競技の視点(1)

〜信頼論〜

Hitoshi Takano Mar/2009

はじめに

 日々の生活の中で、ふと競技かるたについて考えていることがある。通勤の途中などが多いのだが、 テレビなどを見ながら、ふと競技かるたの「競技」の面について、思いが飛んでいく。
 こんなふうに考えたことを、少し「競技の視点」ということで、書いてみようと思う。

競技の前提としての信頼

 格闘技などを見ていて思うのだが、お互いの肉体に対して何らかのダメージを与えるこの競技では、 ルールというものがある意味、殺されはしない(不慮の事故による死はあるとしても)という前提の もとに競技が成り立っている。
 裸に近い姿で競技に臨むことも、刃物などの凶器をもっていないということの証であり、相撲に おいて塵手水を切る所作などは、それが形式美にまで高められたものと言ってよいだろう。

 その意味において、競技においては「相手」への信頼というものがある。
 競技かるたにおいても、同様で、競技の最中に刃物でグサリと刺されるような危険性を感じたら、 だいたい競技の場にのぞむことなどありえないだろう。
 別に刃物でなくとも、故意に相手を傷つける行為はないものと信頼して競技に臨んでいる。
 相手の利き手を故意に痛めつけるような拳での相手の手への攻撃などがまかりとおっていては こわくて競技などできない。もちろん、ルールの範囲内で、単に手を出したのが遅く、相手の手と 交錯して、突き指してしまったとか、指を脱臼したとか、骨折したということは起こりうること であるが、これもある程度双方の技術が高ければ大きな事故にはつながらないはずである。
 まずは、あたりまえのことだが、この部分の信頼は確保されなければならない。

相手への信頼

 先に述べたことも、相手への信頼のひとつだが、あまりにもあたりまえのことである。競技 かるた本来の相手への信頼の視点は、また異なる。
 競技かるたでは、札の取りなどは基本的に対技者同士間で決める。審判のつく試合などは少ない ので、まずは「取った」「取っていない」で議論が生じた場合は、当事者同士で解決しなければ ならない。
 この時には、相手に対する信頼がなければ、平行線をたどらざるをえず、決着をみることはない だろう。「互譲の精神」というが、これは、相手への信頼がなければ成り立たない。
 相手が「間違った思い込みをしている」と思うのと、「嘘をついている」と思うのでは全く異 なる。少なくとも「相手は嘘をついているわけではなく、心底そう思っている」という信頼が なければいけない。
 相手が「お手つき」をしたかどうかあやしい時に「さわりましたか」と聞くことがある。本来 聞かずに、相手が間違った札にさわってお手付きだと思ったら、札を送ってしまえばよいという 意見もあるが、いずれにしても、相手が「触っていない」と言ったら、こちらがはっきりと相手 のお手つきと目視して証拠を提示できるほどの確信をしていないかぎり、相手を信頼するしかな い。
 この相手に「札に触りましたか。お手つきしましたか。」と聞くことこそ、相手が嘘をつかない という信頼の前提がなければできないことなのである。
 嘘をつかれたら仕方がないのである。それは、いずれ相手の心の内にはねかえってくることで あろうし、相手を信じて、しっかりそのあとの競技を続ければよいのである。疑念を持ち続ける ことは、相手を信じた自分自身を疑うことでもあるのである。気持ちの切り替えが大切なのだ。

審判や読手への信頼

 審判のつくケースでは、当事者間で決められず裁定を審判にひとたび仰いだら、これは、どんな 結果になろうとも、審判にしたがわなくてはならない。すなわち、審判への信頼である。たとえ、 審判の判定が100%間違えであると認識しても審判の裁定は絶対である。そんな時は、当事者 間でで解決きなかったおのれ自身を責めるべきであり、審判や相手の責に帰してはいけない。
 読手についても、札の出のとおりに正確に読んでいると信頼しなければ、競技は成立しない。 名人戦などは立会人が読まれた札を確認しているが、読みの順を片方に有利なように変えながら 読んでいるなどと考えては、競技などできないのである。
 これもいささかあたりまえすぎることであろうか。

