"近況”

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高野 仁の「近況」(2010年)


2010年12月31日

 「近況」のページをブログに引っ越すことにしました。なぜかといいますと、今までブログを掲載していた"auone"がブログサービスをやめたため、今までのブログの引越先を"livedoor"と"seesaa"とに指定したことによります。この二つを使い分けるために"livedoor"を競技かるたの練習風景日記に特化させ、"seesaa"のほうを「近況」+「練習風景日記」という形で使い分けることにしたためです。したがって、「近況」の中に競技かるたの練習風景の記事が混ざるというような形となります。今後もよろしくお願いします。

"seesaa" BLOG
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世の中は見しも聞きしもはかなくて
むなしき空の煙なりけり

2010年10月9日

 9月6日に2台めの自転車を買った。湘南台駅からSFCまで自転車通勤するためである。湘南台駅西口の駐輪場の定期利用を申し込み、置き場所を確保した。違法駐輪にならないためである。約1か月が過ぎたが、雨の日などもあり、毎日というわけではないが、体は自転車こぎに慣れてきたと思う。アップダウンの多い道のりで、行きが15分程度、帰りが20分程度となる。当初は、行きのほうが上り坂が多いという認識であったが、どうやらそうともいえないようである。往路は、ラストの長い下り坂があり、そこで結構スピードをだすことができるが、復路はその坂が上りとなり、ここで思いのほか時間をくってしまうのである。
 最初のころは、上り坂ではふとももがきつかったが、徐々に慣れてきたように思う。変速ギアも、最初は上り坂では一番軽くしてこいでいたが、今では、一番軽くしないでも上ることができるようになった。
 この自転車通勤で、下半身の筋力アップにつながれば、かるたの払いにもプラスにつながるのではないかと多少期待している。果たして結果はいつごろ出るのであろうか。

2010年9月3日

 4月4日にSFCの20周年記念式典が開催され無事に終了したが、その後も20th YEARということで、いろいろとイベントが続いている。
 さて、8月に職域・学生大会が行われた。前回(3月)は、その前の8月が5人そろわずの4人の出場だったので、ペナルティで一回休みだったので、1年ぶりということとなったが、また、今回も4人での参加となってしまった。結果はE級22チーム中の11位だった。個人的には、4戦全勝で初の全勝賞を取ることができた。1980年3月の第38回大会に出場して以来、30年間に25回の出場で、第94回大会での初めての受賞ということで、長くやってきてよかったというのが感想である。チームメイトのみんなにも感謝いたしたい。

 また、別件だが、今年は7月にマンションの管理組合の役員を決める抽選であたりをひきあてて、9月から1年間、管理組合の役員をつとめることになった。こうした組織の役員でいえば、所属しているキリスト教会の宗教法人としての責任役員をおおせつかっているし、大学行政管理学会の常務理事も務めさせていただいている。これらの予定がバッティングする機会がふえそうで、正直困惑している。
 まあ、なんとかやりくりして職責をはたしていこう。

2010年2月25日

 SFCが開設されて満20年が目前に迫った。4月4日には20周年記念式典が行われる。こういうときこそ、2月が30日までほしいと強く感じる。
 最近、競技かるたに興味をもってくださる方とSFCの仕事の現場で出会った。私ができる範囲で、協力できる点は最大限協力して、その興味にこたえたいと思う。
 また、"twitter"で、かるた関係のつぶやきを始めた。今日現在のつぶやき数は、まだ10だが、おいおい増えていくことだろう。かるた界のみなさんのつぶやきもフォローしていきたいと思っている。


高野 仁の「近況」(2009年)


2009年11月1日

 秋の定期人事異動により、11月1日付で三田キャンパスから湘南藤沢キャンパスに転勤になった。湘南藤沢事務室総務担当で仕事をすることになる。11年半ぶりのキャンパスであり、11年半ぶりのSFC総務担当ということである。
 SFCには、開設準備室に1990年2月・3月と関わり、1990年4月の開設から5年2か月学生生活支援の仕事をしていた。そのあと総務で3年仕事をしたので8年あまりをSFCで過ごした。
 開設からの8年間はキャンパス立ち上げということもあり、仕事も忙しかった。もちろん、今回も20周年記念式典を目前にし、課題山積で忙しそうな気配がただよっている。しかし、忙しかった以前のSFC時代も、SFC中高で7試合(7勝0敗)、SFC体育館で51試合(43勝8敗)、SFCクラブハウス棟の和室で40試合(37勝3敗)と、なんとか工夫して練習を続けていた。今回も、SFCでの練習を企画したいと思う。対戦相手がいないことには始まらないので、みなさん、ご協力よろしくお願いします。
 

