短編小説

Hitoshi Takano Apr/2007

君が為春


<序>


 「…けり…。」

 「…。あき」

 「よっしゃ!」

 「のたのかりほのいほのとまをあらみ」

 「えっ?」

 あたしは、驚いた。そして、心の中で「ラッキー!」とつぶやいた。相手が、お手つきしたからだ。

 相手の選手が、あたしの陣の右上段の端から二番目に置いてあった「あきか」の札とその隣の端の札をすばらしく早い取りで払っていったのだ。三字決まりなのに、ほとんど二字決まりのスピードだった。どんなにあたしが早く札直で取りにいっても、あのスピードにはかなわない。お手つきは、まさにラッキーだった。

 初めてのA級での試合。しかも準々決勝。三回戦を勝ち抜いてきた八人の選手が四組の試合をしている。B級やC級、D級も準々決勝の試合をしているが、ギャラリーは、やはりA級の試合を注目している。あこがれていたA級の名選手たちと同じ舞台にたっているのだ。現名人がいる。元クイーンや全日本選手権者がいる。そうした選手たちと一緒に試合をしているのだ。ただし、あたしの相手は、A級でも無名の選手だ。かるた部の顧問の先生のデータでは、A級での入賞経験はない選手だった。でも、今日は調子がいいに違いない。ここまで勝ちあがってきたことが何よりもその証明であろう。序盤の取りも正確で、スピードも乗っている。正直、手ごわいと思った。

<破>


 あたしは、高校に入ってから、競技かるたを始めた。クラブ活動の一環だった。競技を覚え、取るようになると、正直「天狗」になっていた。一年生の中では、あっという間に一番強くなっていた。先輩達にも勝てるようになって。B級にもとんとん拍子であがり、B級のデビュー戦も破竹の勢いで準決勝にまで進んだ。しかし、ここで大きな壁にぶつかった。準優勝の相手に僅差で負けたのだが、何かそれまでの自分のかるた〜競技スタイル〜を否定されたような気がしたのだ。

 それまでのあたしは、音に対するひびきにまかせて、ただただ早く取ることのみを追求してきた。きれいな取りなど意味はないと思っていた。札押しのルールが認められているのだから、二段払いでも三段払いでもいいから、ひびいたら音に感じるままに素早く払う。それが全てだった。自陣の左に「はる」の札を二枚、右に「はな」の札を二枚置いた時に、一枚めで「は」が読まれて、左右を渡り手で払ったことがある。「は」の音は、あたしの名字が「はやせ」と言って「は」から始まるためか、非常に反応しやすい音だった。左に一振り、右に一振り。わずか二振りで自陣の二十五枚の札が全て飛び散った。それでも自分の取りになればいいと思っていた。敵陣も、一枚ずつすこしずつ隙間をあけて離しておいてあったとしても、委細かまわず手前から跳ね飛ばした。出札から直接取りにいこうなどとは、金輪際考えなかった。それでも、取れていたし、勝てていたからだ。そして、それが快感だった。先輩達につけられたあだ名は「デストロイヤー」だった。まさに、そのころのあたしは破壊者だった。

 しかし、転機が来た。B級準決勝の時、相手は、出札から直接取ることを目指しているような取りをしていた。しかし、あたしのひびきにまかせるかるたに業をにやしたのか、途中から、あたしのような破壊的な取りをするようになった。あたしは、ひびき負けしていた。上には上がいる。あたしより、ひびきが早くても、出札からきれいに一枚を払うことを目指している選手がいる。そんな選手には勝てないと思った。あたしのスピードは、今が限界だとすれば、破壊的なスピードを上げるのではなく、スピードに正確さを加えなければ、A級で勝つ選手にはなれないように思えたのだ。

 その日から、あたしは、かるたのスタイルを変えた。そして、自主練習に朝のランニングを取りいれた。走るのなんかいやだと言ってやってこなかったが、先輩から足腰を鍛えることとスタミナをつける意味でやったほうがいいと教わっていたことを思いだし、朝早く通学して、始業前に校舎の周辺コースを走ることにしたのだ。

 この朝のランニングが、あたしに遠回りをさせることになった。ランニングを始めて四日め、雪の薄く降り積もった中を走って、すべってころんで通行人を捲き込み、相手もあたしも病院送りになってしまった。あたしは足を骨折し、相手は頭を打って意識喪失していた。相手が病院で目をさまし、精密検査の結果も問題ないとのことだったので、他人様を怪我させたという負いめは持たずにすんだが、かるたの練習は骨折がなおるまで、お預けになってしまった。

