「カン」に感じること

Hitoshi Takano Aug/2001


 このTOPICは、一度トラブルで失われてしまったものである。2001年8月のオリジナルは なくなってしまった。
 しかし、当時を思い起こして、少し書いてみようと思う。(2011年ある夏の日に記す)


 かるたをとっていると、今日は「カン」が冴えていたとか、今日は「カン」がよかったと いう表現をすることがあるかと思う。
 曰く、「出札が光ってみえた。」「出札が手招きした。」「出札が微笑んだ。」などなど…。

 勿論、本人の主観であり、そんなことが起こりうるはずもない。

 また、友札が敵陣と自陣でわかれているとき、普段であれば、敵陣から攻めるものを 何故か自陣を守ってしまうが、そんなとき自陣が出ることが多かったり、その逆で、 たまたま攻めたときに敵陣の札が出るなど、「こっちが出ると思ったよ」とでも 言いたくなるようなときもあるかもしれない。
 こうした時も、今日は「カン」があたったよなどという表現を使うことになるだろう。

 しかし、「カン」はあくまで「カン」であり、確率論の世界はゆるがないことを認識して いなければならない。

 ただ、「カン」が冴えていると思えるときは、総じて競技かるたの調子の良い時である。 そう思えるときは、確率論は確率論で頭の隅っこにでも置いておいて、その「カン」を 最大限いかせばよい。練習を熱心に続けていると、知らず知らずのうちにこういった「カン」 のようなものが働くことがあるものだ。ひょっとすると、本人は気付いていないだけで、 読みの癖のようなものを感じているのかもしれない。

 野球において、ピッチャーが次になんの変化球を投げてくるかわかるということを 「カン」だと思っていると、実は、微妙なピッチャーの投球フォームの違いに気付いて いたなどというのと同じことが起きている可能性もある。

 自己の調子がいいことを「カン」が冴えているで、調子の波に乗れればそれはそれで よいが、調子が下り坂になった時には、今日は「カン」が冴えない、今日は「カン」が 悪いで片付けてはならない。そこには、何か原因があるはずだ。その原因を究明しない と、調子を取り戻すのには時間がかかることだろう。

 「カン」に感じること。それは、調子の悪さを「カン」が働かないことのせいにしない ことと、「カン」が冴えていると思ったときには、確率論は頭の隅に置きながら、その 調子の良さを自分自身の武器にすることの大切さである。


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