西行法師
嘆けとて月やはものを思はする
かこち顔なる我が涙かな
決まり字:ナゲケ(三字決まリ)
作者は俗名佐藤義清。北面の武士だった彼は23歳の時に妻子を捨てて突如出家する。
衣にすがる4歳になる子を縁から蹴落として出奔したという伝承さえも残る。出家の理由は、
いろいろと憶測されているが、様々に語られている諸説も実のところは憶測の域をでていない。
以来50年、歌と旅の人生を過ごす。「願わくば花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」
と歌ったその願いのとおりの時期に亡くなったという。
百人一首の中では、西行はビッグネームの一人である。旅に生きた漂泊の歌人には様々な伝説が
残る。頼朝にもらった銀の猫を通りすがりの子供に与えて去っていったなどというのもその一つで
あるし、旅先で子供にやりこめられて来た道を戻っていくという伝説の場所も全国にあるという。
西行の歌は、当時からも評価が高かった。「生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなんど
すべき歌にあらず。」と言い、「こころもことに深い」という評価をしたのは、かの後鳥羽院で
あった。和歌にうるさく定家のことさえけなす帝王後鳥羽の評価だけに価値があるように思う。
さて、この歌の意味をみてみよう。
「嘆け」と言って月が物思いをさせるのか、いやそうではない。本当は恋のゆえなのだが
月が物思いさせているように月にかこつけて涙を流しているのだ。
この歌は、千載集の詞書によると「月前恋といへるこころをよめる」という題詠であった。
漂泊の歌人のイメージと題詠というのはいささか合わないような気もするのだが…。
この歌を撰んだ定家には何かしらの意図があったのだろう。いったいその意図はなんだったのだ
ろうか。
まあ、定家の意図はわからなくてもよい。私にとって西行との出会いは、百人一首といっても
最初は坊主めくりだったが、その次は、西行法師という相撲甚句だった。内容は、西行が東国に
行く途中で熱田神宮に立ち寄ったということで始まる。西行が熱田神宮で「こんなに涼しいこの宮
を誰が熱田といったのか」という問いに「東に行くのになぜ西行というのか」「こんなに赤い花を
誰が葵と名を付けた」というような事柄が続いていく。
そんなたあいもないことの繰り返しが、それはそれで面白いのだ。
百人一首の作者との百人一首以外のところでの出会い。そして、その意外性と意外性ゆえの興趣。それに初めて
気づいたのは、この相撲甚句「西行法師」との出会いからだったかもしれない。
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2008年4月17日 HITOSHI TAKANO