和泉式部

あらざらむこの世のほかの思ひ出に
   今一度の逢ふこともがな


決まり字:アラザ(三字決まリ)
 和泉式部は、恋多き女の代名詞のような歌人である。才媛、紫式部も、清少納言も 恋の歌においては、和泉式部の情感にはかなわない。

 紫式部は「紫式部日記」の中で、和泉式部を次のように評している。
 「和泉式部という人こそ、おもしろう書きかわしける。されど和泉はけしからぬかたこそあれ。うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉の、にほひも見え侍るめり。歌はいとうをかしきこと、ものおぼえ、うたのことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまるよみそへ侍り。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢに侍るかし。はずかしげの歌よみとはおぼえ侍らず。」

 走り書きなどの中にも文才が見られるとか、即興の歌には目に留まる面白い一節を詠んでいるという評価がされているが、最後には「こちらがひけめを感じる歌よみとは思いませんが…」とさりげなく自分の実力を書いているところが紫式部らしいといえばらしいのだが…。  和泉式部は、大江雅致の娘。最初、和泉守橘道貞の妻であったので、夫の任地をとって、和泉 式部と呼ばれる。
 「○○式部」と呼ばれる場合、父、兄、夫などが式部省の官についていることで 呼ばれることが多かった。菅原家や大江家などの文章道の家は式部省の官につくことが 多かったので、和泉式部に場合は父親の官にちなんだと言われる。

 和泉式部日記は、敦道親王との恋を中心に描かれているが、敦道親王の前の恋の相手は、 敦道親王の兄の為尊親王であった。為尊親王との関係は、道貞が夫であるときからである が、通い婚の時代なので今の結婚観や倫理観では語れない部分があるだろう。
 為尊親王は25歳でなくなり、亡くなったあと弟の敦道親王との関係ができたのだが、 その敦道親王も26歳の若さで亡くなる。

 偶然ではあろうが、高貴な身分の生命を縮める魔性の女という気がしてくる。

 しかし、次の夫は、盗賊袴垂退治で有名な武勇の人藤原保昌であった。こちらは70を 越える長寿であったので、和泉式部魔性の女説は否定されよう。

 娘は、大江山の歌で有名な小式部内侍である。小式部の話は、「大江山」の歌のところ で紹介する。

 歌の意味にもふれておこう。
 もうじきこの世を去ってあの世に旅立つ私。あの世での思い出にもう一度この世であなた との逢いたいと願っています。
 愛した貴公子兄弟に先立たれ、最愛の娘にも先立たれ、最後の夫にも先立たれ、自分の 死が近づいて逢いたいと願うのは、最初の夫で小式部の父であった道貞であったという説 があるが、果たしてその真偽はどうなのであろうか。

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2008年5月2日  HITOSHI TAKANO