 練習できない間、あたしがしたのは、札から直接出札を取るための定位置の研究と、過去の名人戦やクイーン戦のVTRを見ることだった。顧問の先生がNHKの衛星放送から録画していたものを貸してくれた。握力をアップするため、VTRを見ながら、握力増強用のグリップを握ったりした。また、軽いダンベルなどで腕の筋力アップもはかった。

 ギプスがはずれたのは、学年が改まってからだった。

 定位置を変え、スタイルを変えたあたしのかるたは、怪我からの復帰で足腰の衰えもあり、あきらかに弱くなっていた。同級生にも負けるようになり、かつてのデストロイヤーの面影はなくなっていた。

 定位置の中で一番困ったのは、大山札の置き場所だった。

 囲ってとりたいのだが、「あさぼ」「わた」「きみ」の三種類を同じ場所にはしたくなかった。それぞれに定位置を決めて取り分けたかった。札から直接取りにいくことを考えると、札の置き場所と音との関係をより密接なものとして、札が減ってきても極力移動させない工夫をしたかったのだ。札が減るにしたがって、上段から中段に、中段から下段に左右のバランスの調整をしながら札を移動させると、昔のデストロイヤー時代のまとめた粗い払いがよみがえりそうで嫌だったからだ。

 左下段は一番内側に「わた」で囲うことに決めた。「あさぼ」は右下段の一番外側にした。困ったのは「きみ」だった。上段は札直で突いて取る恰好の場所だったので、定位置として結構多くの札を決めていた。そうすると、中段内側で囲うのは不向きな並びになる。左側の外側は、囲いづらい。上段の真ん中で、囲わずに突きで取るようなことも考え、実践してみたが、相手にうまく囲われてしまうとうまく突き込むことができなかった。

 定位置に悩む一方、骨折した足のリハビリも兼ねて朝のランニングを再開していた。そんな中で、あたしにとっては、また、別の変化がおこっていた。

 弟子をとったのだ。

 弟子をとるというと意外に思われるだろう。競技かるた歴一年で師匠もないものだ。正確にいうと相手に一方的に師匠と言われているだけなのだが…。
 それは、後輩の部員が入って、あたしも指導しているということではない。高校の部活では、師弟関係は顧問の先生と生徒であり、先輩と後輩ではなかった。
 あたしが、怪我をした時、捲き込んでしまった相手が、競技かるたを教えてほしいということになったのだ。

 あたしが雪ですべってころんで相手に接触してしまったので、たまたまあたしのそばにいた相手は、何も悪くないのだが、入院した病院に見舞いに来てくれた。捲き込まれたことに文句もいわず、自分がそこにいなければこんな骨折のような大事にいたらなかったに違いないと謝られるのだ。あたしとしては恐縮きわまりない。
 見舞いにくればいろいろ話もすることになる。何故雪の積もっている中、ランニングしていたのか、聞かれたら話さないわけにはいかないだろう。そこで、競技かるたの話をしたら、相手が興味をもって教えてくれということになった。社交辞令だと思うから、「いいですよ」と軽く返事をしたら、本気だった。

 ギプスが取れるまでの間に百首覚えて、四月から週二回の個人レッスンということになったのだ。  この相手というのが、林さんといって、ちょうどこの時三月末で定年退職になった人で、四月から何か新しい趣味を始めたいという団塊世代のおじさんだったのだ。
 あたしは、部活のない木曜日と日曜日に林さんの家に稽古をつけにいくことになったわけである。林さんは、あたしを「先生」と呼ぶので、「先生」はやめてほしいと頼んだら、今度は「師匠」と呼ぶので、それもやめてほしいとお願いしたが、習う以上弟子であるから、師匠と呼ばずして呼びようがないといって、結局、そのままになってしまった。
 どこで調べたか、自動読み上げ機も買って、百首もすべて覚えて万全の体制だった。

 最初はうざいと思っていたが、他人にきちんと筋道たてて教えること、相手からの質問にちゃんと考え、わからないことは調べて答えるということは、非常に自分自身の気づきや学びになることを実感した。

