「将棋」と「かるた」

Hitoshi Takano Mar/2000

祝1年

 1999年の3月から、この「かるた」に関するTOPICを雑記帳的に書き始めたわけだが、 当初の目標としていた毎月1本の月刊化を実現でき、ホッとしている。はたして、この ペースはいつまで続けられるだろうか?
 それはさておき、さっそく今月の話にうつろう。

発端

 私は、競技かるたのプレーヤーであるとともに、将棋ファンである。指し将棋は弱いが、 「週刊将棋」や「将棋世界」などの愛読者であり、「次の一手」などに回答を送って得点 を貯めていた時期もある。
 このTOPICの第1号記事にした名人戦改革私案でも、将棋のシステムをずいぶんと参考に させてもらっている。マスコミとの係わり方、メディアの利用方法、普及のあり方など、競 技かるたの普及・発展を考える上で将棋界というのは、非常に手本になるのだ。もちろん、 社団法人としての歴史は、日本将棋連盟の長さに比べれば、全日本かるた協会はまだまだ短い し、プロの組織とアマチュアの団体という違いもある。競技人口の数も大きく引き離されてい る。しかしながら、競技の面白さでは、決して負けてはいないと思う。だからこそ、さまざま な意味で参考になるのだ。
 さて、今回の話は、将棋界のあり方を参考にしようという話ではない。ただ、単に競技かるた の様々なシーンを将棋的表現で述べてみようかなという話である。
 何故こんなことを考えたかという発端は、数年前にNHK衛星放送の競技かるた名人戦でゲス トで出ていた内藤國雄九段が、札の配置を見て、「端の札を見ていると1筋の駒に見えてくる」 というような内容を話していたことによる。
 この一言でイメージがひろがったのだ。
 「俺のかるたは、将棋でいえばフリアナ(振飛車穴熊)かな」と何故か感じたのだ。
 おそらく将棋を知らない方にはわけのわからない話かもしれないが、興味のある方はしばらく お付き合いいただきたい。

矢倉

 相矢倉戦は、将棋の世界では「純文学」と評されていたこともある戦法である。24手組と いわれる手順が続き(少々古いかな?)、いったん開戦すると展開が激しい。プロの試合では 先手勝率のほうが統計的に高いので、後手は相矢倉を嫌う向きもあるようだが、後手が相矢倉 戦で渡り合う姿には後手の自信や決意といったものが感じられる。何より、相矢倉の組み上が りには、駒組の美しさを感じる。
 私が父から最初にならった囲いが、矢倉囲いだったせいもあるかもしれないが、矢倉という と保守本流、本格派といったイメージが浮かんでくるのだ。
 競技かるたで、相手陣の右下段を攻め合い、抜き合う攻めかるた同士の戦いというのは、私 に相矢倉戦のイメージを想起させるのだ。おそらく、私の中に「本格派」といえば、右下段の 攻め合いというイメージがあり、この「本格派」というイメージで結びつくのだろう。

振飛車穴熊

 自分のかるたをこう感じたのは何故だったのだろうか。
 私は敵陣の右下段を抜く力が弱い。しかも、自陣の左下段の守りも弱い。したがって、自陣 右である程度札を減らさなければならない。この自陣右側で守るイメージが、振飛車穴熊のイ メージに結びつくのだ。そして、敵陣右への攻めが弱い分、敵陣の左を攻めなければならない。 このイメージが、さばいた結果、右に引きつけた飛車の縦への利きのイメージがある。この時 の相手は、もちろん居飛車で玉を1一とか2二あたりで囲っているイメージである。すなわち、 居飛車と振飛車の対抗型である。
 まあ、勝手なイメージなんで、将棋を知っているかるたプレーヤーからは、非難も出そうだ が…。

空中戦

 空中戦法というと内藤九段の得意戦法である。大駒が盤の中央で舞う華麗な戦法といわれて いる。敵陣の上段中央にも自陣の上段中央にも札があり、そこの札を華麗に取り合うような 展開は、まさに空中戦という名がふさわしいと思う。
 私は上段中央に札を置くのだが、最近の対戦相手で上段中央に札を置く定位置の競技者が少 ないので、ここしばらく空中戦はお預けになっている。しかしながら、私自身は上段中央の札 の取りは「5五の位は天王山」のつもりで、たとえ自陣にしかないとしても重視している。

