運命戦

Hitoshi Takano FEB/2004

 今年の名人戦の2回戦は、運命戦(双方が持ち札の残り1枚になった状態。1-1(イチイチ)とも言う)になった。運命戦自体は、さほど珍しいことではない。珍しいのは、敵陣を取って勝負がついたことだ。さらに言えば、「あさぼらけあ」と「あさぼらけう」の大山札(6字決まり)での運命戦になったことだ。

 「運命戦」という言い方からもわかるように、双方自陣を守り、詠みの順番に運命をかけるようなところから「運命戦」と呼ばれるにいたったものだろう。
 「自陣が詠まれれば守って勝ち、敵陣が出れば守られて負け。」
 これが、通常の運命戦の図式なのである。
 今回も、双方が、お互いに自陣を囲えあえば、まさに詠まれたほうの勝ちという運命戦の図式がなりたったことだろう。しかし、西郷名人は攻めた。そして、相手の囲いを破って攻め取った。これには、大山札(6字決まり)という要素もあったかと思う。出札が確定するまで5文字分の猶予があるからだ。その間に相手の出方を見ることができる。おそらく土田挑戦者が、土田陣を守ったのを見たことが、瞬時に敵陣を攻めに行こうと言う判断を名人に与えたのではないだろうか。

 さて、私は運命戦を194回体験している。総試合2649試合だから、7.32%の出現率である。そのうち自分のお手つきが7回、相手のお手つきが7回。自陣が詠まれた時75勝6敗、敵陣が詠まれた時6勝93敗。結局、自陣が出た回数分勝ち、敵陣が出た回数分負けている勘定になる。そういう意味では、統計的には、札の出のとおりの運命戦ということになる。しかし、6回自陣を抜かれ6回敵陣を抜いた体験は、比率的には低いが運命戦が「運命戦」という名前のわりに札の出によってのみ決まるものでないことを身に染み込ませている。

 私の先輩は「1-1は、攻めろ!」と説いた。「相手が守って攻めてこないならば、両方取れる可能性が高くなる。1-1で守られていたら、守ってから攻めるのでは間に合わない。だから、攻める。」という理由だった。
 試合の時、とある会場で友人とこの話しをしていたら、他の会の人に「1-1を攻めろなんて、とんでもない。指導者としての見識を疑う。」とまで言われた。「1-1は、詠みに運命を任せて自陣を守るものだ。」と言うのだ。
 前者は、守ってから攻められて自陣を抜かれるスキが生じる。後者は、これだけ守りを意識しすぎると自陣でなく敵陣であった時に、敵にスキがあったとしてそのスキを突く対応がしづらい。どちらの考え方もどうもしっくりこないのだ。

 結局、体験的に悟ったのだ。

 「中途半端はやめろ!」「迷うな!」「悔いを残すな!」「心のうちに決めたとおりに行動せよ!」

 このことに尽きるのだ。

 「相手に100枚目を送った。送りの中で自陣が1-1で先に出るように送ってきた。」もしくは「相手から送られた札が自陣に残った。でも、この札が先に出る。」こういう時は信念を持って守ればいい。
 「相手から送られた札が自陣に残った。札の残り方に自分の意思を反映できなかった。先に出る札を敵陣に残されてしまった。」そう思える時は、信念を持って攻めればいい。

 これでいいのだ。

 しかし、さても言っても、なかなかにこれは難しいものである。初心者指導においては、「1-1は、信念で守れ。それで相手が出たら仕方ない。」という指導も「迷わない。悔いを残さない。」の観点から大いにありえることだろう。初心者に「1-1で守っている敵陣を抜け!」という芸当は、なかなかに無理があろうというものだから…。

 とは言っても、1-1であっても、「攻め」を考えやすい局面があることも確かである。
 たとえば、今回の名人戦のような6字決まりはめったにないとしても、同音のわかれのような場合は、あてはまるだろう。もちろんお手つきには、細心の注意を払わなければならない。
 そして、もう一つのケースが99枚目と100枚目の札による1-1の時である。
 この場合、残った札のどちらかが必ず出る。敵陣が出ると確信して、攻めて悔いが残らないならば、札が詠まれるタイミングで一音めの瞬間に敵陣を払いに行けばよいのだ。ただし、ここで払ったはいいが、お手つきだったら、トモ手にならないかぎり、それでおしまいである。本人の意図はどうであれ、50%の確率に賭けたように見られてしまう。

 50%の確率に賭ける。それはそれで、勝負の綾であることは否定できない。今回の名人戦2回戦においても、挑戦者は自陣を囲った。それは、自陣が出る可能性が高いと思っていたがゆえの行動だろう。ならば、挑戦者は50%の確率は自陣と信じて決まり字の前に札に触れてもよかったわけだ。名人戦の舞台で西郷名人に7連敗。一か八か賭けに出てもよかったのだ。結果論になるが、そうすればこの試合は勝っていたのだ。名人戦の舞台で無敗の名人に初黒星をつける。流れは大きく変わったかもしれない。しかし、大山札の1-1というきわめて珍しい札の攻防を期待している観戦者の期待を大きく裏切ることにもなったであろう。決まり字で取るというカルタ選手としての本能が、挑戦者をして自陣を囲わしめたのだ。それゆえにこの試合は記憶に残る名勝負になったといってよいだろう。
 また、決まり字前に取るという行為は、勝ったとしても名人の囲い破りを怖れた結果であり、名人の囲い破りの技術が己の囲いの技術を上回る可能性を感じたためにせざるをえなかったと思われては、挑戦者は立つ瀬がない。そのような意味でも、名人に取られる結果になりはしたが、挑戦者の聞いて取る姿勢は間違っていなかったと思う。
 しかし、たとえ挑戦者が決まり字前に自陣を払っていたとしても、勝利という事実の前に、私は挑戦者を責めることはできない。もし、そうなっていたならば、この試合云々ではなく、名人戦という継続するタイトル戦の大きな流れの中での勝負の綾を見ることになったからである。

 仮定の話しはやめにしよう。

 本稿により、運命戦といわれる1-1の勝負は、単に札の出だけで決まるものではなく、競技者の心理や選択といった機微や綾によって、微妙に左右される奥の深さを持つことを少しでも感じていただけたならば幸いである。


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