煩悩がカルタを取る

Hitoshi Takano DEC/2002

 12月といえば、師走。師も走るとは、「法師」も走るというほど忙しいともいうが、「師走坊主」という言葉もある。法師とは、百人一首にも馴染みのキャラクターである。法師がいるところは、庵に住むもの旅に生きるものなどもいるが、普通は「寺」であろう。12月→師走→法師→寺とくれば、あとは連想ゲームである。寺→鐘→除夜の鐘→煩悩とは続かないであろうか。

 大晦日の夜、除夜の鐘は、人の持つ百八つの煩悩を除くために百八つ打たれるという。

 そもそも「煩悩」とは、「衆生の心身をわずらわし悩ませる一切の妄念。」(広辞苑)だそうだ。「貪、瞋、痴、慢、疑、見」を根本とし、種類は多く、百八煩悩というのも数の多さを象徴しているわけだ。

 学生時代、「おまえは、煩悩がカルタを取っている」と言われたことがある。対戦相手の女性の胸の大きく開いたTシャツが構えた時に目のやりどころに困るとか、ホットパンツで太股もあらわな格好で構えられるとこれまた目のやり場に困るなどと言うことを言ったことに対する反応である。

 しかし、煩悩の種類は多いのだ。人を悩ませる問題はこればかりではない。「勝負に勝ちたい」、「強いやつがうらやましい、ねたましい」、「このお手つきに相手が気づかないで欲しい」という感情、対戦相手のミスを願う気持ち、団体戦でのチームメイトへの非難の気持ち、こうしたことすべてが、煩悩なのではないだろうか。

 そう考えると、競技かるたというのは、まさに人間の「業(ごう)」そのものの競技ではないだろうか。人の「業」、そしてそれに付随する「煩悩」。まさに、人が行う競技であるがゆえに「煩悩がカルタを取っている」のである。

 競技かるたの会場で、お寺をお借りする場合も多い。お寺は僧侶の修業の場でもある。人がまず、煩悩を知ることが修業の第一歩であるとしたら、競技かるたもその修行の一手段であることだろう。

 年の瀬の連想から、こんなことを考えてしまった。

 ちなみに、今回は仏教系の話しに終始してしまったが、私は熱心な仏教徒ではなくキリスト教徒である。


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