まだ・後輩への手紙(X)

Hitoshi Takano   APR/2019

平成生まれの後輩へ

〜平成のかるた界〜



前 略  
 今月末で平成が終わることになりました。平成生まれの君には、きっと感慨深いものがあるでしょう。
 今まで「昭和生まれのおじさん・おばさん」と言ってきた立場に、今度は自分の世代がなるのです。 新元号の元で生まれた自分たちより若い世代にいずれは「平成生まれのおじさん・おばさん」と呼ばれることになるのです。 そうすると私のような昭和生まれ世代は、「昭和生まれのおじいさん・おばあさん」と呼ばれることになるのでしょう。
 こんなことを書きましたが、要は、元号は時代を映し出すKeywordということを言いたかったのです。

 さて、私たちは競技かるたの世界で活動する仲間という共通点がありますので、この機会に平成のかるた界をざっくりと振り返ってみたいと思います。 しばらくお付き合いください。
 まず、大きなできごとは、競技の統括団体である「全日本かるた協会」(全日協)が、それまでの任意団体から社団法人化したのが平成に入ってからであったということです。 社団法人ということで、運営が整備されていきました。そして、制度の改正で、一般社団法人となり、さらに整備されることになりました。 公益法人化という案もあったようですが、公益法人となるにはハードルが高かったようで、一般社団法人に落ち着きました。 この、「法人」という組織形態の大きな変化が2度あったというのが、平成の大トピックといえるでしょう。
 全日協という観点でいえば、競技制定100周年事業や、機関誌である「かるた展望」の年2回発行などが大きなできごとであったと言えるでしょう。
 「競技かるた」という競技という観点での平成の大きなできごとは、「競技人口の拡大」でしょう。きっかけは、一編の連載漫画でした。
 平成20年から講談社の「Be Love」に掲載された「ちはやふる」です。編集者は福井渚会で競技かるたを始め、慶應のSFCを卒業した競技経験者です。 漫画としてもヒットし、その後、アニメ化、映画化されました。この「ちはやふる」が普及に果たした役割は非常に大きく、現在の競技かるた界の選手人口の増加に多大な貢献をしました。
 それまで多くのかるた選手が普及に力を注ぎましたが、なかなか競技人口は増加しませんでした。しかし、この一編の漫画により、爆発的に増加したといってよいでしょう。 大会の開催者は、参加申し込みの多さに嬉しい悲鳴をあげるようになりました。また、このことにより、大会運営についても、さまざまな試みや対策が練られ、かるた界全体の経験知として蓄積されています。
 全日協としては、増加の傾向はそろそろ沈静化しつつあるとみていますが、この底辺の拡大は、かるた界全体のパワーを底上げしたと言ってよいでしょう。

  さて、平成の約30年間を振り返って、斯界を俯瞰して気付く傾向を数点取り上げてみましょう。これは、あくまで私が勝手に感じている点なので、その点はご了解ください。

(1)大学を中心としたいわゆる「学生会」が全日協の中でも然るべく地歩を築く
(2)団体戦の隆盛と勢力図の変化
(3)タイトル保持者が時代を映す
(4)福井渚会の存在感
(5)国際化

 まず、第1点ですが、要するに大学の卒業生が一般会に入るのでなく母校のかるた会で全日協登録をして、学生・卒業生ともに活躍するようになったことが背景にあると思います。 特に平成で、大きな点は、平成初期の種村名人による慶應かるた会の活躍、種村名人復位のあとの続く望月名人も慶應かるた会でしたから、平成では7期となります。そして西郷名人の14期という早稲田大学かるた会の活躍ということになります。 早慶両かるた会で31分の21ですから、お分かりになるかと思います。もちろん、挑戦のほうでも、早慶以外に東大かるた会の挑戦者も登場してきました。
 全日協が主催する各会対抗の団体戦での優勝チームをみても、平成の間で、慶應が4回優勝、早稲田が6回優勝、東大が3回優勝、法政大が1回優勝と、31回のうち14回を学生会がしめています。平成31年、平成最後の年は、法政の初優勝、慶應が準優勝、京大が3位、東大が4位とベスト4はすべて学生会でした。 そして、全日協の総会などでも、書記として学生会から人をだしたり、「かるた展望」の作業でも学生会の人材が貢献をしています。こうしたことからも、それまでは、学生さんは卒業すると競技から離れていくように思われていた節のあるが学生会が 卒業生もまじえたサスティナビリティのある会として、全日協の中で地歩を築いたのが平成の時代だったと言えるのではないでしょうか。

