「そんなの常識じゃない!」
言うほうは気安く言うかもしれない。
しかし、言われたほうはどうであろうか?
「えっ!それって常識だったの?」
「自分には、常識がないんだ。」
「俺は非常識な人間なんだ。」
こう思ってしまうことは、ないだろうか?
「常識」と言う言葉を岩波の国語辞典で引くとこう出ている。
「健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別。」
「常識がない」と言われ、感じることが、「自分は健全な一般人ではない」とか、「思慮分別に欠けた人間だ」とか話が飛躍していってしまう可能性もあるのだ。
何気ない一言が、人を傷つける。傷つけたほうは何も感じなくても、傷ついたほうは忘れない。
「常識」という言葉を使われて傷つけられるほうが、「ばか」とか「アホ」というようなストレートな罵詈雑言よりも傷が深いように思う。
「常識」といった場合、世間一般の中の常識をさすことが普通だが、最近では、ある特定の集団の中の一般的知識などにも使われることが多い。
「それは、我が社の常識だ。」とか「この業界の常識だよ。」とか使われることもある。こうなるとその特定集団の常識が、世間の常識とは異なるという現象も起きてくる。「○△□業界の常識は、世間の非常識。」であることも多々あるわけである。
こういった特定集団の「常識」は、あらたにその集団に加わろうとするものを困惑させる。
「そんなことは、△□○をやるものにとって常識だよ。」と言われた時、そこには、言う側の人間のおごりを感じる。自分はすでに業界人だから「常識」を知っているということを主張しているようでもあり、知らない人間は、自分の属する業界の人間ではないという排他的な傾向さえ感じることもある。
何故、それが常識という判断にいたるかを説明することこそが、本来の姿ではないだろうか?
「なぜ、それが常識たりえるのか?」
「常識」ということで一言ですましてしまう人間に限って、説明できないことが多いのではないだろうか?
それは、「常識は、常識であるがゆえに常識である」ということを受け入れてしまっているからだ。
「競技かるた」のように普及を目指そうと思う場合、「常識」という言葉で新人たちへの指導をすませてしまってはいけないと思う。
囲碁・将棋の世界にも「定石・定跡」といういわゆる常識があるが、「これにて先手よし」という理由がきちんとある。こういう定石・定跡の背景を学ぶことが入門から実践にいたるまでの過程である。
そして、また、「定石・定跡」を疑ってかかることが、新戦法の発展につながるわけである。
「名人に定跡なし」という言葉もある世界なのだ。
これが、「常識」だから、こうしなさいという指導方針は、回り道をさせないメリットもある。しかし、そののち競技者として成長していく過程のどこかで壁にぶつかってしまったら、今まで「常識」と思われていたことを疑い、検証し、次のステップにつなげていくということをしなければならない。その時に「常識」にとらわれていると壁を越えられなかったり、不要な時間をかけてしまうことになりかねない。
なぜ「常識」なのかを説明し、なっとくする過程を経ながら指導する方法は、一見回り道かもしれないが、壁にぶつかった時に、はやく乗り越えられる選手をつくることにつながると思う。
早稲田大学かるた会のある選手は、左上段の一番外側に一字決まりを置く1年生に対して、「そこで取れるの?取れるのだったら、いいけど。そこだと相手に取られちゃうよ。」と言うだけで、試合の中で、おそろしく早く取っていたのを思い出す。このように経験的にわからせるというのも、一つの指導方法であると思う。(ただし、この1年生は、一字決まりを左上段の一番外側に置くのをやめなかった。自分自身の中で納得しなかったからであろう。)
この例によるように、競技かるたの場合、「常識」というものは、「自分がその札を取れる」とか「試合に勝てる」ということによって否定されうる競技である。
競技かるたを取る者として、また、かるたの後輩達に接する者として、「常識の陥穽」に陥らないように気をつけていきたいものだと思っている。