"競技かるた"に関する私的「かるた」論
番外編
“指導”の方法論(2)
〜単純化の功罪〜
Hitoshi Takano Jan/2013
単純化とは
競技として確立しているものを初心者に教えるときに、最初から難しく教えても初心者
の理解がついていかない。
囲碁でも、いきなり19路盤で始めてもというので、最近では、4路の盤で子供に教え
るという手法もとられている。
将棋の世界でも、動物将棋という子供向けの入門用のゲームがある。
こうした複雑なゲームを単純化したものを初心者向けに使うというのも「単純化」の
ひとつの在り方であるが、格言なども実は物事を単純化して使われる手法ではないかと
思う。
将棋の世界には「駒得は裏切らない」とか「二枚換えなら歩ともせよ」とかの格言が
あるが、これにもあてはまる局面とそうでない局面などTPOがあるので、TPOを間違える
ととんでもないことになる。しかし、指導に際しては、こうした格言も使われている。
格言も知れば知るほど奥深さを感じ、含蓄のあるものであるとは思うが、実際は複雑な
ものであっても、指導に際しては単純化して端的に伝えることが役立つのである。
それでは、競技かるたの指導における単純化の事例をみてみよう。
単純化の事例
私は、現代のかるたの指導における単純化の二大巨頭は以下の二つだと思う。
(A)「読まれた札を取れ!」
(B)「敵陣の札を攻めて取れ!」
(B)には以下の言葉が加わることもある。
「自陣はどうでもいいから…」
私が初心者だったころも「敵陣の札を攻めろ!」とは先輩によく言われたが、
「トモ札の別れ、同音で始まる札は…」という言葉が加わり、「自陣はどうでも
いいから…」とまでは言われなかったように記憶している。
「自陣はどうでもいいから…」とか「自陣は覚えなくてもいいから…」とまで
極端な単純化は、うちの会では1990年前後から始まったのではないだろうか。
単純化の功罪
「功」でいえば、最近のいろいろな印刷物でみると、西郷永世名人も楠木永世
クイーンも小学生のころからかるたに親しんでいるが、どちらも(A)の読まれた
札を取るというところから始まっていることである。この極めてシンプルかつ真理
をついた言葉が、大選手を生んだということになる。
わかりやすいといえば、あまりにわかりやすい点が「功」である。
「相手より早く取る」という単純化された言葉もあるが、これは相手あっての
ことなので、耳へのここち良さほど単純ではない。この言葉にも人によって
加わる言葉がある。「遅く取る。ただし、相手よりは早い程度に。」とか、
「相手より、ちょっとだけ早く取る。」とかである。こうなると、「聞き分け」や
「感じ」を早くするための練習や、「払い」のスピードアップという基礎的な練習
からやっている初心者は戸惑うだけである。言っていることはわかるが、相手が
遅い相手であれば、それでいいのかという話になりかねない。
話が逸れてしまったが、(B)のほうの「功」は、初心者に対しての競技の指針
のわかりやすさであろう。最初は、場の50枚を覚えるのも大変である。それを
相手陣の25枚に優先順位をつけるので、初心者の気苦労が減るのである。すなわち、
集中と選択を自然に学ばせることにもなるし、敵陣を取って自陣から相手陣に
自分の意思で札を送るという「利」に結びつく行動を無意識のうちに身体に叩き
こむことになるからである。
では「罪」のほうは何か。
(A)で言えば、大選手を生んではいるが、この単純化で伸びない選手もいると
いうことである。
「読まれた札を取れ」というのは、野球でいえば「ストライクゾーンに来た球は打ち返せ」といっているようなものである。一見、簡単そうに聞こえるが、実際には難しい。プロの世界で3割打者がどれだけすごいことかを見ればおわかりいただけるだろう。
かるたに話を戻そう。大選手は、最終的に100のスピードでまんべんに読まれた札を
取れるとして、伸び悩んだ選手は70のスピードまでしかいかなかったとしよう。
すると(B)の単純化で育った選手が敵陣71のスピード、自陣70のスピードで
あった場合、わずか半分のみの100分の1の差でほぼアウトなのである。
読まれたからといって、場にある札全部に対して同じに早く取るのは至難の
業なのである。
(B)の場合も、野球にたとえてみれば、打者が打つ時に、ストレートに的をしぼれとか内角に的をしぼれというように、球種やコースに狙いをさだめるということといえるかもしれない。しかし、ストレート待ちでカーブがきたり、内角待ちで外角がきたりということもありうるわけである。カーブが来るとわかっているのにストレートで待つというのもナンセンスだし、外角が来るというのに内角で待っているのもおかしい(失投はあるかもしれないが…)。
かるたに話をもどせば、差が大きく開いてビハインドを背負っている(すなわち敵陣の枚数が少なく、自陣の枚数がはるかに多いという状況)にも関わらず、
この「自陣はどうでもいい」という「攻め」をやると、確率論的にいっても
攻めの対象の敵陣は出にくくなり万事休してしまうのである。(B)で育った
選手には、先輩が怖いからというトラウマもあるようだが、臨機応変さにかける
選手が多いようにも思えるのである。
結構、最初に受けた指導の影響は大きく、しかも、先輩からの注意という
ことのプレッシャーはあとあとまでのしかかるものである。指導する側にも
工夫があって然るべきものであると考える。
単純化を有効に機能させるには
単純化の功罪の「罪」をなくし「功」をいかすことが大事であることは間違いな
い。では、それをするにはどうすればいいのだろうか。
単純化を効果的に用いるにも二つの視点があると思う。
ひとつは、指導する側からの視点であり、もうひとつは指導される側からの視点
である。
指導する側は、指導される側の成長度合いを見計らいながら、単純化された言葉
の背景なり、その意味を説明するべきであろう。きめ細かい対応が必要なのだ。
その上で、次のテーマを与える。そのときに新たな単純化したメッセージを伝えた
としたら、それについても、ある程度実践できたら、きちんと解説をいれるべき
である。
なによりも指導される側が、自分で回答にたどりつくなり、自分で気づくなり
できるようなメッセージの出し方、アドバイスの仕方が求められるように思う。
自分での気づき、自分で考えられることは指導される側にも求められる。
指導される側の視点ということでいえば、昨年SFCの授業でプロ野球のピッチャー
として長く活躍した工藤公康氏が語った学生へのメッセージを記したい。
「教わったことに対して常に疑問を持ってほしい。まずは自分に合うか合わないか
試してみて、合わないのであれば新しい方法を探すか、自らオリジナルのものをつく
り出す。ただ単に教わったことをこなすだけでは一流にはなれない」(「慶應塾生
新聞」第484号2013年1月10日発行より)
単純化された言葉はわかりやすいが、それを自分なりに消化吸収することを怠って
はならない。最後は自分で経験するなり、自分の頭で考えなければ単純化された言葉
は有効には機能しないのである。
耳には単純に聞こえた言葉も、選手自身が実際には奥深いものであったことに
気づくようになれば、単純化という指導方法も有効に機能したといえるであろう。
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