裏札

Hitoshi Takano MAR/2004

単位


 大相撲の幕内最後の取り組みを「結びの一番」という。相撲界には「三番稽古」という言葉もあるし、「優勝を賭けた大一番」などという言い方もされる。囲碁や将棋では「一局」という言い方をする。一試合を呼ぶ単位の呼び方は、このように競技によって違うが、競技カルタの場合は、なんと呼ぶのだろうか?

 当たり前のように一試合というが、「一番」とか「一局」とかはいわない。私は、あまり使わないのだが、「一本」「二本」という数え方をする人もいる。
 「今日の練習は四本取りますから…」とか「三本目から行くから…」とか言う会話が聞かれる。

 公式な単位という決めはないが、こういう呼び方が定着しているのならば「本」という呼び方でもよいかなと今では思うのだが…。
 何か、よい単位はないだろうか?

裏札


 「裏札」というと何だと思われるだろうか?
 札の文字の書いてない側のことだろうと思われるだろうか?
 それは裏札ではなく札の裏(札裏?)である。

 競技カルタでは、試合に使う取り札は50枚。残りの札は使われない。この使われない札が、使う札に対しての裏札である。
 団体戦の職域・学生大会で、使われる札は、あらかじめ必要数を同じ50枚を使うように事前にわけてある。こうして「札わけ」をしておくと、空札の時はお手つきなどなければ札が乱れず、試合の進行が早くなるのだ。この大会は4試合あるが、1試合目の裏札が3回戦、2試合目の裏札が4回戦に使用される。裏札を使うことで、事前の「札わけ」の手間を減らし、用意しなければならない札の数も半分ですませることができるのである。
 練習の時でも、借りている練習場の時間の関係で、練習回数を確保しなければならないときなどは、あらかじめ「札わけ」をしておくこともあるが、何組もの札を揃える手間を考えるとあまり行わない。それに前の試合で使った札の裏札だとわかれば、札の暗記の時は随分と確認の時間を省略できるので、練習の際にはこれを嫌がるケースもあるからだ。
 実際、裏札を意識するのは、このように「札わけ」をしている試合の時くらいである。

 しかし、もうひとつ裏札を意識するケースがある。

 練習などで、取る組数に対して用意した札の数が足りない場合である。たとえば、札は三組しかないのに四組練習しなければならない時などは、札三組のうちの一組の裏札を使うのである。
 私の経験的にいうと、読み札もなく取り札が一組しかなく人数も5人集まっているというようなケースがあった。この場合、読みは、メモ用紙に「むすめふさほせ、うつしもゆ…あ」の順に決まり字を「百」書いて、読むたびに鉛筆で読んだ決まり字を消していく。そして、一組しかない札は、50枚づつ二組にわけて使うのである。
 この時、自分からみれば、もう一組は裏札を使っていることになるが、もう一組のほうからみるとこちらが裏札となる。このように、「裏札」というのは「表」に対する相対的な意味を持つ言葉なのだ。

「…一本のかるた…」


 一組の札を二組にわけて、カルタを取っていると自分の組が空札の場合、もう一組、すなわち自分から見て裏札のほうは、必ず出札があるわけである。

 前にも書いたが、競技カルタのプレーヤーとしての自分以外にも、通常に社会的職業を持っている自分がいて、家庭の中にいる自分がいて、それ以外にも自分の活動の場を持っているわけである。
 この状況をすべて同時並行でというわけにはなかなかいかないのが現状である。そうすると、二つの立場の自分が、片方は一組50枚の札で試合をし、もう片方がその裏札で試合をしているようなものなのかなと思う今日この頃なのである。
 カルタの練習にもなかなかいけない自分は、その状態は空札が続いている状態であり、その裏札では、札の出が続いて、様々な攻防にしのぎを削っている状態の自分なのではないかと感じるのである。

 「人生は一局の将棋なり。指しなおすことあたわず」という言葉があるが、人生を一本のカルタに見たててこの言葉を真似させてもらおう。

 「人生は一本のカルタなり。空札の裏に出札あり。出札の裏に空札あり。どちらもまた表なり。」


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