2009年8月15日

 昨日、実家に帰ってきた。実家の親から、実家に残っている本などの段ボール箱を調べて処分するものは処分してほしいといわれたので、調べて処分するものは処分してきた。
 片づけていると懐かしいものがみつかる。就職の際にいろいろな方からいただいた励ましの言葉のかかれたカードなども見つかった。
 「初心にかえる」ということを実感したひと時だった。
 それとともに小学校の時の作文なども見つかった。好物をたくさん食べたいという願望が書かれているのだが、子供のころの、好きな食べ物を大量に食べたいというあの単純な渇望というのは、いったいなんだったのだろうかと思った。今では、食べる限界もわかっているし、同じものを食べ続けると飽きるということも知っているので、大量に好物を食べたいということを望みはしないが、なにかこういう単純な希望をもつことができたころは、きっとよい時期であったのだろう。
 また、小学校2年の時の作文で、小倉百人一首をお年玉で買った話も発見した。今の競技かるた人生につながる第一歩のナマの資料である。
 これもまた、初心を思い起こさせてくれる発見であった。
 しかし、実家に帰って何よりも感じたのは、両親が健康にすごしていることへの感謝である。

2009年8月13日

 一斉休暇でいわゆるお盆休みの最中である。明日は実家に帰るが、休み中は、出かけたり、将棋の本を読んだり、競技かるたの練習をしたりである。
 さて、今回は将棋の話になるが、「守りの駒は美しい」という言葉がある。「攻めこそは最大の防御」というが、まあ、実際はずっと攻め続けていることなどはないだろう。その点、守りの駒が美しいのは、実に守りという機能を十分に果たし、攻めているときでさえも、常に守りの働きをしているからということであろう。矢倉囲いや美濃囲いなどの守りの囲いを覚えた頃はは、実に機能的で美しいと感じた。守りの駒同志が見事に連携している。攻めの駒は、攻めている最中においては、力強く感じるが、うまく受けられて、そっぽを向かせられてしまうと、次の活躍までは、待つしかないのである。機能的な守りの囲いも相手の攻めにより、駒がはがされたり、形が崩されたりするが、そんな中でも、たとえば金底に歩を打つようなことになると、この固さにも美しさがある。「金底の歩、岩よりもかたし」である。
 こうした守りに関する美意識という「守りのメンタリティー」というものが、あるのだろうか。今は、高校野球のシーズンだが、攻撃の強いチームでも攻撃は水ものである。固い守備は裏切らない。守備の固い試合は、試合自体がしまる。失策の多い試合は、興がそがれてしまう。失策一つで、負けてしまうという場合、ドラマチックかもしれないが、そういう失策をしてしまった選手の心の傷は、人によっては引きずってしまうものである。そんなことがないためにも、守備の固い失策のない試合を望みたいのである。
 守りの話は、たとえば、相撲ではどうだろうか。角聖と呼ばれた明治の大横綱の常陸山が横綱相撲というスタイルを確立したといわれるが、相手に十分に取らせて、それをしのいで守りきって、やおら、オーと攻撃に転じて勝つというのがそのスタイルなのである。常陸山の同時代の大砲(おおづつ)という横綱は横綱は負けてはいけないものだといわれたところから、当時の一場所9戦のうち、1勝8引き分けとか9戦9引き分けなどの記録を持っている。これも、相手が死力を尽くして攻めてくるところをがっちり組みとめて攻めを封じて、引き分けに持ち込むという守りの形なのであった。相撲の場合、どこかで攻めに転じなければ勝てないだろうが、横綱は負けてはいけないという観点から当時の引き分け制度の中で最大限に負けないことを目指した大砲もまた偉大な横綱といえるのではないだろうか。
 競技かるたにおいては、攻めこそが評価され、守りのスタイルは評価されない。そういう意味では、攻めのために送る札こそ美しいのだが、時には相手の強烈な攻めをしのぐ守りが試合の流れを変えることもある。勝つときには、攻めにおいても満足の行く取りがあることと思うが、その一試合を振り返ってみると、肝になる守りの札の取りがあったことに気づくのではないだろうか。
 将棋の攻めの駒も競技かるたの攻めの札も出番を待たなければならない、横綱相撲も守りのあとに攻撃に転じるための伝家の宝刀を抜く時を見計らっているのである。この攻撃のための「待ち」を可能にするのが守りなのではないだろうか。
 近況というほどのことはないが、休みのひと時に、ふと守りについて考えてみた。
 関連:競技かるたにおける"守破離"

