引退って何だ?

Hitoshi Takano JUN/2001

引際の美学

 正月にTVを見ていた。プロレス番組だ。昨年、引退をかけて小川直也と対戦すると言って、敗 れた橋本真也がリングにあがって長州力と対戦していた。橋本は、小川に敗戦ののちファンの復帰 運動でリングに戻ってきた。今回は新日本プロレスから解雇というおまけもついていた。
 プロレスの世界は、独特の世界観が形成されており、その中でファンも楽しんでいるのでとやか く言うつもりはないが、「引退」に関しては非常に不透明であるように思う。長州力だって過去に 引退を宣言して一度はリングから降りたのではなかったか。引退試合に感動したり、「引退」をか けた勝負だというゆえに熱くなって試合を見ていた人間としては、一度は引退した選手が、リング であいまみえているのを目の当たりにすると多少興ざめの感がある。
 でも、いい。これがプロレスなのだ。大仁田だって、リングに復帰したし、女子プロレスでも引 退後に復帰した選手は多い。ルー・テーズだって、たしか引退したはずなのに60歳を越えてリン グにあがっていた。かようにプロレスラーの引退というのは不透明だ。
 その点、ジャイアント馬場は生涯現役を貫き、死という形でのピリオドまで、一度も「引退」を 興業の道具につかわなかったのは瞠目に値する。
 ボクシングも最近では、一度引退したのちに階級(ウェイト)をあげて復帰するケースが出てき た。階級をあげて上のウェイトで試合するならば、引退しないでそのまま階級変更でもよいのでは ないだろうか。
 プロ野球の場合は、自由契約となって他のチームがとってくれない場合は、基本的には本人が引 退と言わなければ事実上の引退ではあっても建前上は引退ではないのだろう。自由契約以外には任 意引退という所属球団との関係に縛られる形の「引退」はあり、これは旧所属球団が認めなければ 現役復帰はありえない。王貞治や長島茂雄は、まだ現役としての余力を残した引退だったと言われ、 引き際の美学を実践したと言われる。野村克也は、「生涯一捕手」として長く現役でいることを選 んだ生き方をした。これもスポーツ選手としての一つの引き際のあり方だと思う。以前には引退し て5年してから現役復帰したピッチャーがいたかと思うが、これは現役への未練というべきなのだ ろうか。
 相撲の場合は、横綱の場合と大関以下の場合で引き際のあり方が違う気がする。大関以下の場合 はボロボロになるまで相撲を取ってもあまり批判は受けないようだが(大関は十両に落ちる前に、 幕内優勝経験者は幕下に落ちる前には引退するようだが…)、横綱は余力を残した引退が潔いとさ れるようだ。もう一場所、もう一場所と休場を繰り返してつつ結局は引退した隆の里などは、結構 批判を受けていたように記憶している。しかし、本人は納得がいかなかったからこそ、再起をかけ たのだろう。これはこれで本人にとっては引き際の美学であるかもしれない。そして何より、相撲 界には、引退後の現役復帰がないのがわかりやすい。しかし、財団法人日本相撲協会に残れない場 合は引退とは言わずに「廃業」という。意味はわかるが、個人的には語感に好感がもてない。
 将棋の世界では、順位戦のC級2組から降級点を3つとって10年もしくは60歳に達すると自 然に引退である。もちろん、級によらず引退することは可能であるが、結果が出せなければ引退が 早くなるという制度は厳しいし、素人目にも明解である。中原誠十六世名人資格者がA級から落ちた 時には、「引退」説も流れたが現在も現役を続ける姿には、本人の自信が垣間見られる。もう一花 咲かせることができれば、晩節を汚すことになるから引退すべきという批判は封じられることだろ う。
 引き際の美学という場合、このように余力を残してやめる、すなわち晩節を汚さないでやめるこ とが美学のようにいわれるが、ボロボロになるまでやるだけやってからの引退も、当人にとって納 得がいき、ファンの共感を得られるのであればで立派に引き際の美学であるといえるだろう。
 ただし、願わくは、引退は一度きりにしてほしい。芸能界などでも「引退」のあとの復帰を見る ことがあるが、引退コンサートに涙したのは何だったのかと感じざるをえない。解散と引退は違う が、「普通の女の子に戻りたい」といって解散したら、ソロ歌手であろうと女優稼業であろうと芸 能界には復帰しないでほしいというファン心理もあるのだ。

アマチュアに引退はない

 さて、長い前ふりであったが、ここは「競技かるた」について述べる場所である。「かるた界」 に目を転じよう。
 競技かるたをやっていた高校生が大学に進学し、進学した大学のかるた会に入らないかと声をか けると「僕は、かるたは引退しましたから…」といって断るケースや、大学生が卒業するときに、 「今度の学生選手権で引退です」などというケースが見受けられる。はたしてこれは引退なのだろ うか。
 しばらく競技かるたの試合にでないとあの人は引退したようにも言われたりする。全日本かるた 協会の社団法人化により、会員名簿の管理はずいぶんと整備された現在、名をなした有名選手が登 録されていないと「引退」の噂が出たりする。
 たしか以前、段位制度の解説で、現役は8段までとするという文言を見た気がする。その後9段 を允許された選手の名前を見て、これって現役引退なのかと思ったものである。しかし、9段の方 も公式戦に出場し続けており、現役は8段までとするというのは、「原則論」にすぎなかったのか と認識しなおしたこともあった。
 基本的に「競技かるた」にプロ組織はない。選手は、他に本職(本務)を持つアマチュアである。 たとえ、精神的本職が「競技かるた」であり、日々の糧を得るための仕事は、世間的には本職とい われようが自己の中では「競技かるた」をするための手段にすぎないという人でも、プロ制度がない 以上アマチュアなのだ。
 「アマチュアには引退がない」という言葉がある。アマチュアスポーツでも現役引退ということを 表明する場合もある。これは、公式競技に出るのをやめましたという程度の意味である。最近では、 フィギアスケートの選手がアマチュアを引退し(この表現が適切かどうかは疑問)、プロに転向した あと、再度アマチュアに戻って公式競技に出場というようなケースも出てきて、さっぱりわけがわか らなくなってきているが、私は単純にこの「アマチュアには引退がない」という言葉が好きだ。自分 自身も競技かるたの選手としては生涯現役であり続けたいと思っている。
 私は仕事柄、大学生に接することが多いが、大学にはいったばかりで「かるたは引退しました」と か、社会人になる前から「かるたは引退します」とか言わないでほしいと思う。「引退」という言葉 は、今でもやはり重い言葉だと感じるのだ。本人の「引退」の意志をとやかく言うつもりはないが、 大学に入ってから、急にかるたが取りたくなったり、社会人になって仕事の息抜きにふと札を跳ばした くなったりすることがあるかもしれない。そのときに自分自身で「引退」の言葉に縛られてしまっては もったいない。「引退って言ったって、かるたがしたくなったらしますよ」と最近の若い人は言うかも しれない。しかし、日本はいまだに言霊(ことだま)の国である。「引退」の言葉にしばられないとは 限らない。
 「高校時代、競技かるたを集中してやってきたので、大学では違うこともやってみたい」とか「大学 時代は十分に練習をすることができたが、社会人になってからは練習さえできるかどうかわからないの で、かるたが取れる環境ができるまで、しばらくは競技生活は休みます」という表現をすれば、なにも 「引退」という言葉を使わなくてもよいではないか。

 もう一度記す。
「アマチュアには引退はない!」


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