愛国百人一首

田安宗武

もののふの兜に立つる鍬形の
   ながめ柏は見れどあかずけり


<愛国百人一首における決まり字>
モノノフノカ(6字決まり)
<愛国百人一首における同音の数>
モ音5枚のうちの1
<歌意・鑑賞>
 初句は「丈夫の」とあるが、ある本には「もののふの」と仮名書きされている。通常、「丈夫」は 「ますらお」と読むのだろうが、「兜」という語が続くことを考えると「もののふ」のほうがぴった りくるだろう。
 「ながめかしわ」は柏の一種で、芽が長く出る特徴があると言われているが、どういう種別なのか はよくわからない。ただ、この歌からすると、兜の鍬形のように芽が長く立ち出づるのであろう。
 武士の兜に立つ鍬形のようなながめ柏は、見ても見ても飽きないものだ。
 「ながめかしわ」は、中世に良く歌に詠まれている植物らしい。「もろく散るころぞかなしき 山下のながめかしはのながめながめて」というような歌がある。「見れどあかずけり」というのは この「ながめながめて」を意識しているのかもしれない。宗武は、こうした古歌を学んでいたので あろう。
<コメント>
 八代将軍吉宗の次男である。家康からみれば玄孫にあたる。御三卿のひとつ田安家の祖である。 御三卿は、他に吉宗三男宗尹を祖とする一橋家と家重(吉宗長男)の子の重好を祖とする清水家 がある。御三家は家康が血筋のプールとして設置したものだが、御三卿は吉宗が血筋のプールと して考案したものである。御三家は、藩として独立しており各藩を知行していたわけだが、 御三卿は、将軍の家族という位置づけであった。十万石を与えられ、江戸城の各門のそばに 屋敷を与えられていた。その屋敷のあった場所の門の名が、それぞれの家の名となった。 すなわち、田安家は田安門のそばの屋敷、一橋家は一橋門のそばの屋敷であったわけだ。
 田安宗武と呼ぶが、正式には徳川宗武である。寛政の改革で有名な松平定信は宗武の子である。
 長兄の家重は、病弱で言語不明瞭、小便公方というよろしくない渾名まであった将軍であった ことでもわかるように、吉宗の後継者を誰にするかというときに、宗武の学問好きは夙に知られて おり、人望もあつく、宗武を次期将軍にという声も随分とあったようだ。しかし、封建社会の秩序 の中で、将軍家がその長幼の序を守らぬと、下々も同様のことを行い、世が乱れるとの考えから 長男家重が将軍職を襲うこととなる。
 自身も将軍職に期待もあったようで、その言動により処分されもした。家重も、宗武に恨みを もっていたらしく、宗武の子らを他家の養子に出すように命じたりもした。
 結局、田安家からは将軍がでることはなく、大政奉還後の慶喜のあとに三歳の田安亀之助(家達) が宗家16代を継ぐまでは、将軍継嗣という血筋のプールの役割でいえば一橋家の後塵を拝していた。これも家重の恨みの重さであったのだろう。
 宗武はよく学問をし、「学ばでもあるべくあらば生まれながら聖にてませどそれ猶し学ぶ」と いう歌を詠んだ。はじめ荷田春満を侍臣とし、のちに 賀茂真淵に学ぶ。はじめは新古今調、真淵に師事後、万葉調に転じ る。

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2008年5月24日  HITOSHI TAKANO