皇太后宮大夫俊成
世の中よ道こそなけれ思ひいる
山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
決まり字:ヨノナカヨ(五字決まリ)
定家の父、63歳で出家し、釈阿と名乗った。91歳の長寿であった。御子左家の幽玄の歌風を
確立したと言われる。御子左家は、道長の六男長家を祖とする家である。御子左とは、醍醐天皇の
子の兼明親王が源姓を賜り左大臣だったので、御子左と号し、その屋敷も御子左と称されていた。
長家は、この屋敷に住み、御子左大納言と呼ばれていたことから、以後、御子左家と称されるよう
になった。俊成の父は権中納言俊忠であり、自身は正三位皇太后宮大夫という官で終わった。
子の定家は、俊成の父の官の権中納言までは昇進した。俊成の望みは、家祖の長家の権大納言の官に
復することであったようだが、この望みがかなったのは俊成の孫、為家の代になってからであった。
しかし、俊成の91歳の長寿により歌壇での地位を長く保ったことが、子や孫の出世に力になった
のである。
歌の意は、「この世の中は逃れる道もないものだなぁ。世を逃れて山の奥に入ったが、鹿が鳴いて
いるのだ。」という意味だろうか。しかし、これでは意は尽くせない。言葉を補わなければならない
だろう。
世の中は、浮き世というより「憂き世」であろう。そして、鹿の鳴く声は、悲しい声でなければ
ならない。逃れて入ってきた山の中でさえ、悲しい声で鳴かざるをえないそんな世界なのである。
世を逃れたいという思い、そして、隠遁の山奥でさえ鹿の悲嘆にくれる鳴き声、結局は浮き世
(憂き世)からは逃れようがない。30歳前の歌である。俊成は、その若さですでにこんな思い
を持っていたのであろうか。そこには、現世での昇進への思いと、そうしたものから逃れたいという
思いが而立の歳を前にした俊成の中で錯綜していたのであろう。そんな俊成にとって歌は、現世を
生きる術のひとつであったのか、それとも現世を逃れた際の友の如きものであったのか。おそらく、
歌は俊成にとって、その両方であったのだろう。
百人一首から離れるが、俊成といえば、平家物語の薩摩守忠度の都落ちの段が思い出される。
平家物語の名シーンの一つであると思う。その一方の主役が俊成である。俊成は、武人であり
ながらも歌人としての忠度の思いを受け止めるのである。
平家物語は語る。詠み人知らずとして俊成が勅撰集におさめた歌は、「さざなみの志賀の都は
あれにしを昔ながらの山桜かな」であると。
「さざなみの」は「しが」の枕詞。志賀の都とは、百人一首冒頭の天智天皇の都「大津京」で
ある。
平家の没落とあれはててしまったいにしえの大津京は、絶好の対比であろう。それは、平家の
没落は、源氏との戦によるものであったし、大津京といえば、壬申の戦乱で敗れたがゆえに荒れて
しまったことをイメージさせるのである。
長くなってしまった。まとめよう。
俊成の存在は、定家にとっては親であるとともに歌道の先達でもあったのであろう。俊成の歌が
「山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」であったことは、猿丸太夫の「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の」を思い
出させずにはおかない。ゆえに、この鹿の声は悲しい声でなければならないのである。詠み人知ら
ずの歌を「猿丸太夫」として撰歌し、それと共通の趣の歌を父親の歌から選ぶ。そう考えると
猿丸太夫とは、きっと何か現在には伝わっていない何かを秘めた歌人なのであると思えてくる
のである。
そして「鹿」。平仮名で「しか」。当時は濁音でも濁点など書かないから、「鹿」も「志賀」
も、音はどうであれ仮名で書けば「しか」なのである。忠度のエピソードからもイメージされる
のだが、この二つの歌のキイワードが「しか」であるならば、そこには壬申の乱以降荒れていった
天智天皇の大津京=志賀の都が隠されているのではないだろうか。
だからこそ、荒れ果てた志賀の都は悲しく鳴かなければならないのだ。
百人一首の鹿には、大津京=志賀の都の意味を投影してみる。そうすると冒頭に天智天皇が置か
れていることに、最初と最後に親子の天皇を置いたこととは別の意味が見えてくる。
鹿の歌を通して、冒頭の天智天皇に荒れ果てた志賀の都を象徴させれば、当然、百首めの順徳院
の歌の「百敷や古き軒端の」という荒れた宮のイメージと、見事に平仄をなしているのである。
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2008年4月15日 HITOSHI TAKANO