道因法師

思ひわびさても命はあるものを
   憂きに堪えぬは涙なりけり


決まり字:オモ(二字決まリ)
 子供のころ初めて接した百人一首の札は、田村将軍堂の札だった。この札で坊主めくりをすると、 後ろ向きに描かれている坊主の札があった。その一枚が、この道因法師のであった。
 坊主札が後ろ向きだと、まるで「のっぺら坊」のようである。それで印象に強く残ったのである。
正直、絵師の手抜きとも思えてしまう。姫の札の場合は、後ろ向きに描く理由は、美しさゆえ「絵にも 描けない」というのがあるが、それでも、顔は描かなくとも、着物などには様々な色彩を用いている。 しかし、坊主の場合は、袈裟なので、色使いは少なくてすむので、顔さえ描かないとなると、絵師として の腕のみせどころがないのではないだろうか。

 作者の道因法師は、俗名藤原敦頼、出家の時期は、80歳を越えてからという。
 歌に対する情熱はすさまじく、様々な逸話に彩られている。
 「秀歌詠ませたえ」と70歳を越えるまで住吉の神に毎月祈りに言ったという話もその一つである。
 また、俊成が千載集の撰歌の際に18首入れたところ、俊成の夢に現れて涙を流して喜んだので、 俊成はさらに2首追加し、20首としたという話も伝わっている。
 老齢になっても、耳が遠くなっても歌合に出席し、講師の座の脇にぴったりとついて熱心にその話を 聞こうとしたという話も、道因の歌に対して熱心な逸話からはうなずけるのである。記録では90歳に なっても歌合の席に出ていたとのことである。

 しかし、歌に対する執着のあまり、周囲からは困った老人だと思われていた節もある。
 自分の歌が歌合で負けたことで、判者の藤原清輔に自分の歌に非がないことを書き付けた書状を送り つけたり、歌合に呼ばれなかったことに腹を立て、抗議の歌を主催者に送ったりしている。

 是非はともかく、歌に対する情熱と執着心が、長寿のエネルギーとなったのかもしれない。

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2008年4月18日  HITOSHI TAKANO