愛国百人一首

徳川斉昭

天ざかる蝦夷をわが住む家として
   並ぶ千島のまもりともがな


<愛国百人一首における決まり字>
アマザ(3字決まり)
<愛国百人一首における同音の数>
ア音12枚のうちの1
<歌意・鑑賞>
 遠く離れた蝦夷地を自分の住む家として、その蝦夷地の海に並んでいる千島列島の守りとしたい ものである。
 「あまざかる」は「鄙(ひな)」にかかる枕詞。ここでは、鄙のかわりに当時としては究極の 鄙である蝦夷地に対してかけている。「まもりともがな」の「もがな」は希求の辞。
 ロシア船が蝦夷地に出没している話を耳にした斉昭は憂慮していたのであろう。蝦夷を封地に もらって自ら開拓と海防の役にあたろうと建策もしている。
<コメント>
 作者は、徳川御三家水戸藩第9代藩主。烈公と私諡する。黒船来航以後を幕末と呼ぶが、幕末史の 中で、水戸のご老公といえば、光圀にあらずして、この斉昭である。
 幕末にあって、強固な攘夷論者として知られ、大老の井伊直弼と対立し、安政の大獄では、永蟄居を 命ぜられる。この背景には、開国論VS.攘夷論だけではなく、将軍継嗣問題の南紀派VS.一橋派の対立も ある。一橋慶喜(のちの15代将軍)は、斉昭の七男であった。永蟄居のうちに61歳で死去。
 藩主としては藩政改革を行い、幕末に有為の人材を輩出基盤をつくるが、水戸藩の人材は、藩内の対立を はじめ、桜田門外の変や、水戸天狗党の乱などで明治を迎える以前にその多くを失ってしまったといえよう。 安政の大地震では、斉昭の知恵袋であった藤田東湖を失うという悲劇もあった。
 明治に人材を多く残せなかったのは、水戸藩が斉昭を中心とした幕末初期からの尊皇攘夷の牙城であり、 論ずるだけではなく実践するという精神が、過激な行動を生んでしまったということにもあるだろう。
 斉昭自身も攘夷を唱えるだけではなく、寺院の梵鐘を集めて大砲を鋳造したり、蝦夷地開拓や大船建造 の解禁を幕府に進言するなど、具体的な攘夷策を考えていた。
 その蝦夷地開拓の思いが、この歌には込められている。

★ 愛国百人一首の決まり字一覧へ
☆ 愛国百人一首のページへ
★ 小倉百人一首のページへ戻る
☆ 小倉百人一首の決まり字一覧へ
2008年5月19日  HITOSHI TAKANO