2009年7月4日

 最近、本居宣長(1730〜1801)の「うひ山ぶみ」(講談社学術文庫)を読み始めた。 これは、国学の大人として名高い宣長が初学者のために、国学の入門書として書いた ものである。1798年の作であるから、晩年に近い作品である。
 入門書としての面白さと、宣長が自分の学問を後世に託す若い人々に何をどう伝えようとしているかという面白さがある。
 私自身、かるた会で若い人たちに接していて、自分が今まで学んだ何かを伝えることの必要性と難しさを感じているからである。
 さて、「うひ山ぶみ」のほかにも、何冊か本を買った。ひとつは、堀田善衛の「定家 明月記私抄」である。ちくま学芸文庫から、続編とあわせて出版されている。
 「明月記」は、藤原定家の日記である。それを仏文学者の堀田善衛が読んで思うところを書いているのである。
 今までも、「藤原定家とその時代」(岩波新書)や「藤原定家」(吉川弘文館、人物叢書)、「藤原定家歌集」(岩波文庫)などを読んだが、小倉百人一首の選者である藤原定家について知ることが、百人一首というものにつながる何かを感じさせてくれるのではないかと思うからである。
 もうひとつは、藤原定家の歌論集「近代秀歌」である。小学館の日本古典文学全集の 「歌論集」に収められている。この「歌論集」には、源俊頼の「俊頼髄脳」や、定家の 父俊成の「古来風躰抄」も収録されている。
 定家は歌よみである。歌よみの歌論は、すなわち実践者の理論であろう。そこに興味がある。また、熟達者定家から初学者である源実朝への指南の書でもある。そこにも「うひ山ぶみ」と同様の興味がもてるのである。
 「うひ山ぶみ」も読み終わってないが、これから順々に読んでいこうと思う。しばらく楽しめそうだ。

2009年3月25日

父の誕生日である。78歳になった。健康であることに感謝!
私はといえば、今年になって大腸のポリープをとったし、高血圧の薬や高脂血症の薬を飲んでいる。実家に帰った時に、父親も同じ高脂血症の薬を飲んでいるのを見て、体質の遺伝なのかと思ったものだ。まあ、それでも元気にやっている。
しかし、高血圧の薬には、利尿作用があるようで、多少トイレが近くなってしまったようだ。
団体戦である職域学大会の前には、それなりに練習するが、練習中にトイレに行きたくならないように水分を控えていたことがあった。その時には、3試合目くらいの後半に足がつってひどい目にあった。こむらがえりというやつだろうか?足の指がつってしかたないのだ。試合中に右足がつったので、読みの合間に伸ばして伸ばしてなんとかなったと思ったら、今度は左足である。こちらも伸ばしてなんとかなったと思ったのもつかの間、しまいには、右のわき腹までつった感じになってひどい目にあった。
あとでインターネットで調べたら、原因はよくわからないものの水分不足やミネラル不足が原因と考えられているらしい。利尿作用のあるものや、高脂血症の薬なども影響があるようだ。防ぐには水分をとって、ビタミンB群をとったほうがよいらしい。
しかし、薬は飲まねばならない。水分は取らなければならない。でも、それではトイレが近くなる。足もつりやすくなるでは、2時間かかる団体戦の試合には、きびしいものがあるではないか。
今回は、試合の三日前の夜に左の肩甲骨の裏側に痛みが走った。夜も寝返りすると痛くてあまり眠れず、試合の前日にはなんとか痛みがとれたような状態だった。そして、1週間前の小指の突き指の痛みも薄らぎはしたが、少々の痛みと違和感を感じる状態だった。
試合に出場した晩は、足が痛くて眠れない状態である。夜中に何度も目が覚める。肩も痛い。筋肉痛は翌日も、翌々日もという感じである。
最近は、試合のあとは毎回こんな感じである。痛くて眠りが妨げられるというのは、本当にきびしいものである。肉体だけではない。今回は出場23回にして5回目の4戦全敗を喫してしまったのだ。副将・副将・主将・主将というあたりであるが、副将の私としては、このあたりに勝たないとチームとしても勝ち点は程遠いのだ。案の定というか、チームは陥落の憂き目をみてしまったのだ。
身体はしんどいし、自分の子供であってもおかしくない若い選手との対戦で負けるというような状況の中でも、なぜかやめられないのは、競技の魅力・団体戦の魅力によるのであろう。
夏の捲土重来を目指して練習を積み重ねたい。

