新 TOPIC

「芸のない送り」

〜口癖〜

Hitoshi Takano May/2024

 「芸のない○○」とは、私の口癖の一つである。
 競技かるたで、相手陣に札を送るとき、特に相手から送られてきた札をすぐに送り返すような場合、私は思わず「芸のない送りだなあ」とつぶやくことがある。 できれば、他の送り候補札を送ってから、そのあとで送り返すことをしたいということがあるためである。 それは、送り札の引き出しはいろいろあるんだということを相手に知らしめるという意図でもある。
 相手が、送られて嫌な札を送るという観点や場を複雑化する観点なども送りの要素であり、すぐに送り返すことがこれらの観点に適合するケースであることは 最終盤はともかく、序盤・中盤・終盤の入口くらいまでは少ないという感覚を持っているからということもある。
 だいたい、送りには現在の攻めがるたといわれる文法の中でのセオリーのようなものがある。 いわゆる「とも札」が自陣にあれば、一枚を敵陣に送って攻めにいくというパターンなどがそうである。
 これは、戦術的には決して「芸のない送り」ではない。
 私などは、前半でできるだけ、自陣にある「とも札」の片方を送って自陣を整えていくということをもっぱらにしている。 そうでない意表をついた送りをして「奇をてらい」たいという気持ちがないわけではないが、そこは我慢して着実にセオリーにしたがった送りをする。 そうするとセオリーに従うという「芸」のある送りにも関わらず、相手から予測されているだろうなという思いから、こうした送りまで「芸のない送り」に思えてくるから不思議だ。
 ただし、このケースは心で思うだけで口には出さない。
 そもそも、こういう私語は競技中は慎まなければならない。したがって、試合などでは声にだすことはない。 しかし、気の知れた仲間内の練習では、「芸のない送り」とつぶやいたり、声に出して送ることがある。

 もちろん、相手から送られた札をすぐに送り返す時である。
 あと、セオリーから言って不自然ではないが、敵陣と自陣で別れている「とも札」を敵陣で抜いて、自陣にあるその「とも札」の片割れの札をすぐに送るときも、 なんとなく「芸のない送り」と感じてしまう。
 相手からの予測確率の高い送りであるからという理由ではあるが、、、
 先々月の対戦で、そのパターンを避けようと対象札の1枚上にある札を送ったところ、自分自身も即時の送り返し(私の言うところの「芸のない送り」)を予測していて、 直後に読まれて、送られたものとして自陣を払ってくれて、相手がダブのお手つきをしてくれたケースがあった。 私は送らなかった札を自陣で取り、「芸のない送り」をしないでよかったと思ったものだ。
 逆に自分も、相手の札の送りを予測して、同様の勘違いをしてしまうこともあるし、まだ、わけていない自陣の「とも札」の片方を送った気になって、敵陣を攻めにいってしまうこともある。 これは、良く練習する相手で、相手の定位置もある程度把握している相手と取るときにおこりがちなミスである。
 「芸のないミス」と言えるかもしれないが、「芸のありすぎるミス」とも言えるかもしれない。
 さて、競技における「芸」、いいかえれば「個性の発現」というものは大事な要素のひとつであるとは思うが、それをすることで負けてしまっては元も子もない。 勝利を得るために今日もまた「芸のない送り」を続けるのである。

 ここで話題が変えようと思う。
 最近「知の編集術」--発想・思考を生み出す技法--(講談社現代新書)という本を読んだ。 著者は、松岡正剛編集工学研究所所長で、2000年1月第一刷で私が手にしたのは2020年2月発行の第28刷であり、 長いこと読まれている書籍である。
 テレビなどで著者を見たことがあるし、編集工学研究所という名前も聞いていたのであるが、編集と工学という 言葉が今一つ自分の中で繋がらなかったのであるが、本書を読んだことで腑に落ちた。
 「編集」という言葉の持つイメージが拡がり、深いものだということを知ることができたわけだが、 競技かるたにも、編集という作業が関わるということに思い至ったので、少し書き留めておきたいと思ったのだ。
 本書には、「情報」と「編集」の関係性について述べている部分があるが、私自身は、競技かるたの一面は、「情報」にあると思っていた。 その点から、すんなりと競技かるたの一面には「編集」があるということが腑に落ちた次第である。
 本書の帯にも「情報を使いこなすノウハウの決定版」とあることからも、「情報」と「編集」の親和性には想像がつくのではないだろうか。

 競技かるたという競技は、情報の塊だ。百枚の札のうち、自陣にある25枚、敵陣にある25枚。何があってどう配置してあるか? これらも情報であるし、札が読まれていく順番も情報であれば、読まれる札の音そのものも情報である。 そして、読まれた札(音)に対して、相手がどう反応するかも情報である。
 こうした情報をインプットし、自陣に札をどう配置し、送り札が生じた時にどの札を送るかということが、まさに編集作業に該当する。 一歩踏み込めば、その情報によってどういう戦略を立てるかということも編集作業に加えることができるだろう。
 これは、一試合の中での情報と編集であるわけだが、団体戦での相手チームの並び順を予測しつつ、自分たちのチームの並び順を決めることも編集作業といえる。 リザーブ選手を何試合目で投入するかなども編集作業にはいる。そして、そのためには、予測の材料や判断の材料となる相手チームの情報を得ておかなければ、 効果的な編集はのぞめない。
 そして、自らの編集作業は、相手に情報を与える事にもつながる。
 まさに、競技かるたは「情報」と「編集」のゲームといっても過言ではないような気がするのである。

 前半に書いた「芸のない送り」も、「編集」であり「情報」である。
 そう考えると「芸のない送り」にも実は「芸」があり、立派な「芸」の一つなのではないかと思えてくるのである。


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