仲間への信頼

 これは、主に団体戦に対しての視点である。
 これまた、あたりまえといえば当たり前だが、団体戦においては、仲間を信頼することが大切で ある。5人1チームの試合で、仲間の3勝を信じているから自分は負けてもいいということを言って いるわけではない。時には、自分が勝ち、仲間が負けることもあるだろうし、自分が負け、仲間が 勝つこともある。さらには、全員が負けてしまうこともあるし、全員が勝つこともある。
 もちろん勝利を願い、そのために努力をするのは当然であるが、勝敗は意に沿わないことが多い ものだ。
 ただ、団体戦には、それぞれの果たすべき役割があり、チームとして最後にどうなのかという ことである。そこでは、レギュラーにしても補欠にしても役割を担い、その仲間が役割を果たし てくれるという信頼がなければ団体戦たりえないということである。
 それには、日頃からともに練習し、練習ができなければコミュニケーションをとり、信頼関係を 築いていなければならない。
 何も団体戦のチームだけではない。一つの「かるた会」という組織の単位でも、会員相互の信頼 関係は、競技のみならず、組織の運営などの面でも重要な要素なのである。
 競技かるたは、決して一人で強くなれるものではない。読手や相手がいなければ始まらない競技 なのである。それを支えるのが、「かるた会」である。
 今一度、仲間とかるたを取るということの大切さを感じて、仲間との信頼ということを考えて みてほしい。

 

確率論への信頼

 競技かるたは、読札が読まれることによって進行する。
 100枚という札が、どういう順番で読まれるかということは、確率論の世界であり、その順列・ 組み合わせは、天文学的数字である。
 しかしながら、ある特定の札が特定の番目に読まれる確率は、何も読まれていない段階では、す べての札について同じなのである。すなわち、51番めに読まれる確率は、「秋の田」も「夕され ば」も変わらないのである。それと同様に、1枚目に何が読まれるかの確率は、どの札も1%の 確率である。
 したがって、持ち札が1枚対1枚の運命戦になったときに先にどちらの札が読まれるかの確率 も同じであるし、敵陣に20枚札が残っていて、こちらに札が2枚しかなければ、次に読まれる 札が空札ではないと仮定すれば、敵陣の読まれる確率は自陣の読まれる確率よりも高いわけであ る。ただし、敵陣の20枚の中の「あさぼらけあ」と自陣の2枚のうちの「風そよぐ」という 特定の札2枚の比較においては、次にどちらかが読まれる確率は同じなのである。
 競技かるたの選手は、このことを肝に銘じるべきである。
 敵陣が何枚続けて読まれたから、自陣が次に読まれるのではないかとか、1対1の運命戦に この札を<残すと自陣が読まれて勝てるというジンクスがあるというのとかは、確率論的にいえ ば、次の1枚何が読まれるかということに関していえば、まったく、意味がないのである。
 しかし、人は弱いものである。頭でわかっていても、決断をしなければならない時には、 確率論などは抜きに何かに頼りたくなる。それが過去の経験からジンクスと思い込んでいる ことであったり、勝負師の「カン」というものである。
 勝負師の「カン」やジンクスは、確率論からいうとまったく根拠がないが、それはそれで、 後悔しないための決断の材料にすることを否定するものではない。しかし、冷静な勝負師で あり、科学的に競技に取り組むのであるならば、競技かるたに携わる者は「確率論への信頼」 を忘れてはならないのだと思う。

 

まとめ〜自分への信頼〜

 いろいろと「信頼」という切り口で、競技かるたの競技の視点について語ったが、突き詰める と、まずは何を信頼するにもそれは自分自身の決めたことであるという前提において、「自分へ の信頼」なのである。藤原定家が選歌の際に「用捨在心」と札の選択の取捨は自分の心の内に あって決めたことを言い表しているように、自分自身の判断・決断であり、それは、まさに 自分自身への信頼なのである。

 競技者としては「用捨在心」をとおした「自分自身への信頼」を忘れてはならない。


  
◆◆◆ 「競技の視点」INDEXへ ◆◆◆



次の話題へ        前の話題へ

"競技かるた"に関する私的「かるた」論のINDEXへ
感想を書く
慶應かるた会のトップページへ
HITOSHI TAKANOのTOP PAGEへ

Mail宛先