2009年1月4日

新しい年をむかえた。昨年、7週連続で週1回ではあったが土曜日に練習に行き、3試合平均でカルタをとっていたとき、少し調子が以前の感じにむかって伸びた気がした。やはり、練習の力は大きいと実感した。しかし、その後は、仕事その他で、またしばらく休止。今年も時間をつくってコンスタントに練習をしたいものである。練習環境も整えたいと思う。「ありあけ」をつかった一人練習もしているが、やはり、練習相手がいるということは、一人練習とは全然違うのである。
この近況欄も、携帯電話でのブログなどもあるので、あまり、記事の数はのびないが、気が向いたときだけ、ほそぼそと書いていくつもりである。1年に2−3本かもしれないが、お付き合いいただければと思う。


高野 仁の「近況」(2008年)


2008年6月8日

6月7日に「競技生活30周年記念祝賀会」を後輩諸君に開催してもらった。後輩のみなさんありがとう。同期のA君と一緒に祝ってもらったが、A君とは試合数で1600も差をつけられてしまったが、それでもともに30年の足跡を残してきたことはめでたいことである。
これも通過点である。再来年にはシニア級に出場できる年齢になるが、がんばっていきたい。

2008年4月1日

年度が変わった。いよいよ、競技カルタ30シーズンめである。
私の場合、競技カルタは大学で開始した。大学は、9月入学などができた今でも、基本的には、年度で動く組織体である。私の記録管理も基本的には年度を1シーズンとして行っている。
1979年4月に大学入学とほぼ同時に「慶應かるた会」に入会。2008年度はそれから数えて30シーズンめにあたる。まあ、長いこと続いたものである。かるたを始めた当初、自分がいつまでかるたを取るかなどと考えてはいなかった。特に一年生の時などは、いつやめるかと心配されたくちであった。まあ、先輩たちから、熱心に取るようになったと認識されたころには、漠然と学生時代という競技生活は全うしようという気持ちはもっていた。それは、勤め先も決っていない状況だったからだ。
しかし、勤め先が決まり、競技カルタを続けることができる環境に身をおけたこともあり、ここまで続けることができたのだと思う。
30年は、それなりに長かった。長かったことの証左になるかどうかはわからないが、1年のうちでカルタを取ったことのない日というのがある。1月1日、1月27日、2月1日、2月29日、3月5日、8月13日、9月2日、9月6日、9月18日の九日である。また、まったく取らないシーズンも2シーズン(1990年度と1991年度)あった。その間もかるたを忘れていたわけではなかった。その意味では、記録がないだけで、自分の中では、かるたから離れてかるたを感じ、考える貴重な2シーズンだったのである。
今、ここに30年目を迎え、使い古された表現だが、通過点に過ぎないという思いを新たにした。

