愛国百人一首

徳川光圀

行く川の清き流れにおのづから
   心の水もかよひてぞすむ


<愛国百人一首における決まり字>
ユ(一字決まり)
<愛国百人一首における同音の数>
ユ音はこの歌のみ
<歌意・鑑賞>
 清らかに流れる川のほとりに佇んで、その流れを眺めていると、自然と自分の心と 川の水とが通いあうように思えて心が澄んでいく。
<コメント>
 皆様、ご存知、元祖「水戸のご老公」、水戸黄門である。
 徳川御三家の一つ、水戸藩の第2代藩主で、徳川家康の孫に当たる。1701年に 73歳で逝去。「義公」と諡号される。
 よく「天下の副将軍」と言われるが、江戸幕府に副将軍という職制は存在しない。 御三家のうち、尾張藩と紀伊藩は、大納言の家格であるが、水戸藩はこのニ家 に比較し、石高も低く、中納言の家格であった。そもそも「黄門」とは、中納言の 唐風の呼称である。藤原など も京極黄門と呼ばれており、黄門様は、光圀だけではないのである。
 水戸藩が副将軍と呼ばれたのは、御三家の中で、唯一、参勤交代をしない江戸定府 (知行国の常陸の水戸に戻ることなくずっと江戸に在府していた)を認められれていた ことから、このように言われたという。

 漫遊記が有名だが、本人は漫遊していない。「大日本史」を編纂するために、全国各地 に調査に派遣した藩士がおり、これが、のちの助さん格さんのモデルになったのではない かと言われている。
 この「大日本史」の編纂事業により、水戸藩では学問の風が起こり、水戸学といわれる 尊皇の思想が形成されていく。この編纂・修史事業は、完成まで250年以上の歳月を かけ、水戸藩の財政の中でも多くの支出割合を占めたという。この水戸学が、幕末の 尊皇攘夷思想の精神的支柱になっていった。
 そういう意味では、光圀が大日本史の編纂事業を始めなければ、この愛国百人一首の 歌の結構多くの歌が存在しなかった可能性があるともいえるほどの、後世への大きな 影響を与えた事業だったのである。
 また、堅い話ばかりではなく、日本のラーメンの歴史は、光圀が食したものに始まる というエピソードもあり、チーズなども食べたらしく、好奇心旺盛な人物でもあった ようだ。
 テレビドラマのあの高笑いが聞こえてきそうである。

★ 愛国百人一首の決まり字一覧へ
☆ 愛国百人一首のページへ
★ 小倉百人一首のページへ戻る
☆ 小倉百人一首の決まり字一覧へ
2008年5月23日  HITOSHI TAKANO