120%(?)

Hitoshi Takano OCT/2003

 少し前のことになるが、あるTV番組を見ていたら、「120%のものを見せてほしい。」とか「120%の力を出してくれ。」という言葉が、企業の現場でよく使われていた。
 私は、この言わんとしているニュアンスは理解できたが、120%という言葉に違和感を感じた。
 「普段持っている力以上のものを出せ」ということなのだろうが、120%の力を出したら、それがその時の100%であるはずだ。まあ、そんな言葉の綾はどうでもいいが、力以上のものを出すと言うことは、それなりに負荷をかけることもたしかだろう。伸びきったゴムは切れるしかないし、バネも一定以上の力で引っ張れば、伸びきってしまい。バネとしての機能を失ってしまうのだ。

 そもそも、120%などという言葉がはやり始めたのは、いつのころなのだろうか?
 わたしの感覚でいうと、宇宙戦艦ヤマトで、波動砲を打つ時の「エネルギー充填120%…」という台詞あたりから、120%という言葉が定着したのではないだろうか。将棋の塚田泰明九段には、塚田スペシャルという戦法があるが、キャッチフレーズは、最初は「攻めっ気100%」だったが、その後「攻めっ気150%」までにバージョンアップした。これなども、強調という意味合いが強いのだろう。また、電車の乗車率などでは200%というような言い方をされることがあるが、これには車両に定められた定員があり、それを上回る場合の表現であり、この乗車率が100%から多くなればなるほど混雑し、満員電車の乗客の不快感につながるわけである。エレベーターの定員は、人数と重量で示されている。重量オーバーのブザーが鳴るのは、示された制限重量に対して100%だからなるわけではない。110%をこえないと鳴らないということだ。安全のために余裕のある表示をしているのだろう。
 昨今、社会においても仕事の現場で120%を求められることも多いが、そんな風潮が、過労死を産んだり、精神的疾患に結びつく例もあるのではないだろうか。

 「%」という相対的な数字(相対値)と、何か具体的な数字(絶対値)とを本来はゴッチャにしてはいけないのだが、「120%の力を出せ」というのは、感覚的にこれをゴッチャにして受け取られてしまう言葉なのかもしれない。
 競技かるたにおいても、絶対値としての実力をアップさせていくことはもちろんであるが、その時点での本人の実力を100%とした場合は、試合では80%の力を100%発揮できるようにしておくことが肝要だと思う。
 カルタのような相対的競技において、実力の絶対値など数値化できるものではないが、「120%の力を出して来い」というプレッシャーよりは、「80%の力を100%発揮して来い」というほうが精神的負担が楽かと思うのだ。

 コンスタントに100%出せるところの力が、実力だと言ってしまえば、結果的に120%の力を出したように見える場合もあろう。こんなことを言っていると言葉と言葉の定義をもてあそんでいるということになってしまい、それは本意ではない。

 「120%」を求める言葉に、違和感をもったり、プレッシャーを感じたり、傷ついたりすることがあるということを知ってもらい、言葉の使い方は相手を見て、適切に使わなければならないということを言いたかっただけなのである。

 「持てる実力が100あるとすれば、80%の力をコンスタントに100%出してくればいい。」

 しかし、このことさえ、実行するのは至難の技なのだが…。


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