2008年3月24日

昨日は、職域学生大会であった。出場したD級1組で三回戦終了時点で、ブロック3位は双方とも勝点1で5勝同士。ブロック4位は、勝点0で3勝同士であった。このブロック3位と相手ブロックの4位がたすき掛けに対戦するのが順位決定戦(陥落決定戦)である。
わがチームはブロック3位。3勝して勝点をとれば文句なし残留だが、勝点を落としても2勝あげれば残留は決定である。結果は、反対ブロック3位と4位の対戦も4位チームが3勝で勝点を取り、こちらも4位チームが3勝で勝点となった。結局、勝点1で4チームが並んだが、勝ち数の差で、ブロック3位だったチームが双方7勝で並んだ。
順位決定を調べるために対象チームのカードを見にいったところ全勝者のカードが見当たらなかったので、全勝者がいるうちの5位かと思っていたら、発表は6位だった。何かわたしの見落としか、錯誤があったのだろうか。
(あとで関係者に確認したら、5位に正式に訂正してくださるそうです)
ところで、職域学生大会の当日は、私の大学の卒業25年の大同窓会であった。職域チームは5人ぎりぎりだったので、同窓会は欠席したが、翌24日の卒業式招待会には出席した。同じクラスのメンバーは私を入れて4人、ゼミのメンバーは3人に会うことができた。しかし、なぜかサークルのメンバーには会えなかった。
卒業25年後の再会。懐かしさもあり、また、自分の年齢を再確認するひとときでもあった。

2008年1月1日

数え年で、「50歳」となった。いにしえの孔子の言によれば、志学の15歳、而立の30歳、不惑の40歳についで「五十にして天命を知る」と「知命」の年齢である。
「天命を知ったか?」と問われれば、答えることはできないが、戦国の武将が幸若舞の敦盛で「人生50年、下天のうちにくらぶれば、ゆめまぼろしのごとくなり」と舞ったように、人の一生としてはある意味充分な年齢と思われていた年齢であり、平均寿命が伸びた現代とはいえ、それなりに自分自身の胸の内に期するものがあってもよい年齢になったのだと思う。
このように考えると、とっくに自分の人生は折り返し点を過ぎているのだと思う。今までにまして、一日一日を大切に過ごさなければならないのだということを感じる。一年の計は元旦にあり。今年は、仕事等の公の部分でも忙しくなりそうな案件が山積しているからこそ、しっかりと自分を見つめることが必要なのである。公私にわたって、今年一年、目標を立てて、日々を大切に過ごしていきたい。




高野 仁の「近況」(2007年)


2007年9月8日

8月26日に第88回職域・学生かるた大会が西葛西の江戸川区スポーツセンターで行われ、慶應義塾職員チームとして、出場した。前回の3人での戦いから、今回は5人揃っての出場ということで、心には少しばかり余裕があった。しかし、体育館内の猛暑は、チームメイトの体力を削いでいった。そのチームメイトは、3回戦は棄権。全試合をフルメンバーで戦うことは今回もできなかった。
しかし、予選で2位を取り、D級I組の三位決定戦に駒を進めることができた。陥落を気にしないで戦えるということは、いつもとと感じるプレッシャーが違う。のびのびと取れるはずだったが、結果は残念であった。それでも4位。前回より一つ順位をあげることができた。
5人のフルメンバーであっても、まだまだ、余裕がない。補欠も含めて一チームに8人まで登録できるのであるから、今度は、交代要員を確保して出場することを目指したい。
なによりもまず、自分自身を鍛えることも必要だ。職域・学生大会のあとの土曜日2回は練習に参加することができた。まずは、コンスタントに練習することだ。

2007年4月1日

本日から2007年度である。私としては、競技カルタ開始以来29シーズンめに入る。個人記録を2006年度末(2007年3月末)現在に更新した。結構、これが手間がかかる作業になってきた。
個人別のベスト、ワースト記録の上位掲載分は、ほとんど変わらないのが現状である。練習相手は変わっているし、1年間の総練習量が伸びないのだから、これもやむをえないだろう。
新年度もがんばりたい。