 第2点の団体戦の隆盛は、職域学生大会や各会対抗戦、大学選手権のほか、高校選手権、都道府県ベースの国文祭や中学の団体戦など、様々な団体戦が行われるようになったことです。 昭和のころは、もっぱら職域学生大会と高校選手権くらいが盛り上がりをみせていたくらいですが、平成では団体戦が大きく裾野を広げたと思います。特に「ちはやふる」の流行で、高校選手権の裾野の広がりとフィーバーぶりは大変なものです。 この高校選手権ですが、平成にはいって大きな時代の転換点を迎えます。昭和の後期に発足し、第1回から10回まで10連覇を成し遂げた静岡県立富士高校の連覇がとまったのが、平成元年だったのです。破ったのは同じ静岡県の長泉高校です。 平成年間の高校選手権における静岡勢の優勝は、「長泉、大井川、富士、静岡雙葉、浜松北」と5校で14回になります。しかし、平成も半ばから東京都の暁星高校が9連覇を含む11回の優勝を遂げます。 あきらかに勢力図が変わりました。その間、九州勢の優勝や、山陰勢の優勝も単発でありましたが、平成のラスト2回は、福島代表と埼玉代表の優勝となりました。高校かるた界は平成の間に大きく変わったと言ってよいでしょう。
 団体戦の指標のひとつ職域学生大会に大きな変化がありました。夏・春の年度二回開催から、夏はD級、春はABC級と一年(年度)を通しての開催となったことです。これは参加チーム数の増加とそれに耐えうる会場の確保ができないという事情によるものです。 平成年間には第51回から第105回まで開催されました。平成最初の王者は慶應(7連覇)でしたが、慶應はその後53回・54回と優勝したものの平成での優勝は初期の3回のみです。昭和後半の連覇を遂げた慶應は王座を降り、その後、職域の畳では低迷することになります。 覇者に復活したのは早稲田大学で、平成の間に18回の優勝を遂げます。そして、新勢力も台頭してきます。優勝回数でみれば、東大が13回、立命館が9回、暁星が4回、東北大が3回、大阪大が2回です。京阪勢では、これに京大の1回がありますので、計13回となります。 団体戦は東日本が強いというイメージは過去のものとなりました。
 それは各会対抗戦でも同様です。こちらは3人団体ですが、福井渚会が6回、大津あきのた会が3回優勝しています。団体戦は、全国区の戦国時代の様相と言ってよいでしょう。

 第3点は、平成に活躍した名選手により、平成を前中後の3期にわけるとイメージが湧いて来るという意味合いがあります。  名人戦では、平成初期は種村永世名人でしょう。平成4年まで昭和の最後から続いてきた連覇で8連覇を遂げ、平田名人に負けて失冠するも、平成7年に復位します。 そして、望月名人の3期を挟んで、14期連続の西郷名人の時代を迎えます。平成の中期は西郷名人の時代といえるでしょう。そして、岸田名人、川崎名人と続き、平成最後の名人は粂原名人ということになります。
 クイーン戦は、平成前半は、渡辺永世クイーンの時代です。昭和最後のクイーンとなった渡辺クイーンは平成元年・2年とここまで3連覇。平成3年こそ山崎クイーンにその座を明け渡しますが、翌年奪還し、11連覇します。 斎藤裕理(→荒川裕理)クイーンが連覇しますが、そのあとは、楠木クイーンの無敗の10連覇となり、平成は渡辺・楠木両永世クイーンの時代と言ってもよいかもしれません。 その後、坪田翼クイーンに鶴田紗恵クイーン、山下恵令クイーンと続きます。坪田クイーンにしても山下クイーンにしても、挑戦者として楠木クイーンに敗退したものの、選抜大会や選手権で大きな実績を残しています。 坪田クイーンは選抜大会で5度の優勝、山下クイーンは選手権で5度の優勝を遂げています。そして、西郷名人の堅城を崩すことはできなかったものの三好選手の選手権4回、選抜4回の優勝は平成の大記録と言っても良いのではないでしょうか。 そして、平成最後の選抜大会は、粂原新名人が初優勝しました。名人奪取から、東京東、横浜、東京白妙と3大会で優勝しての選抜優勝でした。名人就位後の負けなしの活躍は、平成の掉尾を飾り、印象付けるものでした。 こうして、タイトル戦の優勝者の名前をみると平成のかるた界が見えてくるように思います。

