愛国百人一首

大伴旅人

やすみししわが大君の食國は
   大和も此処も同じとぞ念ふ


<愛国百人一首における決まり字>
ヤスミシシワガオオキミノオ(13字決まり)
<愛国百人一首における同音の数>
ヤ音5枚のうちの1
<歌意・鑑賞>
 「やすみしし」は「八隅知之」である。「八隅」とは、東西南北にそれぞれの間、東北・東南・ 西南・西北の四方向を加えた八つの方向のことをいう。すなわち、全地のことをいう。「八隅知之」 は「全地をしろしめす」という意味である。「食国」は「おすくに」で、しろしめる国の意。
 この歌でいっている「此処」は筑紫の国の遠の御門といわれた太宰府である。この時、旅人は、 太宰帥であった。神亀5年(728年)太宰少弐石川足人が「さす竹の大宮人の家と住む 佐保の山をば思ふやも君」と詠んだ歌に対する歌であった。旅人の家も佐保山にあった。 太宰府にあってその家のある佐保山を思いますかという問いに対して、大和もここ太宰府も 同じだと言っているのである。
 全地を治める大君のしろしめすこの国でありますから、平城京のある大和も太宰府のある ここ筑紫も変わりはなく大君のしろしめす点では同じなのであると思うのですよ。
 このような意味になるであろう。
<コメント>
 665年に大伴安麻呂(大納言)の子として生まれる。征隼人持節大将軍を経て、藤原不比等死後の 朝廷で重きをなす。晩年、太宰帥となり、帰京後大納言。731(天平3)年没。
 歌人としても有名で、武門の大伴家にあって、文武に長けており、その資質は子の 家持に受け継がれる。
 子の家持は、大伴の歴史と誇りを長歌に詠み、その反歌として 詠んだのが次の歌である。

敷島の日本の国にあきらけき名に負ふ伴の緒こころつとめよ

 「名に負ふ伴」は「大伴」を掛けてある。
 誇り高き一族であるが、家持は、祖父と父の大納言にはとどかず中納言に終わった。家持死後、 政争の中で、大伴氏は不遇を余儀なくされるが、9世紀になると大伴一族の伴善男が大納言と なるが、応天門の変で失脚する。この当時、大伴氏は、淳和天皇の名を避けて、「伴」氏に 改姓していた。

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2008年5月25日  HITOSHI TAKANO