愛国百人一首

武田耕雲斎

片敷きて寝ぬる鎧の袖の上に
   思ひぞつもる越の白雪


<愛国百人一首における決まり字>
カタ(2字決まり)
<愛国百人一首における同音の数>
カ音8枚のうちの1
<歌意・鑑賞>
 「片敷きて」は、自分の衣の片身を下に敷くことである。水戸天狗党の挙兵を率い京都に向かう 途中、美濃の山中から越前に抜けるところで雪につかまり、その雪の上で片敷いたのである。
 62歳の老体には辛い行軍であったことだろう。鎧の袖の上に積もるのは、越の国の白雪であるが、 義を掲げて挙兵したそのやむにやまれぬ思いも積もっているのである。
<コメント>
 水戸藩士。戸田忠太夫と藤田東湖とともに水戸の「三田」と称される。
 1864年(元治元年)、尊皇攘夷派の天狗党が筑波山で挙兵した。徳川 斉昭の藩政改革を機に、水戸藩内の身分的には軽い武士層を中心とした急進派が天狗党である。これ に対し、保守派を諸生党といい、水戸藩内で対立していた。
 天狗党は攘夷延期を不満として、水戸出身の一橋慶喜に訴えるために約800名の軍勢で京都に向かった。 しかし、糧食もつき、金沢藩に降伏し、武田耕雲斎、藤田小四郎(東湖の子)らが斬罪に処せられる。
 水戸藩は、藩内での天狗党と諸生党の抗争や、大老井伊直弼襲撃、そして、この天狗党の乱で、 数多くの人材を失う。尊皇攘夷の精神的支柱の藩であっただけに、人材が残っていれば、もっと明治政府 内で活躍するものが多くおり、薩長土肥という西国の人材に対して対抗しうる勢力となることができた であろう。
 人材を失ったばかりではなく、挙兵の所期の目的もはたせず、まったくもって、惜しいことをした 天狗党の挙兵である。
 慶喜自身は、「攘夷はできない」という認識の上にたっていた上で、どうせできない攘夷なんだから 攘夷の期限を約そうが約しまいが関係ないというスタンスだったので、慶喜の真意もはかれぬ暴挙で あったと言われてもしかたがないだろう。しかし、当人たちにすれば、これはやむにやまれぬ思いから の義挙なのであった。ことの適否とは別に、この歌からは、思いを汲み取りたい。
 なお、攘夷期限を守って、攘夷を実行した長州藩は、四カ国連合艦隊により砲台を占拠されるという 敗戦を経験し、攘夷が実行不可能なことに気づき、倒幕一本に絞ることになる。
 やってみなければわからなかった長州よりは、やらずとも結果がわかっていたからやりもしなかった 慶喜のほうが、よほど時代を正確に見ていたのだと思う。しかし、それでも慶喜が、最後の将軍となって 逆賊扱いをされてしまうのであるから、歴史というものは皮肉なものと言わざるをえない。
 幕末維新史を見ると、薩摩長州の軸と幕府側の対立に多くの目がいってしまうのだが、実は幕府の 御三家の藩でありながら、尊皇であり、攘夷の支柱であった水戸藩の動きをみることは、忘れては ならない視点であると思うのである。

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2008年5月20日  HITOSHI TAKANO