 第4点は、ここまでの記述からもお分かりになるとおり、平成年間の福井渚会の活躍です。各会対抗戦で6回の優勝は会としてですが、個人の活躍でも福井渚会所属の選手の活躍は特筆すべきでしょう。 名人戦では、中谷選手の2回の挑戦が平成初期ですが、西郷名人14期のうち、土田選手が5回、三好選手が3回、川崎選手が1回と14分の9をしめています。そして、川崎選手がのちに名人となります。
 クイーン戦では、渡辺クイーンと平成期に6回対戦したのが山崎みゆき選手。6回のうち1回、渡辺クイーンからクイーン位を奪取しました。選手権では、中谷、三好、川崎、土田の4選手で7回の優勝を遂げています。 選抜では、山崎、三好、中谷、川崎、土田、鈴木大の6選手で10回の優勝を遂げています。平成における福井渚会の存在感は大きなものがあります。

 第5点は国際化です。これは、ストーン睦美選手の貢献が大きいですし、漫画「ちはやふる」の影響が大きいことは間違いありません。もちろん、お名前はあげませんでしたが、いろいろな選手が海外での活動に貢献されています。 私も、英文のホームページ作成で、インドの学生から連絡をいただいたりしたので、わずかながらお役に立てたかなと思っています。おそらく、国際化は大きくすすむでしょうから、柔道が国際化して「JUDO」になったように「KARUTA」として「かるた」から変化する部分もでてくるかもしれません。 戦略などが、外国人の感覚で変わってくる可能性があります。子音の聞き分けの強弱も影響してくることでしょう。

 囲碁・将棋でのAI旋風は、かるた界にはまだありませんが、データベース化とディープラーニングが進めば、AIによる戦略の変化がかるた界を席巻する日も近いかもしれません。

 最後に平成の慶應かるた会を見ておきましょう。
 平成初頭は、職域学生大会での元年・2年に慶應は3回の優勝を遂げています。しかし、その後は優勝から遠のいたままとなってしまいました。各会対抗の優勝も、平成初頭です。平成2年と3年、6年と7年の4回で、その後の優勝はありません。
 上記のように団体戦の結果は、会の勢いをどことなく反映するものです。個人に目を向ければ、種村名人の在位は平成元年〜4年までと平成7年、望月名人は平成8年〜10年です。選手権は、平成3年に大前、平成6年に種村が優勝しています。選抜は平成6年に種村が優勝しています。 個人のBIGタイトルはOB頼みという感じで、しかも、ほとんどが平成一桁です。
 慶應かるた会に何が起きていたのでしょうか?
 平成の前半を支えたのは、留年組です。最短修業年限の4年を超えて在籍していたメンバーが残っていたので、そこに4年以下の現役が若干名絡んで団体戦メンバーを維持していました。
 新入会員が少なく、会としての勢いがどんどん失われていきました。練習に行っても定刻に人がいない。行っても2〜3人ということもありました。そんな中、平成2年に開設した湘南藤沢キャンパス(SFC)から初の入会となったのが川端さんでした。 平成4年に彼女が入学したので、当時SFCで勤務していた私もSFC練習を立ち上げることができました。彼女が、留年組の先輩たちと会を支えてくれなかったら、おそらく公認学生団体としての慶應かるた会は、継続していなかったかもしれません。
 こうした会の状況がきびしい平成一桁が終わる頃、一定数の新入会員とチームの核となる高校時代の経験者の入会で、会としての存続を心配するほどの危機感は遠のきました。
 その後も、高校での経験者は入会しましたが、大事なのは大学で始めた新人を数多くA級にすることです。これをきちんとできないと会としての力にも勢いにもなりません。 平成中期の慶應はこれでもがいていたといってもいいかもしれません。
 平成後期の漫画「ちはやふる」のブームで入会者が増えたのは、会にとっては大きな力になりました。生え抜きA級も多く育ちました。
 この漫画の編集者で仕掛け人が、SFCの卒業生ということにも何かの縁を感じます。漫画の力で母校のかるた会を強くしたと言ってよいでしょう。
 平成最後を経験し、新しい時代で慶應かるた会を隆盛に導こうとしている皆さんには、こうした慶應かるた会の平成時代の紆余曲折というか会の栄枯盛衰というか、変遷を知っておいてほしいと思います。

 昭和から平成、そして新時代へ。競技かるた界と慶應かるた会は、新たな歴史を紡いでいくのです。
 また、練習に寄らせてもらいます。お手合わせをお願いします。
草 々

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