 「きみ」の定位置を決めたのも、林さんとの稽古がきっかけだった。

 林さんは、定位置については、あたしと同じにするというので、「だめ」と断った。自分自身が新たな定位置を模索中で、今までの定位置は変えようという時だったので、そのことを説明し、林さん自身で考えるように言った。基本的な考え方は説明したが、相当悩んだようだ。一応、上の句の音で並べはしたが、この歌の意味はこうで、それが自分は好きだとか、この札とこの札はセットで覚えたとかいろいろ言って、独自の感覚があるらしい。
 百枚のうち、五十枚がカラ札で、そのうちの二十五枚しか自陣に来ないのだから、セットとか言っても、一緒に並べられる可能性は少ないということを説明すると理解はしてくれるのだが、納得はしてくれなかった。
 あたしの目から見るとバランスが悪い感じもしたが、自分で考えるように言った以上、本人の意向を汲んで一応OKにした。「練習していく中で、調整していきましょう。」ということで、まさにそれはあたし自身が取り組んでいることだった。
 林さんの払いの練習をしている中で、敵陣右上段を払う時に自陣の左上段の札をよく引っ掛けていた。
 そんなことを繰り返している時に、林さんがふと「こんなところに大山札を置かれたら取りにくいですね。」と言うのだ。
 あたしは、はたと気づいた。「自分が取りやすい場所にこだわらず、相手が取りづらい場所に置くというのも一つの方法だ」と。
 こうして、「きみ」の定位置は右上段の隅に決まった。

 林さんとの稽古は、このこと以外にもあたしに今までと違った物の見方・考え方を与えてくれた。
 その一つは、競技かるたの考え方である。あたしは、デストロイヤーと言われている時代。、ただただ、早く出札を取ることだけを考えてきた。
 林さんが一言言った。
 「かるたって、読まれた札を取る競技だと思っていたんですけど、取り札をふやすプラスの競技というよりも、持ち札を減らすマイナスの競技なんですね。」
 これは、お手つきに悩んで、どうしても持ち札を増やしてしまうという中から、ため息まじりに出た言葉である。
 あたし自身、早く取ることを目指してきたが、この早さは相対的早さであることに気づき、かつ、取り札を増やす競技ではなく、持ち札を減らす競技ということに気づいた瞬間だった。
 絶対的スピードでいえば、あたしはデストロイヤーと呼ばれた時期に相当鍛えられた。今度は、そのスピードを相対的スピードの中で、相手より早く正確さをもって出札に向えばよいということを実感したのだった。相手のお手つきでも、持ち札は減るし、自分のお手つきは自陣の札を増やしてしまうという自明の理を実感したのだ。それまでは、お手つきしたらその分取ればいいという思考だったのだが、それが、結局は、競技自体を粗くとらえる原因となり、粗いと言われるかるたになっていたのだと気づいた。あたしの中に、一枚一枚を大切にする気持ちが芽生えた。

 ただ、新しい自分のスタイルを確立し、大会で結果を出すのには時間がかかった。入賞すらできずに涙を流すことが多かった。三年生になったら、大学入試を控え、部活は実質引退になる。高校二年のうちにA級になって、あこがれのA級選手と対戦してみたかった。焦る気持ちがないといえば嘘になるが、負けては焦る悪循環のサイクルにはまってしまった。結局、B級を抜けるのに一年以上を要したのだ。
 B級優勝の大会、それは前回だが、なぜか自分が突然強くなったように感じた。その強さが、今日のA級デビュー戦でも持続していた。

<急>


 対戦相手が、払った札を拾いに行った。
 きれいに二枚を払っていたので、その二枚を帰りがけに見ながら驚いた顔でつぶやいた。

 「えっ?『きみはる』?」

 本人はつぶやいたつもりもないかもしれないが、静まりかえった会場には、予想外にその声が響いた。
 周囲からは、クスクスと笑い声が聞こえる。
 本人は、ばつが悪そうにあたしにその二枚の札を返した。

 これで、やたらに早いお手つきの謎が解けた。相手は、「きみがためは」の札を「あきの」の札と見間違えて暗記していたのだろう。だから、「あきか」と「あきの」を「あき」の二字でまとめて払ったのだ。
 たしかに「きみがためは」の取り札は「わかころもてにゆきはふりつつ」で、「あきの」の取り札は「わかころもてはつゆにぬれつつ」で、似ているといえば似ている。しかし、それを間違えるのは、お座敷かるたか初心者である。まがりなりにもA級の準々決勝で見られるものではない。椿事といってよいだろう。

 あたしは、相手が気の毒に思えた。しかし、勝負は勝負。ここがチャンスである。この一枚で流れが変わった。相手は、このお手つきに気恥ずかしさでも感じたのだろうか。その後の取りは、精細を欠いた。集中力がとぎれたに違いない。
 あたしは、差をひろげ、勝利をものにした。

 続く準決勝。あこがれの元クイーンとの対戦だった。

 緊張よりも嬉しさが上回った。のびのびと自分のかるたが取れたと思った。結果は、一枚・一枚の運命戦にもつれ込んだ。
 運命の札が読まれ、あたしは負けた。

 あたしの自陣には、「わかころもてにゆきはふりつつ」と書かれた取り札が残っていた。

……… 終 ………

(C)2007.4 Hitoshi Takano



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