私の“かるた”に影響を与えた言葉(I)
「自陣で取れる札を無理に送ることはない」
Hitoshi Takano Feb/2009
1985年1月、ある大会で対戦したあと対戦相手から言われた言葉である。
対戦相手は実績のあるベテラン選手。試合会場でも、よく出会うようになり、会話を交わすようになったせいだろうか、初対戦のこの時、勝敗が決したあと(私の4枚差の負け)、一言言ってくれたのが、「自陣で取れる札を無理に送ることはないんじゃない。」だった。
A級にあがって3年数か月、名人や準名人経験者やクイーンといったいわゆるビッグネームと対戦する機会にも恵まれたが、大差で一蹴されていた。そんなとき、「送り札はどうあるべきか」悩み、試行錯誤していた時期でもあった。
もちろん、A級でかるたを取る要素は送り札だけではないが、送り札は試合をつくる大きな要素である。前提となるのは敵陣を取ることであり、相手にお手つきをしてもらうことであるが、それは置いておいて、相手にこちらの競技センスをはかられる要素でもある。
競技かるたを始めたてのころ、先輩たちから言われた送り札の考え方のようないわゆる送りのセオリーのようなものが、A級で試合を戦っていく上でないかどうかを模索していたのである。
たぶん、試合の中で、そんな私の送り札の不自然さを感じさせてしまったのであろう。
その結果が、表題の言葉となってあらわれたのだろう。
この言葉で、ある意味私はふっきれることができた。「セオリーなど意識することはない。もっと自分に自由に考えればいいのではないか。」と思ったのである。
「名人に定跡(定石)なし」という言葉がある。これは、将棋や囲碁の世界で言われる言葉だが、競技かるたのA級選手にも言えることなのではないかと思った。
ただし、すべてのA級選手というわけではないかもしれないが、競技に向き合う中でこの言葉に共感する選手もいることだろう。
いずれにしても、私は「自陣で取れる札を無理に送ることはない」との一言で、送りのセオリーは何かというテーマから解放された。
というより、送りのセオリーは「用捨在心」(By藤原定家)ということに気付いたのかもしれない。
どの札を用い、どの札を用いざるかは、自分の心の中にのみあるのである。
競技かるたの世界は、自由な発想の中に広がっている。
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