私の“かるた”に影響を与えた言葉(II)

「すべては団体戦のために…」

Hitoshi Takano Apr/2009

 この言葉は、実は、すでにいくつかの場所で紹介している言葉である。
 特に、この言葉の持つ意味について論究しているのは、本シリーズの2008年2月の項で 「かるたの本質論 (2)」の“教育としてのかるた”においてである。
 そちらのほうも参考にしてほしいが、ここでは、私の体験というか、私に対しての影響とい うことから述べてみたいと思う。

 一言でいえば、あたりまえすぎて陳腐に聞こえるかもしれないが、「団体戦の重み」を感じ る言葉である。特に私のように、一般会に個人として入門したのではなく、大学の課外活動と してのサークルとしてのかるた会に入って、活動してきたものには組織目標や組織運営など の課題に対しても示唆に富む言葉である。

 私が大学のかるた会の門を叩いたのは1979年である。私の競技生活はこの時に始まった。 奇しくもこの年、競技かるたの高校選手権(団体戦)が産声をあげる。
 初代優勝校は、静岡県立富士高等学校である。夏に行われた高校選手権で優勝した富士高は、 同じ夏に開催された第33回職域学生大会(団体戦)(以下「職域」と記す)で通算7回目の A級優勝を遂げている。この時の職域A級で準優勝だったのが私が入学した慶應義塾大学であ る。
 以後、慶應義塾大学は第37回まで5回連続の職域A級準優勝に甘んじる。1980年夏は 会場が手配できずに職域は開催されなかったので、丸3年間、職域A級決勝で苦渋をなめたこ とになる。第34回こそ、優勝はICUであったが、第35回からは富士高が職域A級3連覇 を遂げる。3年間の5大会で3連覇を含む4回の職域A級優勝を遂げ、高校選手権は3連覇 (のちに十連覇にまで記録を伸ばす)と、この時期富士高は名実ともに5人1チームの団体戦 における日本一のチームであった。
 個人的体験でいっても、個人戦のデビュー戦(1年夏)で富士高1年生にD級で18枚の大 差で負けて以来、A級に上がるまで、C級で1勝4敗、B級で1勝、職域で2敗と合計2勝7 敗、勝率2割2分2厘であった。当時、東京・横浜・静岡の大会ではB級以下では、富士高生の 壁を破らないことには上にあがれないという状況があったのである。上にあがるためには、富士 高生に勝つか、富士高生の出ない地方の大会に行くしかなかった。ちなみに私は、富士高生の 出場しない金沢での北国大会でB級優勝してA級にあがったのだった。
 このような状況であれば、当然、何故富士高は強いのかということを知りたくなる。そんな 中、大学3年の冬休みその年も押し詰まった12月26日、伊豆で行われたICUの冬合宿に 参加していた早稲田大学4年の富士高出OBが、富士市の自宅に泊めてくれる上に富士高の練 習に連れて行ってくれるという機会を得た。
 練習では3連敗を喫したが、生活館という練習場所で、実際にその練習の空気にふれること ができたことは貴重な経験であった。
 これをきっかけに、富士高かるた部の顧問の先生とも親しくお話しをさせていただける関係 となり、その後、富士高の練習にも何度も伺い、その顧問の先生の転任先の沼津東高、長泉高 などの練習にも参加させていただけるようになった。
 練習に伺った際には、お時間がある時には、夜のお酒の席などにも誘っていただくことも あった。そういう席の「かるた談義」の中で、何度かお聞きしたのが件の「すべては団体戦 のために…」云々のお話しである。

 この言葉こそ、まさに、当時の富士高の強さを支えていた指導方針を端的に表している言葉 と言えるだろう。

 私が、初めて富士高の練習に寄せてもらった次の職域も、慶應義塾大学はA級決勝で富士高 に敗れる。しかし、その次の夏の職域(第38回)で、慶應義塾大学は第29回大会以来5年 半ぶりに7回目のA級優勝を遂げる。その時には、私も優勝チームの一人として名を連ねてい たのである。

 大学のサークルとしての課外活動では、「すべては団体戦のために」という徹底は難しい。 しかし、団体戦への出場を通して「フォー・ザ・チーム」の精神は、意識せざるをえない。 この個々人の経験をどのようにして次の団体戦へのモチベーションにつなげていくか、それは 大きな課題である。大学生であっても、個人戦も団体戦のためにあるという考えがあってよい とは思うが、大学生ともなると、また考え方も様々である。
 しかし、団体戦の頂点を目指すならば、一度は突き詰めてサークルの取り組みとして考えて みるのもよいことだと思う。特に1990年春(54回大会)の18回目の職域A級優勝以来、 頂点から遠ざかっている慶應義塾大学にはいろいろと考えてみてもらいたいと望んでいる。

 さて、その後の私はといえば、団体戦出場は、職員という立場で、学生と同一チームでの出 場を1988年まで続けることになる。しかし、職域のチームとしての登録との2重登録はよ ろしくないということから、職域チームとしての職員メンバーが揃うまで出場を見合わせるこ とになった。
 そして、2006年春の第85回大会に 17年半ぶりに 職域大会に慶應義塾教職員チームとして戻ってくる。
 長い長い期間であった。
 そして、団体戦に出場するたび、「団体戦の重み」・「団体戦の楽しさ」など、まだまだ 「団体戦」を味わい尽くせていない自分に気づく。

 「すべては団体戦のために…」。

 今でも「団体戦とは何か」を模索しながら、競技に取り組んでいる私にとっては、“かるた 競技”そのものというよりも「かるたを取る姿勢」に非常に大きな影響を与えた言葉となって いる。


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