先憂後楽の悲劇

Hitoshi Takano OCT/2002

 「先憂後楽」という言葉をご存知であろうか?
 広辞苑によれば、「天下の安危について、人より先に憂え、人より後に楽しむこと」と記されている。志士や仁人のあり方を示した言葉であるが、元の意味はともかく、競技やスポーツの世界では、「まず、練習において苦労して、その後に試合などの結果において楽しめ」というような使われ方をする言葉でもある。ひどい話しになると「今、苦労しておけば、あとで楽できる」というような意味に使う人もいる。

 さて、この言葉、実際に行うとなる永遠に「楽」は来ないで、「苦」が来るような気がする。
 元の意味の「天下の安」は果たして来るのであろうか?「天下国家」を考えれば、常に「天下の危」が浮かび上がってくるのではないだろうか?「今、天下は安泰である」などと考えることこそ、「危機」を呼びこむようなものではないだろうか?

 競技スポーツに携わる人達にとっても、ある意味で「現役」を引退するまでは「苦」の連続であるし、たとえ優勝して一瞬「楽」が訪れたように見えてさえも、競技を続けていく以上は、次は追われる立場であり、「苦」を続けなければ、栄冠は守れない。引退しても、指導者として競技に関わっていけば、同じである。まったく、足を洗わなくては、「楽」は来ないのではないだろうか?

 先ほど、ひどい話しになるとといった「今、苦労しておけば…」などという考え方をする人間は、常に苦労をしつづける。そういう人は、結局、後で楽しようなどと思わない。現在の努力(苦労)は、未来の「楽」の保証にはならないからだ。
 するとどうなるか?後先見ずに楽しむヤカラは、いつも楽しみ、「先憂後楽」の士は、常に「苦」の中に身を置く。

 「先憂後楽」という言葉は、まさに人々を「苦」や「努力」の中において、それを良しとする言葉ではないだろうか?

 孔子は、中国の聖代の理想の政治のあり方を解いた。そういう体制になれば、全人民が「楽」の中に身をおけると考えたかもしれない。
 孔子の性善説は有名だが、本当は、孔子は「人の性は善ではない」ことを知っていたのではないだろうか?だから、あえて、「人の性は善だ」と説いて、それを浸透させた。人が、そう思うことの力により善になると信じて…。
 そう思うと、儒教というのはすごいものかもしれない。忠や孝などは、人はできない。しかし、できないことを人が持っている性質だから、本当はできると思わせ、しかも、それが正しい規範だとすることで、人の思いの力によって、理想を実現しようとする。
 「先憂後楽」は孔子の言葉ではないが、儒教的な思想の中に位置付けていい言葉であろう。これにしても、できないからこそ、あるべき姿としての言葉なのかもしれない。

 「競技かるた」という競技に関わる者として、本来の意味とは少しはずれてしまうかもしれないが、「競技」に生きる場合のこの言葉の意味を肝に命じたいと思う。

 人の本性は、楽して強くなりたいのだから…。


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