2007年3月26日

昨日、第87回職域・学生かるた大会が江戸川区スポーツセンターで行われた。
慶應義塾教職員チームとしては、3回目の出場だったが、初出場以来初めての3人での出場になった。一人は仕事のため出勤。もう一人は、会場に来て選手登録はして試合開始時には並んでいるが、怪我をしてドクターストップのため、相手がいれば棄権という不戦勝狙いの要員での出場。ちゃんと競技できるのはぎりぎりの3人だったのだ。
D級II組の一回戦は、その出場者3人が全部勝って勝点1。二回戦、三回戦は主将のみ勝利で、予選では、勝点1の勝数5で4チーム中のブロック3位。
順位決定戦では、勝点0で勝数2のチームと対戦。相手もここまで3人で戦ってきたチームだったが、ここで、不戦要員が不戦勝をひいたもののこちらのポイントゲッターである主将を不戦ではずされ、試合開始前にすでに2勝1敗で残り二人のうち一人が勝てばというところで二人とも連敗。もうひとつの順位決定戦では、ここまで勝点0、勝数2のチームと勝点1、勝数6のチームが対戦。こちらは、勝点0チームがなんと4勝1敗で勝利。
5位から8位までの4チームが勝点1でならぶ大混戦となったが、勝数7で全勝1の我がチームが5位になるという幸運が舞い込んだのであった。
副将の私は1勝3敗という不本意な結果に終わった。夏には5人で戦い、私個人も捲土重来を期したい。

2007年1月11日

家内の父が亡くなり、北九州に行っていた。
来年の正月は喪中である。

2007年1月1日

新年あけましておめでとうございます。
昨年11月1日付の人事異動以来、カルタをとっておりません。
新しい仕事に慣れるのが先決ですが、時間を見つけて練習もしたいと思います。
ちなみに、前の部署での成績は、218勝120敗、勝率6割4分5厘でした。
今年もよろしくお願いいたします。


高野 仁の「近況」(2006年)


2006年10月31日

人事異動により、8年5ヶ月いた今の職場を去るときが来ました。明日からは、新しい部署で心機一転がんばります。競技かるたのハイシーズンである1月─3月は業務繁忙部署になります。新しい部署に行ってもよろしくお願いします。

2006年8月27日

職場のチームとして2度目の職域出場です。なんとかD級残留しました。チームの維持の難しさを感じております。
今回で最後の出場になる人もいますが、一人一人が、自分の持てる力を出せたのではないでしょうか。(全勝を逃した人はそれなりに悔しいとは思いますが・・・)
けっこう、いいチームだったと思います。また、新しいチームづくりをしなければなりませんが、その苦労も、また、楽しんでいければいいなと思っています。

2006年3月28日

3月26日、ついに慶應義塾教職員チームで職域学生大会に出場しました。初出場なので当然一番下のクラスであるE級からの出場です。個人としては17年半ぶりの職域でした。詳細は、TOPICの4月号に掲載します。

2006年1月4日

一昨年は2回、昨年は1回では、「近況」とはいっても本当に間があきすぎですね。
すみません。そのぶん、TOPICや練習風景日記のほうなどをお読み下さいというしかないのですが、、、
TOPICは、一応、毎月1編書いて、100回でひとくぎりの予定です。
さて、今年1月1日より、慶應義塾の職員かるたチームを発足します。これも詳細は一月のTOPICに掲載しますので、興味のある方はご覧下さい。
目標は、当面職域大会への出場です。
本年もよろしくお願いします。
今年は、「近況」も、この1回だけでなく、書き込んできたいと思っていますので・・・


高野 仁の「近況」(2005年)


2005年1月10日

昨年は2回しか近況報告書いてないですね。しかも最初の1月と最後の12月。かるたも、職域のある3月と8月しかしていないし・・・
先月、引っ越して、今度住んでいるところは、インターネットが光でつなぎ放題の環境ですので、HPのUPも早くなりました。環境に負けないように早く情報をあげれればと思っています。「慶應かるた会」でジオシティーズに出している方は、月一回はTOPICを更新していますが、こちらの近況などもおいおいまめに更新したいと思っています。
それから、私のページでは、結構対戦相手名とか出しているのですが、載せないでくださいというメールもいただくことがふえてきました。個人情報保護の法律も動き出しておりますので、本来は、本人の了解をとってからでないとまずいことになりました。そういうわけで、対戦名簿は伏字にしましたし、練習風景日記も名前をだすのは控えることにしました。ただ、全日本かるた協会等の公式な刊行物等に掲載されている範囲などは、一応掲載しても大丈夫なものという認識でいます。
そのうようなケースでも、消してほしいという要望があれば、伏せ字などにして消しますので、連絡ください。
では、本年もよろしくお願いします。


