勝というルールである。したがって、2回戦で終わることもあれば、3回戦まで行くこともある。
それぞれのクラスごとに優勝チームを決したのである。
特に春のB級は、新人戦の様相があり、4月に入りたての選手がチームを組み、団体戦の洗礼を受けるので
ある。ここで負けた悔しさで伸びていく選手もいれば、団体戦特有のプレッシャーで団体戦嫌いになってし
まったかなという選手もいるので、功罪両面はあると思うが、上級生にとっては、新人を育てる貴重な機会
になっていたともいえる。
A級のほうは、両校の上位5選手のぶつかり合いといきたいところだが、実際にそういうドリームチームが
組まれたことは何回あっただろうか。やはり、次の職域学生大会(団体戦)を目指して、次にAチームに入れ
そうな候補を育てるためにあえてAチームに選抜したりすることもあったし、そんなのはまだましなほうで、
何よりも選手を10人揃えるのが精一杯というケースも出てきてしまっていた。
早慶戦のあとのコンパには、親睦的な意味合いも強く、職域学生大会といういわば本場所に対して、巡業先
での花相撲的なところにおさまってしまったのかもしれない。
まことにもったいない。
年一回として、ベストメンバーが組める日程で、賞品などをきちんと用意すれば、また参加者の気合も異
なったかもしれない。
復活させるとしたら、工夫が必要になるだろう。春の新人戦も新入生が5人いるならば、大変効果的なのだ
が、現状をみていると、新入生5人を入部させ、それを6月までに継続させ、試合に出させるまでにできる
ような状況は、努力不足といわれればそれまでかもしれないが、難しい状態であるように思える。
個人的には、ぜひ、様々に工夫をして年1回でも復活させてほしいと願っている。
昨年の早稲田大学かるた会創設50周年など、それを記念して臨時でもよかったから、記念早慶戦でも行えば
よかったかのように思う。もし、両校の学生諸君にやる気があれば、今年は慶應義塾創立150年記念の年なので、
記念早慶戦を行ってほしいものだ。
4.競技かるたの早慶戦(2)〜職域学生大会の中で〜
現在、早慶かるた会が、学生の団体として早慶戦を行う可能性のある大会が二つある。ひとつは8月上旬に大学連盟
主催で近江神宮で行われる大学選手権である。これは3人一組の団体戦である。
予選ブロックで同じになるか、予選を勝ち上がって本戦トーナメントに残れば、両校が勝ち進めば実現する。
もうひとつは、職域学生大会である。これは年2回、8月と3月に行われる1963年から89回を数える伝統
ある大会で、ある意味、団体戦の「本場所」という意識を持たれている大会である。
この大会は、現在A級〜E級の5ランクにわかれている。A級からC級は、各級8チームで、1ブロック4チームで
2ブロックにわけ、その4チームの総当りで3回戦の戦績で、予選順位1位から4位を決める。1位同士が決勝戦を
戦い、2位同士が3位決定戦を行う。3位と4位がたすきがけで戦い、5位〜8位の順位決定戦を行い、下位2チーム
が入れ替え戦などは行わず、有無を言わさず降級となる。そして、下の級の上位2チームが上の級に昇級する。
D級は、24チームあり、8チームずつD−1組、D−2組、D−3組と別れ、A〜Cの級と同じように戦う。そして各組優勝の
3チームが昇級し、C級は下位3チームが降級することになる。E級は、また、試合の仕方が違うが、予選3試合の結果で、
順位決定戦を戦い、上位6チームが上の級にあがる仕組みである。
これで、早慶両校が、同じクラスで激突すれば、早慶戦となる。予選ブロックでぶつかることもあれば、順位決定戦
で対戦することもある。そして、なにより花形は、A級決勝戦で、優勝をかけて早慶両校が戦う早慶戦である。
実際、A級で優勝をかけて早慶両校が戦ったのは、1983年夏の40回大会が初である。それまで早稲田は13回、慶應は7回
の優勝を重ねていた。しかし、第11回大会までに10回の優勝を早稲田が重ねている時に慶應は、まだまだ発展途上で
あり、慶應が第22回大会で初優勝し、第29回大会までに4連覇を含み6回優勝したときには、早稲田は昔日の面影が
なかったのである。
第38回の優勝が慶應、第39回の優勝が早稲田と、両校が斯界のTOPにともにいた時期がまさに、この1983年の
40回大会だったのである。
以後、1990年春の53回大会までの間に、両校は決勝戦で9回対戦する。もちろん、決勝であたらずとも
予選ブロックであたってしまうこともあったので、まさに早慶戦が優勝を決めていたと言っても過言ではない時代
だったのである。
戦績を紹介しよう。
第40回 ○慶應義塾―早稲田●
第41回 ○慶應義塾―早稲田●
第42回 ●慶應義塾―早稲田○
第45回 ○慶應義塾―早稲田●
第46回 ○慶應義塾―早稲田●
第47回 ○慶應義塾―早稲田●
第49回 ○慶應義塾―早稲田●
第51回 ○慶應義塾―早稲田●
第53回 ○慶應義塾―早稲田●
9戦して慶應義塾の8勝1敗である。慶應は、A級決勝戦おける早慶戦で無類の強さを発揮していたのだ。
しかし、慶應は、1990年夏の第54回大会で18回めの優勝を飾ってのち、優勝から遠のいてしまう。この時点で
早稲田の優勝回数は17回。ついに早稲田の優勝回数を抜いた時、これが、凋落のサインだったのかもしれない。
以後、早稲田は優勝を重ね、現在89回大会までに34回、実に3割8分2厘の優勝確率を誇っているのである。
実際、ダカーポの記事が言うように慶應は次世代の選手を育て切れなかったのだろうか。
そんなことはない。大学に入った時は初心者だったり、下の級だった選手が在学中にA級にあがってもいる。しかし、
いかんせん数が足りなかった。このころの強豪は、実は留年していたりするので、実働期間が4年よりも長い選手が
多くいたこともある。これらの選手と下の選手が練習すると、当然実力の差が出てしまう。強い選手の強い部分を感じる
ことができるいい練習にはなるが、団体として強くなるためには、一緒に強くなっていく抜きつ抜かれつするライバル
であり、チームメイトなのだ。下の選手を育て切れなかったというのであれば、それは、質(“Quality”)としてでは
なく、量(“Quantity”)としてなのである。
いずれにしても、現状で差がついてしまったことは事実だ。現在、早稲田のAチームはA級、慶應のAチームはB級である。
対戦できるところまで行っていないのである。
89回大会では、慶應Aチームは、早稲田BチームとB級の予選ブロックであたり、ここでは慶應が勝っている。これも
早慶戦かもしれない。しかし、B級において、AチームとBチームの早慶戦でそれでよいはずがない。相手にはAチームが
控えているのである。まずは、職域学生大会のA級でAチーム同士のの早慶戦を復活させることを目標にしなければならない。
5.これから
切磋琢磨という言葉がある。ダイヤモンドはダイヤモンドでしか磨けない。慶應が強くならなければ早慶戦は切磋琢磨の
場になりえない。
早慶戦で勝つ。職域学生大会で勝つ。たしかに、勝つこと(勝つことを目指すこと)は、自分を磨く最大の手段なのである。
そのためは、相手の強さを知ることも大切なことである。相手の強さを知るには、戦ってみるのが一番である。そういう
意味でも、競技かるた早慶戦の復活を望みたい。
いにしえに野球において、早稲田が慶應に挑戦状を出したように、慶應から早稲田に挑戦状を出してみてはどうだろうか。
後輩諸君に少しの勇気があれば実現するのではないだろうか。
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