三手の読み

 「自分がこう指す。すると相手はこう指してくるだろう。そこで、こっちはこう指す。」と 三手先までを読むのが、将棋の読みの基本である。わたしなどは、自分の都合のよいひとりよ がりの読みをしてしまいがちである。これを勝手読みという。
 競技かるたの場合は、札の詠まれる順があるので、まさに勝手読みのオンパレードだが、詠 まれる札を読むことよりは、札の送り順を読むことをする。暗記時間に自陣・敵陣を覚えた後 で、「敵陣を取ったらこの札をわけて、次にこの札、その次はこれだ」と三枚くらいは送り札 を考えておくものだ。これだけだとあまり「読み」という言葉は適切でないかもしれないが、 同時に「相手が、こっちの札を取ったら、まず、あの札を送ってくるだろう。そして、次はあ れ、そしてそのあとは、きっとあの札に違いない」と同様に三枚くらいは読んでいるものだ。
 札の出方によって、軌道修正はしょっちゅうだが、この三枚の読みというのも三手の読みに 匹敵するものと思っている。相手の送りの読みがあたるということは、相手分析がうまく進ん でいるという証左であるからだ。
 詠みの間のインターバルで、送りを読み、詠みが始まったら札を取ることに集中する。この メリハリは重要であると思っている。特に終盤の詠み順の読みは、確率論的にいえばナンセン スだが、なぜかやめる気にはなれないのだ。インターバルでは詠み順を読み、場の札に優先順 位をつけた取りを考え、詠み開始とともに詠まれた札を取るべく音に集中する。音に集中して 取れても優先順位付けがあたって取れても、嬉しいものだ。しかし、終盤に読み筋のとおりに 実戦が進むのは、終盤に詰み筋を見つけた時の快感に似て、音に集中して取れたと感じるより もはるかに刺激的である。

大局観

 将棋では、大局観は重要だ。駒の損得や玉の固さ、終盤になれば寄せのスピードなど、いろ いろな要素からなる。それでいて、大局観にも個性が光る。
 競技かるたの世界でも、大局観はある。そして、この大局観は競技者によっても異なり、個 性を演出する。競技かるたの大局観は、将棋よりも感覚的かもしれない。それは、おそらく札 の詠まれる順で変化する部分とか、詠まれた札を取り続ければ大逆転も可能という競技の性質 にもよるだろう。勝敗の流れを感じ、自己の大局観に従って一枚の札を送ったり、守りを強め にしてみたり、積極的に攻めてみたり…。
 最初に無作為に選んだ25枚の札を並べて暗記を開始したときから、大局観は発動している。 「あ」札が多いとか、2字決まりが多いとか、3字のわかれが多いとか、右に札が偏ったとか、 中段が長いとか、並べた時点で感じるのである。これが、札が詠まれるにしたがって変化する のだ。序盤で差をつけられても、決まりの短い札への響きがいいので中盤で差を縮められると か、お手つきが多いが、決まってくればお手つきも減るし、相手のスピードに負けてはいない とか…。リードしていても、形勢不利と認識することもあれば、その逆もある。悲観的すぎる 場合もあるし、楽観的すぎる場合もある。「すぎる」場合というのは、自分の大局観が状況の 判断をキチンとできなかったということにすぎないのだが。
 良きにつけ悪しきにつけ、自分の大局観を信じ、終了後は試合全体を俯瞰し、大局観のふり かえりをすることは上達に必要なのだ。

感想戦

 「大局観のふりかえり」ということを書いたが、これを相手と行うことが感想戦といえよう。 局面の分析、読み筋の紹介など、個人でやるとひとりよがりになってしまう部分を相手と行うこ とに意義がある。
 将棋の感想戦の重要性は、とみに言われることだが、かるたの感想戦だって大切なのだ。

終息

 ややまとまりにかけ、牽強付会の誹りを免れないが、雰囲気でも伝わればと思う。
 競技かるたは、こうして様々な競技と比較し、共通点を見つけ、学ばねばならないことは学 んでいかなければならないのだ。
 謙虚であることが、発展・普及にも必ずつながっていくのだと思っている。

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