高野 仁の「近況」(2004年)


2004年12月24日

しばらく前に、約7年半住んだ横浜市神奈川区から、東京都大田区に引っ越しました。
最寄り駅が、東急東横線の東白楽駅から、東急多摩川線の矢口渡駅に変わりました。日吉の練習場までは少し遠くなりました。
今年は、引っ越しの準備や片付けでばたばたしたりして、8月以外は練習にもあまりいけませんでした。

2004年1月11日

昨日(1月10日)、BS2でオンタイムで名人戦を見た。8月の終り以来カルタを取っていないが、「取りたい」という衝動にかられた。
今年は、黒岩涙香が競技カルタの規定を制定して100周年ということもある。様々なことで、時間を使わねばならないが、できるだけカルタの時間をつくる年にしたいものだ。


高野 仁の「近況」(2003年)


2003年6月23日

6月20日に後輩が、五段の免許状を届けてくれました。免状の日付は4月12日付でした。この件については、TOPICの7月のコーナーに掲載します。

2003年4月19日

「高野くん、忙しいのかな?ホームページの近況が1月から更新されてないけど」とある方から、私の留守にメッセージが入った。
「慶應かるた会」のページは、最近練習風景日記を更新し、TOPICは毎月更新を続けているのだが、そちらに興味のない方は、このページで判断されてしまうようだ。
そういうわけで、久々にこのページに書き込みました。
実は、4月に入って、風邪をひいてしまった。季節のかわりめで、暑くなったり寒くなったりで、身体がついていかなったようだ。体調を整えて、がんばりたいと思う。しかし、風邪をひいたあと、復調までに時間がかかるようになったのは、年齢のせいもあるのだろうか。大学の練習にいくと学生の元気さを感じる。すこしは、その元気をわけてもらわないと………。

2003年1月2日

このページのUPが少なくてたいへん申し訳ありません。geocitiesの「慶應かるた会」のほうのページは、練習にいかないと「練習風景日記」のUPがないし、せいぜい毎月のTOPICくらいがコンスタントにUPという現状です。
年頭にあたり、今年も、仕事に頑張ります。でも、たまにはなんとか「競技かるた」の練習には顔を出すように努力します。練習にあたっては、腰などを痛めないように注意しないといけませんが、仕事が忙しいとけっこうそっちに負担がきているんですよね。そんなつかれている状態では、いい「かるた」がとれないのがちょっと残念です。(言い訳かな?)
でも、今年もがんばります。


高野 仁の「近況」(2002年)


2002年8月14日

4月27日の新入生歓迎会の日にかるたを取って以来、約3ヶ月半ぶりに練習をした。昔は久しぶりに取ると、札の暗記が入るかとか、敵陣に手がちゃんと出るかとか、そんなかるたまわりのことが気になっていたが、今は、腰を痛めないかとか、足首や膝を痛めないかとか、身体回りのことが気になるようになってしまった。
体重をへらすことと、日頃から体を動かすこと(適度な運動)を心掛けて、久しぶりのかるたの練習でも、身体回りの不安がないようにしたいと思う。はたしてできるのだろうか?

2002年3月16日

年頭に、怪我をしないように気をつけるといっていた矢先、1月12日に相手陣の右中段を取りにいって、ぎっくり腰をやってしまった。その後、大事をとっていったんはよくなったかと思っていたのだが、どうも腰の状態がよくない。尾骨のまわりも炎症をおこしているようだ。疲労の蓄積があるのかもしれない。昨年の突き指といい、あまりいいことがない。厄年は、数え年でいうものだが、旧暦の適用だったかな。1月で後厄もあけたと思っていたのだが、1月12日は旧暦でいえば、まだ、後厄のうち…。まあ、だいたいこの年齢になると体調にも変調をきたすという昔の人の知恵が、厄年という考えを生んだのかとは思うが・・・。
実はそれ以外にも、今年は結石がでる年でもある。1990年、1996年と石がでた。6年周期である。2002年にも石がでるだろう。実際昨年12月に受けたエコー検査で結石が認められた。この石が動き出すD-dayはいつだろうか? 痛くなければいいのだが、、、。最近、背中に感じる痛みは、関係があるのだろうか?過去2回も夏だったから、出るのは夏かな?せいぜい養生しましょう。

2002年1月1日

あけましておめでとうございます。1年の計は、元旦にありということで、今年の豊富を述べます。
はっきり言って、仕事が忙しいので仕事に邁進します。でも、時間をつくって「かるた」も取りたいと思います。大学(慶應)と中学/高校(SFC)のほうも、人数がふえそうな予感がします。練習には積極的に顔をだしたいと思います。そのためには怪我をしないように気をつけます。また、職域チームとしての(学)慶應義塾チーム(教職員)も新たな活動の一ページを開きたいと予定しています。
では、今年もよろしくお願いします。

高野 仁の「近況」(2001年)

ジオシティーズにもページを開設しています。

2001年8月13日

フジテレビのドラマで「ショム二」というのが以前放映されていた。舞台は満帆商事という会社である。ドラマの中で、ここの人事課長はなぜか「かるた」(百人一首)が強かった。8月1日付で、ドラマと設定が同じになってしまった組織がひとつ生まれた。ドラマでは、会社の中で「かるた」の対抗戦があったが、うちの組織では、そんなものはない。私は、仕事でがんばるしかない…。

2001年6月12日

5月2日の練習で突指し、痛みと腫れがひかないまま2週間がたったところで医者にいった。レントゲンの結果、骨に異常はなかったが、2〜3ヶ月から半年も痛みがひかないこともあると聞かされた。たしかに1ヶ月たった今でも、痛みは薄らいだものの残っている。練習も休んでいるし、「練習風景日記」も少し休むことにした。仕事のほうも、なんだかんだとこまごましたことが多く、気ぜわしい。突指も「休め」のサインだったのかもしれない。しばしの休息を・・・。

2001年4月29日

かるた会も新人がはいった。新歓コンパには新人が5人来た。職場のほうにもフレッシュな研修生が来ている。ゴールデンウィークというのに休日出勤だが、初心にかえってがんばろう!

2001年3月18日

久々に試合(第4回神奈川県団体戦)に出ました。2年前の神奈川県団体戦では、ワンポイントで1試合のみの出場でしたが、今回は4試合のフル出場。チーム成績がAリーグで3位というのはまずまずの結果でしょう。個人的には全勝でした。実は、数多くの団体戦に出ていますが、4戦全勝ははじめての経験です。4試合中3試合に出ての全勝ならば経験があるのですが…。試合が終わって、心地好い疲労感がありますが、まだまだ現役学生にまじって取れるという実感がうれしいです。
会場の神奈川県立武道館は、岸根公園にあり、自宅から徒歩20分のところにあります。ひろい柔道場で良い施設でした。また、こちらの会場が使えるとよいですね。

2001年2月25日

毎日コミュニケーションズ発行の「Mac Fan Internet」の3月号に私のページがとりあげてもらった。「はれ予報」への協力に続いて、普及のためにはめでたいことだ。
でも、本業(?)の競技のほうはこれで6ヶ月ご無沙汰である。3月からは、また、練習に復帰したいのだが、どうも体が思うように動かない。運動不足であることはわかっているのだが…。元旦の復帰への思いはほど遠いかもしれない。まずは、時間をつくって練習にいくことである。時間は、自分でつくるものということを認識してがんばりたい。

2001年1月1日

21世紀になった。子供のころ漠然と21世紀は未来という言葉と結びついていた。でも、実際に21世紀になってみると、どおってことない感じだ。未来は自分自身で切り開いていくものかもしれない。
さて、「しんきんVISA」の機関誌「はれ予報」という隔月刊誌の1・2月号の特集で「日本のカードゲーム」が取り上げられている。この記事を書かれた方に昨年10月に取材を受け、様々な情報提供と資料の提供をおこなった。わが家の蔵書の写真ものっている。高校の後輩からの紹介で、わたしのHPなどを見ていただいた上での話だったが、どこでどういうつながりができるかという縁は不思議なものだ。少しでも普及の役にたてば嬉しいかぎりだ。
毎年思うのだが、今年は少しは競技者としてもがんばりたいものだ。まずは、リハビリがわりに練習通いから…。

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Hitoshi TAKANO